自殺の名所

『あなたの心の隙間に寄り添います。重大な決断をする前に連絡をお待ちしております。0120――』

 潮で錆びた縦看板には、そういった文言とともにフリーダイヤルの電話番号が記載されていた。俺は鼻で笑いそうになる。

 これが自殺の名所に設置されているという、自殺防止の立て札なのだろう。これがどれほどの効果があるのか、少なくとも俺の希死念慮きしねんりょは薄れなかった。

 断崖絶壁にいた。直下の岩礁で波濤はとうが砕ける音がする。夜の海は黒々としていて、絶望的な色をしている。白波が立つ崖下は遠く、ここから飛び降りたらまず助からないだろう。

 もう良いのだ。元々人間関係は上手くいっていなかった。日常にすり減り、どんどん社会の片隅に追いやられる感覚があった。人と関わらずに生きるには、どうにもこの社会は狭すぎる。

 おあつらえ向きに、近くに自殺の名所があった。日本海を臨む名勝で、その絶景から国の天然記念物にも指定されている。その華々しい経歴とは裏腹に、自殺者が絶えなかった。数か月に何人かは身を投げている。実際に崖の上に立つと、その理由が納得できた。ここは死が近すぎる。

 眼下では絶えず潮が渦巻いていた。まるで新たな獲物を待ち構えて、大口を開けている。一歩踏み出そうとして、足がすくんだ。そのとき、俺は悟った。半端な決意で命を投げ出すには、この舞台はあまりに仰々ぎょうぎょうしい。

 一歩、二歩と後退した。すっかり死ぬ意欲が萎えていた。生きるのも死ぬのも半端者だと自嘲しながら、踵を返そうとした。その寸前で、夜の海を望む崖の突端を何かが掴んだ。

 それは黒ずんだ指の形をしていた。ただし一本一本が成人男性の体格に比するほど太い。次に現われたのは、長い髪に覆われた頭部だった。その輪郭は女性にも見えた。巨大な顔面を半分覗かせて、唖然とする俺を髪の隙間から黒々とした瞳が凝視した。

 もう片方の大きな腕が持ち上がり、こちらへと伸びてきた。俺は立ち竦んだまま、逃げることも叶わなかった。

 爪の先が眼前まで届いて、不意に着信音が鳴った。その動きが静止する。

 懐に入れたままの携帯電話だった。金縛りから解き放たれて、悲鳴とともに尻餅をつく。その拍子に携帯電話が投げ出された。虚ろな瞳がその液晶画面を見下ろす。

 崖の上で輝きを放っていたのは、例のフリーダイヤルの番号だった。何もかもが不可解で、俺は思考を停止していた。今にして思えば、どうしてかかるはずのない着信が俺の携帯電話にかかってきたのだろう。

 着信音が鳴り止むまで、しばらく呆然としていた。気づけば、巨大な女の顔面は消えていた。

 ふと立て看板を振り返った。そこには何の痕跡もなかった。

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