イマジナリーフレンド

 私の記憶には隙間がある。

 幼少時、仲の良い子がいた。いつも当たり前に家にいて、お人形遊びやかくれんぼをして遊んだ。なのに、顔も名前も、性別すら覚えていないのだ。

 私はいわゆる鍵っ子だった。両親は共働きで、夕方になるまで一人だった。引っ込み思案で、上手く友達も作れなかった。それでも寂しさを感じなかったのは、その子がいたからだ。不思議なことに外へ出たり、第三者がいる場で遊んだことはない。

 イマジナリーフレンドという言葉を知った。幼い子供の頃に、架空の見えない友達を作り出すという。私は懐疑かいぎ的だった。母に聞いても、そういった子の話を娘の口から聞いたことはないらしい。

 その子と遊ばなくなったのはいつ頃からだろう。中学に上がり、わずかながら友達ができた。外で遊ぶようになって、いつしか名前も知らない友達のことを忘れていった。

 高校に進学した。中学時代に仲良くしていた子と進路が分かれ、全く新しい環境に放り出された。生来の引っ込み思案が災いし、クラスに馴染めなかった。何かのきっかけでいじめの標的となり、上履きを隠されたり机に落書きされる日々が続いた。

 辛かった。何も悪いことをしていないのに、どうして誰かに陰口を叩かれなければならないのだろう。家でも口数が少なくなり、すぐ部屋に引きこもった。とても親しい子と遊んだはずの場所なのに、隙間風が吹く感覚がした。

 とても酷いことがあった。思い出したくもない。

 ただ教室の至るところから聞こえる嘲笑だけが鼓膜にこびりついている。どうしてそこまで人を憎めるのだろう。いや、あの人たちは憎悪など抱いてはいない。ただ、教室の和を乱す異物を排除しようとしているだけだ。白いからすが群れから殺されるのと変わらない。

 なら、人間と鴉との差はどれほどあるのだろう。

 嫌気が差した。悲観は将来へと飛躍し、これから一生に渡って他人と付き合わなければならないことに絶望した。独りで生きる方がずっと良い。この狭い社会で、その希望は叶わないだろう。

 このときの私には、残された選択肢は一つしかなかった。放課後、屋上へと向かった。本来は施錠されている屋上の扉が、素行の悪い生徒たちによって開放されていることを知っている。重い扉を開けて隙間からうかがう。足元には煙草の吸殻が転がっており、夕空の下には誰もいなかった。

 胸を撫で下ろした。最後の時間は誰にも邪魔されたくはない。

 給水タンクのある屋上は解放感があった。ここは空が近い。茜色に染まった雲がすぐ頭上を流れている。私の体は下にしか落ちないけれど、この窮屈きゅうくつで不器用な入れ物から出られたら空に浮かぶことができるだろうか。

 屋上は金網に囲まれていた。菱形の隙間から外側が見える。街並みが広がっていた。見飽きた場所でも、視点を変えると違って見える。中規模のビルが建ち並び、そのあいだを家々が埋める。方角からすると、あのあたりが私の家だろうか。

 決心がにぶる前に、金網の隙間に指をかけた。金属質な音が鳴る。運動音痴な私でも、これぐらいは上ることができるだろう。それこそ死ぬ気でやれば。

 靴のつま先をかけた。そのとき屋上の空を風が吹き抜けた。制服のスカートが揺れて、何かが引っ張った。

「まだそばにいるよ」

 忘れていた声がささやいた気がした。

 指先から力が抜けた。その場に崩れ落ちる。顔を覆い、嗚咽おえつを漏らした。今まで澱んでいた感情が涙とともに流れていく。泣き腫らした目で見上げた空は、さっきよりもずっと広がっていた。

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