第3話―本題 ②―
そんなこんなで、佐藤が右手茸と暮らし始めて数日。
「……やっぱ、でかくなってるよな」
佐藤が唸ります。
赤ん坊サイズだった右手茸は、気付きゃあ幼稚園児程度のサイズに成長しております。
流石に「斬新なオブジェ」と思い込むのも限界です。とは言え、別段悪さをするでもないし、そもそもが動くようなもんでもありませんから、ちょいと不気味だからと捥もいじまうのも、子供を虐めてるみたいで何だか気が咎める。
良くも悪くも「当たらず障らず」がモットーの佐藤です。
(珍しい茸みたいだし、もうちょっと様子を見て、何処かの研究機関にでも写真を送ってみよう。これは、そう……観察記録ってやつだ)
とまあ、問題を先送りにする理由付けに、写真を一枚パシャ。翌日も一枚パシャ。その次の日も、次の日もパシャ……やがて、スマホの写真フォルダに十枚程も溜まった頃。
「……もう、どっから見ても大人の手だよなあ」
白く滑らかな肌理。すんなりと伸びた、ほっそりとした指。薄っすらとピンク色を帯びた爪先……壁で項垂れている右手茸は、すっかり大人の女性、それも、飛び切り別嬪に成長していました。
こうなると、佐藤の生活にも支障が出て来る……といっても、勿論、右手茸が何かしでかすってことじゃあありません。ただ勝手に、佐藤が彼女に気を遣ってるってだけです。それもまあ、腹ぁ壊してトイレに駆け込みドアを開けたままいきむだの、風呂上がりに真っ裸で胡坐かいてビールをグビリだの、これまで普通にやってたことが気恥ずかしくてやれなくなった、って程度のことなんですけどね。
「まったく……俺の部屋なのに、お前のせいで肩身が狭いっつーの」
壁に向かって、どこか嬉しそうに文句を言う佐藤。このまま二人暮らしが続くかに思われましたが。
「ん?」
ある日の仕事帰り、ドアポストに入れられた茶封筒に気付いた佐藤。封筒の裏には、アパートを契約する時に世話になった不動産屋の名前が押されてます。
まだ契約更新の時期でもないのに、と訝しみつつ、六畳間で封筒の中身に目を走らせますと、
「……貸主都合によるご退去依頼のご案内……?」
最終期限は半年後。出来るだけ優先的に新しい住居を紹介するので、早目の退去をよろしく……要約すると、そう書かれてます。どうやら、いい歳だった大家さんが亡くなっちまって、遺産を相続した身内の方はアパート経営に乗り気じゃない、と、そう言う事情のようでした。
成程、空き室が多かったのも、そう言った事情があったのかと納得しつつ、佐藤の目が吸い寄せられるように壁の一点に向かいます。
そこには、俯き気味の姿も
「……はは……ついに、このボロアパートとお別れか……まあ、此処よりマシな部屋を紹介して貰えそうだし……」
彼女との生活は、長くてもあと半年……その事実に、自分でも驚くほど狼狽えた佐藤が、誤魔化すようにそう呟きます。
そっから、あれよあれよと
不動産屋から、隣駅に程良い物件の出物があると紹介されて内見したアパートが、駅近、隣がコンビニ、ちょいと歩きゃあスーパーもあるという、思いの外の好条件。しかも、築浅な上にリフォームでもしたのか、部屋の壁なんかも塗りたて真っ白、それでいて、家賃は今のアパートにちょいと上乗せする程度。断る理由なんてありゃしません。
早速、来月からの住みかの契約と、今のアパートの退去届けを済ませ、部屋に帰って早速荷造り開始です。大した荷物もないもんですから、数日もかからず荷を纏め、仕事の合間を縫って実家の車を借りて新居に荷を運び込み、引っ越し作業は滞りなく進みました。
気付きゃあ今のアパートと縁が切れるまで後二日となった夜。
電灯だけ残った生活感の無い部屋の中で、佐藤が壁を見ながらさっき買って来た缶ビールで一杯やってます。
壁には、いつもと変わらずしっとりと項垂れてる右手茸。
どうせ取り壊し予定のアパートだからか、退去の立ち合いもなく、明日不動産屋に鍵を返せば引っ越し完了……とは言え、それまでに右手茸をどうにかした方がいいに決まってる。分かっちゃいますが、かれこれ数時間壁を睨んだままです。
やがて佐藤がビールを置き、脇に置いていたシックなデザインの紙の手提げを手繰り寄せると、そっから小振りな箱を取り出し、
「……デパートのコスメ売り場なんて、初めて歩いたよ」
そう言って、箱から瓶を取り出して右手茸の前でゆらゆらと振って見せます。
瓶の中で、桜色をした液がトロリ。それは数時間前、慣れない場所で緊張のあまり汗だくになりながら贖ったマニキュアでした。
蓋を捻り、空気に混ざる嗅ぎ慣れないにおいに顔を顰め、右手茸をそっと己の左手にとる佐藤。
そして、蓋に付いている筆に含んだマニキュア液を、右手茸の形のいい親指の爪に一刷毛、すぅーっ。
丁寧に、丹念に、恐らく仕事でもこんな顔をしたことないだろうって位真剣な面持ちで、彼女の指先を染めていく。
親指を塗り終え、次は人差し指。
中指。
薬指。
小指。
塗り終えたはいいものの、どれっ位でマニキュアが乾くのかもわからない佐藤は、左手に右手茸を乗せたまま片手で器用に瓶の蓋を閉め、
「うん、結構似合うじゃん」
真っ白な指先を彩る桜色を満足気に眺め、飲み残しのビールをゴクリ。
暫くそうしていると、ひんやりとしていた右手茸に自分の手の温もりが移り、何だか本当に女性の手を握っている様な気すらしてきて、ついつい、彼女を取った手に力が籠っちまいました。その瞬間。
ぽろり。
壁から右手茸が外れました。慌てた佐藤が壁に目を遣ると、彼女がくっ付いていた部分から、
さあっ。
水が滴ります。それはまるで、佐藤との別れを惜しんで流す涙の様で……気が付きゃ、佐藤の両の目からも涙が零れておりました。
「そっか……俺、お前の事……」
甘く疼く胸に、今更になって己の気持ちに気付いてももう遅い……そもそも彼女は、人の一部ですらありません。
道ならぬ恋ならば、いっそ気付かなければよかったものを……己の左手にくたりと身を預ける右手茸に頬擦りし、はらはらと涙を零し続ける佐藤。彼女を抱えるように背を丸め咽び泣くうちに、いつしか眠りに落ちたのです。
翌朝、窓から差し込む朝日に背を炙られて佐藤は目を覚ましました。泣いて腫れぼったくなった眼でぼんやりと目を向けた先、すぐそこの床には、真っ黒にしなびた、人の手首程もある大きさの何かが転がってます。
美しかった彼女のなれの果てに、思わず身体に力が入り、そのはずみで左手に何を握ってることに気付きました。
開いた手の上には、桜の花びらのような欠片が五枚。
佐藤は欠片をハンカチに丁寧に
こうして、一つの恋が終わりを告げたんでございます。
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