野薔薇姫 街の章 二


 手漕てこぎポンプの本体は、やはり井戸の底に落ち、錆びた頭の部分だけを濁った水の上に晒していた。

 俺は井戸の名残なごりの石積みにひとりで腰を下ろし、ニッカボッカ、いや新庄と名のった男の体が空くのを待った。

 新庄は他のふたりを案内し、屋敷跡や、この付近一帯のなにやらを多弁に説明している。

 もう一人、ヘリのパイロットもいるわけだが、これはヘリの運行以外ノータッチらしく操縦席で待機したままである。

 新庄たちの話を漏れ聞くうち、チヨコとは無縁なこの場の状況だけは、どうやら解ってきた。

 たとえば作業着姿の助さんが、

「いいんじゃないでしょうか。地盤もしっかりしてますし、地の利もなかなかです」

 とか言うと、スーツの黄門様は、

「しかし他とのバランスも考えて、隣の山も今一度――」

 などと、しかつめらしくつぶやいたりする。

 すると新庄は、明朗快活な小金持ちを演じる売れない脇役、そんな感じで一気にまくしたてる。

「はい隣山となりやま。斉藤さんの山ですね。確かにあそこもいいですねえ地盤。でもあそこだとですねえ、私もその後ちょっと勉強したりしてみたんですけど、あそこは県道から上がる途中に渓谷がありますでしょう。あれは広いです。それに深い。そりゃもう広い深い。架空索道かくうさくどうでも張らないと運べませんよ鉄骨とか重機とか。作業員の方々だって、下手すりゃ県道脇からモノレール新設だ。その点ここ、うちの山ならなんの苦労もないです。目と鼻の先のこの廃墟に、宿舎だってすぐ建ちますでしょ」

 黄門様と助さんは微妙な苦笑を交わすが、それから助さん、やや襟を正して黄門様に、

「なんの苦労もないというわけにはまいりませんが、確かにここは県道から村道が繋がっております。今はすっかり藪に隠れてますが、元々トラックが入れる路幅なのも確認済みでして」

 黄門様、腹の内は見せず鷹揚おうようにうなずく――。

 そんなこんなの視察を続けるうち、黄門様と助さんは廃屋を前にちょっと内輪の話に入ったようで、格さんならぬうっかり八兵衛だったらしい新庄だけ、二人から離れて、ようやく俺のほうにやってきた。

「いや、お待たせお待たせ」

「……新しい県北幹線の話ですか?」

 この不景気、こんな山奥に新しいバイパスや鉄道ができるわけではない。例の大震災の余波で、老朽化していた高圧線鉄塔のあちこちに不具合が生じ、やむをえず将来を見越した迂回うかいが計画されているのである。

「そう。あれの鉄塔、どこに通すか決めてるの」

 俺と内緒の金銭授受を済ませた後だからか、新庄はすっかりタメ口になって、しげしげと俺のガタイを見やり、

「しかし失礼だけど、ほんとにデブ専なのねえ、その千代子って子は」

「というと……俺みたいなのが、他にも?」

 三万も貰ってしまった俺は、何を言われても腹が立たない。それよりチヨコの話が聞きたい。

 新庄は懐からマルボロを取り出し、目顔めがおで俺に吸っていいかと訊ねた。思ったより良識があるようだ。

 俺がうなずくと、俺にも一本勧めてくれてから、

「――今んとこ、確かなのは二人だけかな」

 ライターは見え見えのダンヒルだった。

「僕が生まれる前と、あと僕が中学の頃にひとり。どっちも翌朝、自力で下山してきたって。ここはもう戦後すぐから空き家だったけど、あの頃は、まだ村道が生きてたからね」

「失礼ですが、あなたは、この家の――」

「うん。ここはね、うちの分家だったの。曾祖父の代に枝分かれして、僕は本家。本家の現当主ってとこ。まあ分家っつっても色々あって、土地の名義は、ずうっとうちなんだけどね」

「はい……で、あの女の子は」

「……おたく、どこまで見たの?」

「えーと、どこまでというか……昨日の晩いっしょに夕飯食って、泊めてもらって、朝はあなたがたのヘリが着くちょっと前まで、ここでいっしょに」

 新庄は目を見張って、

「へえ。そりゃすごいなあ。怖くなかった? だって、その……」

 自分の首を切る仕草をしながら、

「いきなり首ポロリとか、ね、あるんでしょ?」

「あ、はい、ありました。けど……なんか、とっても寂しそうだったもんで」

「いい度胸してるじゃない、おたく」

「はい。いやまあ、なんつーか……まあ正直、俺なんか首のない子供より、首のある世間様のほうが結構キツいというか……」

 新庄は改めて俺の風体を見定め、察したようにうなずいた。

「僕が聞いた話じゃ、最初の人は、もうバラ園にいるうちにポロリを見ちゃって、すぐ逃げだしたって。もう一人は家に上がってからポロリで、そのまんま気絶しちゃって、気がついたらあの廃屋でゴロ寝してたとか」

 おお、やっぱりそのパターンもありか。

「どっちみち、まだ心霊スポットとか騒ぐ時代じゃなかったし、その後はもう何十年も道が塞がってたわけだし、うち以外、もう気にする人もいない話なんだけど……まさか今どき、また出るなんてねえ」

 新庄は悩ましげにこうべれ、電力会社の二人に目をやった。

「あの業界の人、ああ見えてずいぶん縁起かつぐのよ。原発みたいに何千億ってこたないけど、それでも一本何億かけて、何十本も建てて、何十年かかって元とるわけじゃない」

 それから、すがるように俺を見て、

「お願い。ここはすっぱり忘れて。誰にもなんにもしゃべらないで。ツイートしないでブログもやめて。今どきド田舎の山なんて持ってたって、一文にもならないの。かえって税金が大変なの。この契約流れると、うちのアホ娘が峰女みねじょに行けないの。ド田舎の中卒で終わっちゃうの。そうなったら死ぬとか言ってんの。千代子のお仲間になっちゃうの」

 峰女――峰館女子学園は、いちおう字が読めて九九をそらんじられる程度の女子であれば、五年がかりで一般常識から家政関係、お茶お花おピアノお追従ついしょう等を刷りこませ、形だけでも良家の花嫁候補に仕立て上げてしまうという、私立の全寮制高短大一貫校である。ただし当然、目の玉の飛び出るような金がかかる。

 新庄は裕福に見えて、あんがい苦労しているらしい。まあ立派な皮財布にこれ見よがしのキャッシュを持ち歩く時点で、まともな金持ちでないことは判る。かなり賭博的な人生と見た。そしてここまで口が軽いと、博奕ばくちは巧くない。

他人ひとにしゃべる気はありません。ただ、あの子の――チヨコの話だけ、詳しく聞かせてもらえますか」

 俺は生活能力に反比例して、至誠の塊のような顔ができる。

 新庄も納得したようで、懐から折り畳みの携帯灰皿を取り出し、お互いの一本目を始末してから、二本目に火をつけた。

「――僕もおふくろから聞いただけだから、ほんの話だけね」

「はい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る