04:朝

 朝。まどろみの中、甘い香りがぼくの鼻をくすぐった。

 瞼を開けると、目の前には自宅の寝室と違う風景。

 普段と違った寝起きに思考がまとまらず、しばらくぼんやりとしてしまった。


「ああそっか。ここは、船内か……」


 ベッドから起き上がると、枕元に赤い花が置かれていることに気づく。


「この匂いはこれか」


 どおりで甘い香りがしたわけだ。

 誰がこの花を置いたのか――いや、探すまでもないか。

 ベッドから下を覗く。


 同居人の様子を探ると、ツタを使って雑巾で窓を拭いているところだった。

 てっきり一日中じっとしているのかと思えば、意外なことに家事をするらしい。

 きっとこの花は彼女が置いたのだろう。絵のお礼だろうか。


「あんまり眠たくないな」


 梯子を降りながら独りごちる。

 あれから、僕とバトラーは本の物語談義に花を咲かせてしまい、僕が部屋へ戻ったのは明け方近くになってからだった。


 そのときは時計を見ていないのでわからないが、四時頃ぐらいか。

 部屋に戻ったときにはプランも立ったまま眠っていて、僕は彼女を起こさぬよう静かに床についたのだった。


 梯子を降りきると、脇に置いておいたブーツを手に取る。日本の習慣に慣れきってしまっているので、自分の部屋の中で靴を履くのは奇妙な感じがした。


「おはようプラン」


 挨拶すると、プランは窓を拭く手を止めてこちらに振り返った。

 僕は花を持つ手を軽く掲げて、


「この花、僕がもらっていいのかな?」


 訊ねると、驚くべきことにニコリとプランは小さく微笑んだ。


「んん……?」


 寝起きで目がかすんでいるのかと目をこすってみるも、彼女の表情は変わらない。

 予想外すぎる反応に僕は戸惑った。


「あ、ありがとう。大切にするよ」


 男を捕食する魔物なだけあって、その笑顔の破壊力は抜群だった。それも、昨日はずっと無表情を貫いていたので、なおさらだ。

 無口キャラの笑顔とは、テンプレを完璧に抑えてるな。


「さて」


 貰った花は後で花瓶に刺しておくとして、何をしよう。

 壁に掛かった時計を見ると、時刻は七時半だった。


 三時間しか寝ていないというのに不思議と眠たくない。原稿の締め切りに追われた時は睡魔と悪戦苦闘していたのだが、この身体はそれなりにタフなようだ。


 船を探索したい気持ちもあるが、おとなしく部屋にいた方がいいだろうか。

 この後どうするかを悩んでいると、部屋にノックの音が響いた。


 ナイスなタイミングだ。おそらく僕に用事がある人だろう。

 扉を開けに行こうとしたが、扉はプランが先に開けていた。


「レインいる?」


 開けた扉から、昨日初めて出会った時みたいに、ルーシーがひょこりと部屋の中をのぞき込むように入ってきた。昨日もそうだったが、行動の一つ一つに可愛さを感じて自然に笑みが漏れてしまう。


「いるよ」

「おはよ。レイン」

「おはよう」

 短い挨拶を交わすと、ルーシーが部屋の奥まで入ってきた。

「ドラちゃんもおはよ」


 やはりというべきか。ドラちゃんという言葉にプランは反応を示した。

 だが、なぜか今回は注意深く彼女の表情を観察しないと、わからない程度の反応だった。

 具体的には、眉毛が微妙に下がり、少し口を結んだような表情になっている。


 ルーシーに対しては、いつもこうなのだろうか。

 僕の時はあからさまに嫌そうな表情をしたのでわかったが、これではルーシーが気づけないのも納得だ。


「どうやらドラって名前は好きじゃないみたいで」


 ルーシーに対しても無言のプランに変わって、僕が代弁する。


「えっ」


 ルーシーが驚きで目を瞬かせた。


「そうなの?」


 ルーシーの問いかけに、プランはゆっくりと頷いた。


「良い名前なのに……」


 肩を落とすルーシーを、プランは慰めるようにツタでちょんちょんと叩いていた。

 その様子がなんとも微笑ましい。

 どうやら、ルーシーの一方的な解釈とかでなく、仲がいいというのは本当らしい。


「ねえ、レイン」

「ん?」

「あの絵、レインが描いたの?」

「そうだよ」


 相づちを打つと、ルーシーは目をぱちくりさせて驚いていた。


「すごいすてき」

「ありがとう」


 とてもシンプルな感想だったが、絵を褒められるのはいつだってうれしいものだ。


「これなんて読むの? ルーシー、ミズミナ語しか読めないから……」

「あー……」


 忘れていた。

 この世界にも多くの言語があると思われるが、広く使われているのは僕らが会話で使っているミズミナ語だ。もちろん、この世界に日本語や英語なんてものは存在しない。それなのに、僕はカッコつけて『PLAN』と書いてしまった。


「プランって読むんだ」

「プラン?」

「あの絵を描いたときに、僕がプランって名づけたんだ」

「そっか」


 ルーシーは小鳥のさえずりみたいにウンウン唸って、絵を眺め続けていた。

 絵を眺めるルーシーを見て、ふと思う。

 僕はこの世界の文字を読むことができるのだろうか、と。


 レインになったからか、この世界の言語で自然に会話はできているが、文字についてはまだ触れていない。実際に見るまで読めるかどうか自信がない。


「うーん」


 ルーシーをよそに腕を組んで考える。

 後でバトラーから本を借りてみよう。読めなかったら、そのときだ。


「ドラも良い名前だけど、プランもすごく良い名前。これからはルーシーもプランって呼ぶ」

「そうするといいよ」


 プランと呼んでも不機嫌にならないのは実証済みだ。


「ねえ、レイン。ルーシーも描いてほしい」

「いいけど、ルーシーは僕に用があったんじゃないの?」


 絵のことで夢中になっているルーシーに問うと、彼女はあっと声を漏らした。

 どうやら用事を忘れていたらしい。


「団長が呼んでる」

「団長が?」

「団長室にいると思う。ルーシーが案内する」

「大丈夫。顔とかも洗いたいし、僕一人で行ってくるよ」


 僕はルーシーの提案を断り、一人で廊下に出た。

 思えば、昨日は色々とあって団の事を聞かされていなかった。

 ジークはおそらく、そのことを話したいのだろう。

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