蝉の声
首のない女が対面に座っていた。
座れるか座れないか、微妙な時間帯だった。開閉扉が閉まる前に滑りこむと、「駆けこみ乗車はご遠慮ください」とアナウンスに叱られた。
縦長の車両で長い座席が向かい合い、電車の発車に合わせて吊り革が一斉に揺れている。ちょうど端の方に一人分の隙間が空いており、他の乗客に取られる前に腰を据えた。ハンドバッグを膝に乗せ、一息つく。顔を上げると、首のない女が向かいの座席にいた。
あまりにも自然に座っているので、頭の理解が追いつかなかった。すぐ隣のお爺さん、新聞を広げている場合じゃないよ。行儀が悪いよ、じゃなくて。現実逃避をしても目の前の光景が書き換わるわけはなかった。首なし女は目と鼻の先に座っていて、他の乗客が気にしている様子はなかった。
もしかして、自分にしか見えていないのだろうか。悲鳴を上げるにしても、失神するにしても、機を
そういうわけで、全身に脂汗をかきながら見て見ぬ振りをした。俯いて携帯電話を触っていても、異物に眼球が吸い寄せられた。首がないのは
幽霊に季節感を求めるのは間違いかもしれなかった。周りがダウンジャケットやセーターを着こんでいる中で、場違いなのは否めない。それに、何だあの麦わら帽子は。自分とほとんど同じ体格なのに大きすぎる。頭に被っても、ほとんど顔が隠れてしまうだろう。
首のない女は麦わら帽子に妙に生白い手を置いて、行儀良く座っている。真向かいに座った自分を気にした様子はなく、血が滲んだ首の切断面の上で、こちらの
思考が混乱していたのだろう。悠長に死因を考えた。あれほど一直線に首を切断できる道具があるだろうか。まるでギロチンで処刑された罪人に見える。その外国の幽霊が現われるのは、あまりに時代錯誤だろう。ましてや現代風の
事件に巻きこまれたのだろうか。首を両断されるほどの猟奇事件なら、大いに世間を賑わせただろう。少なくともあの背格好の女性が被害に遭ったという記憶はない。
再び携帯電話の画面に目を落とすと、違和感を覚えた。視界の端が
背筋が凍りついた。そうだ、頭が隠れるほどの麦わら帽子なら、その下に生首があってもおかしくない。
その考えに至った途端、地下鉄の電車はトンネルに突入した。こもった轟音が鳴り響く。どこか聞き慣れた雑音が鼓膜に触れた。くぐもったその鳴き声は、蝉だろうか。
トンネルを抜けた。季節外れの蝉の声に気を取られた隙に、首なし女の姿は消えていた。その座席に腹が出た中年の男性が勢い良く尻を乗せた。新聞を広げた老人が露骨に迷惑そうな顔をした。
季節が過ぎた。すっかり首なし女に遭遇したことなど忘れて、友達と洋服店に来ていた。店の外では、街路樹にミンミンゼミが止まっていた。ひと夏の恋を歌う大合唱だ。
服を選び、試着室で試着していた。姿見に映った己の姿に、
差し入れられた麦わら帽子を何とはなしに受け取って、はたと気づく。姿見に映った自分の服装を眺めた。水色のカーディガンに薄手のブラウス。ロングスカートとサンダルを履いている。
震える手で、自分の意思とは無関係に麦わら帽子を被った。髪を伸ばした頭がすっぽりと収まる。暗く閉ざされた視界の外で、くぐもった蝉の鳴き声が聞こえた。
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