月の下

 お盆の帰り、少年とその家族はフェリーに乗っていた。

 潮風を浴びていた。三等客室は雑魚寝の大部屋で、船のエンジン音が直接伝わってくる。とても眠れないので、毛布を被って横になっている両親を置いて通路に出た。雑多な靴がひしめき合う通路をかきわけると、上に設置された大型テレビの番組を見ていたり船酔いに唸っている船客がいた。

 船尾の後方甲板に通じる扉を開けると、人いきれから解き放たれた。階段を上ると夜空が広がった。少し曇っており、月は見えなかった。幸運にも他に船客はおらず、広々とした甲板を占有できた。潮が固まってざらついた手すりを掴み、船の外を眺める。黒い大海原だった。フェリーの航跡が白く、暗い海面に尾を引いていた。

 船舷せんげんには救命ボートが吊り下げられ、船員が作業する区域には係留ウィンチが見える。今は人影がなく、フェリーの船体が波をかきわけて進む音がするだけだ。

 離島にある両親の実家からの帰りで、同じ県でありながら海を渡らなければならない。少年はこの時期が億劫おっくうで仕方なかった。ただでさえ人より野良猫が多い島だ。虫刺されにも悩まされる。

 ただ、船の甲板から眺める景色は嫌いではなかった。明るい時間帯にはトビウオが海面を飛んでいた。港には大きなクラゲが浮かび、丸い傘を膨らませていた。

 何より、暗い海の下にいる何かを想像するのが好きだった。大きなフェリーに乗っていても、この大海原では小舟に過ぎない。人間などいわんやだ。遠い水平線を泳ぐ巨大な影を思い描くと、心がおどった。

 そうして数時間にも及ぶ船旅の無聊ぶりょうを慰めた。実際には鯨を見ることもまれだ。他の船とすれ違い、野太い汽笛が鳴る。港に到着し、少しのあいだおか酔いに悩まされる。そうして現実に戻るのだろう。

 海風に吹かれていると、曇天どんてんに亀裂ができた。その隙間から月明かりが下り、海面を照らした。

 最初は海が大きくうねっているのかと思った。月の色に輝く海水が盛り上がり、大きく隆起りゅうきする。治まるどころかさらに海面は膨らみ、フェリーの煙突よりも高くそびえた。

 少年は目を見張った。何かが海水を破って、姿を現そうとしている。

 頭上で風が流れ、再び雲が月光を隠した。月に手を伸ばしていた何かは、ゆっくりと海面の下に潜っていった。

 少しのあいだ唖然あぜんとしていた。船内のアナウンスが流れ、到着港が近いことを告げた。夢心地に近い足取りで、彼は三等客室に戻る。その途中で思った。

 あのまま雲の隙間が隠れていなかったら、暗い海から何が出てきたのだろう。

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