街の章 (全十話)

野薔薇姫 街の章 一


 いっそあの家がきれいさっぱり消えてくれていたら、すべては俺の一夜の夢と、むりやり頭を切り換えられたのかもしれない。

 しかし一面の草叢くさむらのそこかしこには、朽ち果てた木材や腐った畳が、思い当たらないでもない配置で顔を覗かせ、茅葺かやぶき屋根の末路と覚しい汚物の堆積も散見された。

 風呂と勝手口があったあたりのちょっと向こうには、外便所らしい小さな板葺き屋根が、辛うじて屋根の形を残したまま地にかしいでいた。

 そもそも俺自身、ただの地べたではなく、根太ねだの落ちた廊下の残骸の上に立っている。

 ――結局【目覚めれば廃屋】パターンかよ、おい。

 たった今まで非現実的なりに生々しい、ある意味充実した【翌朝イベント】をこなしていただけに、俺は突然純白のウニになってしまった脳味噌をもてあまし、木偶でく人形のようにその場に突っ立っていた。

 数分後――あるいは十数分後なのか、

「あ、あんた誰?」

 ちょっとイッセー尾形の声に似た、真面目なんだか軽薄なんだか判別しがたい抑揚よくよう誰何すいかされ、俺は何も答えられないまま機械的に裏庭を振り返った。

 裏庭も、お約束どおり、無節操に雑草が茂る空き地と化していた。

 空き地の向こうには、さっきの成り行きどおり、野薔薇ではなく無節操な潅木かんぼくやぶが広がっている。彼方かなたに連なる森と夏山だけが、無神経な書き割りのように厳然と揺るぎない。

 その空き地のど真ん中に、いつの間にか着陸していた小型ヘリコプターを見て、俺はますます脱力し、木偶人形どころか穴の開いた空気人形になってしまった。

 こんなチンケなシロモノが、あの纏綿てんめんたる夢を一瞬に吹き飛ばしてしまったのか。尻尾こそ長いものの、胴体などせいぜいワンボックスカーを一回り脹らませた程度ではないか。空飛ぶオタマジャクシがあれほど大きく見えたのは、あくまでチヨコの警戒心がそう見せていただけなのか。

 ヘリコプターの前には三人の男が、水戸黄門のクライマックスのような配置で立っていた。

 ご老公スポットに位置しているのは、見るからに恰幅かっぷくのいい初老の男である。俺ほどではないがやや過剰な腹の膨らみを、フルオーダーらしい麻のスーツで自然な豊饒に見せている。

 その前にいる助さん相当は、俺より少々年上か、痩せ型で、濃青色の半袖作業着姿。作業着の胸には『奥羽電力』とオレンジ色の縫い取りがあった。

 そして格さんスポットにいるのが中肉中背、ゴルフ場の小金持ちっぽい茶系のニッカボッカ。こちらは俺と同年輩らしく、声ほどではないが、やはりイッセー尾形に似ている。

「あ、あんた、なんで、どーやってこんなとこに――」

 ニッカボッカが俺に詰め寄った。

 俺は彼らの姿や声をしっかり認識しつつ、まだまともに反応できなかった。

 結果的に彼らを無視する形で、頭の芯がうろのまま緩慢かんまんに裏庭を見渡すと、あのギコギコ井戸のあったあたりには、土台の丸い石積みだけが残っていた。鋳物いもの製の本体は、それを支える木製の蓋ごと、井戸の中に落ちてしまったのだろう。物乾し場などは無論残っていない。

 いつまでもウスラボケっとしている俺を見て、後ろの二人は、あからさまな不審の色を浮かべた。

 するとイッセー尾形、いやニッカボッカの男は、なぜか俺よりもそっちの二人の顔色のほうが問題らしく、焦った様子で、俺にわざとらしい笑顔を向けてきた。

「――あ、なんだなんだ! えーと、そうそう田中さん! 田中さんじゃないですか。いやお久しぶり。そんなラフなお姿なんで、ついお見それしちゃった」

 馴れ馴れしく挨拶されて面食らった拍子に、俺の脳味噌の中で、対人反応シナプスがようやく再起動した。

「え? えーと――」

 いや田中じゃないです初対面です、と正直に応じかけると、ニッカボッカは、後ろの二人に気づかれないよう懸命に目配せしながら、

「あ、そうだそうだ田中さん! こないだ峰館みねだて千歳館ちとせかんで遊んだとき、お勘定かんじょう、お借りしたまんまじゃないですか。忘れないうちに、お返ししとかなきゃ」

 いきなり懐から分厚い革財布を取り出し、あっけにとられている俺の手に万札を握らせた。

 ついでに俺の耳に口を寄せ、

「お願い。ここは僕に調子合わせて。ね。何も訊かないで。お願い」

 万札は少なくとも二枚以上重なっている。ふだんなら無条件で即刻うなずくところだが、シナプスが半分しか繋がっていない俺は、まだ途惑とまどっていた。峰館の千歳館は、明治以来の擬洋風建築を誇る高級料亭、通称プチ鹿鳴館ろくめいかんである。俺など上がれるはずがない。

 ニッカボッカは、さらに声をひそめ、

「……おたく、見たんでしょ? バラ園とか……女の子」

 俺は目を丸くした。一言も返せない。

 相手はじれったそうに、

「……千代子関係の人でしょ?」

 俺は反射的にぶんぶんとうなずいた。

「委細は、また後で。ね?」

 交渉成立と見たのか、ニッカボッカは何事もなかったように、後ろの二人の相手に戻った。

「いやあ、失礼しました。あの方、田中さんといって、私の知り合いの山屋やまやさんなんですよ。もう人跡未踏の山奥まで年中無休の神出鬼没。山の道は俺の後にできる、みたいな人。あははははははは」

 俺はめいっぱい当惑したまま、おそらくはこの世にいもしない登山家、田中さんの笑顔を創っていた。

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