呼び声

 ボイドの呼び声という現象がある。

 自殺願望がないにも関わらず、不意に高いところから飛び降りたくなる。車の往来が激しい車道に足を踏み出したくなる。まるで虚空から呼ばれているかのように。

 思うに、死までのハードルの低さも原因の一つだろう。足を一歩踏み出すだけで、自らの命を投げ出すことになるのだ。あるいは、禁を犯したくなるカリギュラ効果と似て非なる心理状態なのかもしれない。

 私の場合は、地下鉄のホームだった。アナウンスが間もなく列車の到着が近いことを告げる。ヒールが白線を踏み越えて、黄色い線を踏む。砂利が敷かれた線路が目下もっかにある。暗い地下鉄の向こうから、先頭車両の眼光が迫ってくる。ほとんど無意識のまま、尖ったヒールのつま先がホームからはみ出した。

 乱暴に肩を掴まれた。

「何してんだ、あんた」

 背広を着た中年の会社員だった。その怒声でようやく我に返る。私は、一体何をしようとしていたのだろう。一歩下がった目前で、角ばった車体が視界をさえぎる。運転手は異常事態に気づいていないのか、駅名を告げるアナウンスが響き渡ると同時に開閉扉が開いた。次々と乗客が下りてくる。私たちが邪魔な位置にいるにも関わらず、揉め事には関わりたくないのか横をすり抜けていく。

 ふと、足元を見下ろした。

 ホームと電車のわずかな隙間が垣間見えた。そこには虚空がわだかまっているだけだ。何か不気味なものがあるわけではない。

 なのに、目が吸い寄せられた。濃縮された虚無が手招きしている気がする。深い奈落へと繋がっている。きっと、私を待っている。

 だめだ、見るな。会社員に体を揺さぶられて正気に返るまで、私はその隙間から目を離せずにいた。

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