雑踏

 人にぶつかった、と思った。

 駅の構内で、混雑する時間帯だった。乗り降りする客でごった返し、鳴り響くアナウンスの前後で次々と改札口に定期券や携帯電話が押し当てられていく。私もその一人だった。

 いわゆる歩きスマホだった。画面に映し出される映像に夢中になって、前を見ていなかった。勘や気配で衝突を避けられるという、根拠のない自信があったのだろう。手元の機械に集中するばかり、視界に革靴のつま先がかすめたのに反応が遅れた。

 顔を上げたときには、背広姿の会社員が目前に迫っていた。こちらを避ける様子はなく、その眼鏡のレンズは反射してどこを見ているか定かではない。これはぶつかったな、という諦観ていかんが先によぎった。

 衝撃に備え、身を固くした。頭の中では怒声が鳴り響き、か弱く謝る未来の自分を思い描いていた。それでも懲りずに歩きスマホを続けるのだろう。

 ところがその瞬間は訪れなかった。恐る恐る顔を上げると、通行人が迷惑そうに自分を避けていくのが見えた。あの会社員の姿はない。

 背後を振り返る。雑踏の中に紛れたのだろうか、どれも似たスーツ姿の背中ばかりがあった。少し放心し、また手元のスマートフォンに目を落とす。

 そういえばつい最近、この駅のホームで人身事故があったことを思い出した。

 この雑踏の中には、生身でない人間が何人いるのだろう。

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