野薔薇姫 山の章 九
わざわざ残していってくれた朝飯に感謝兼脱力しながら
俺は長いことくつくつと笑い続けてから、まずは勝手口の外の便所で鼻をつまみながら目覚めの小水を済ませ、
――う、うめえ。
花のパリーは三つ星レストラン、それすら凌駕するであろう至高の食感と味覚である。北大路魯山人も海原雄山も舌を巻きそうだ。あんなものがチヨコにはそんなに旨かったのかと、俺はまたホロリときた。同時に、すぐにも
しかし、いつもながら不思議に思うのは、人間の口と脳味噌と筋肉の関係である。ガテン作業の途中でシャリバテになったとき、握り飯や菓子パンを
この世の森羅万象が、そんな心ひとつのものであるなら、人間、死んでから歩き回ったって、ちっとも不思議ではない。ならば俺も、こうしてチヨコの心づくしを受けているうちに、いずれ膨大な皮下脂肪や体脂肪を消費しつくし、チヨコの同類になれるはずだ。ここにいるのは俺でもいいんだからな。
俺は餡パンもどきを食い終えると、心機一転、庭に出た。
庭先の物干し棹には、チヨコが朝に洗ってくれたらしい俺のTシャツやチノパンも、すっかり乾いて、爽快な山の夏風に
俺は妙に張りきって、キコキコ井戸の水をがぶがぶと飲んだ。
習慣で、自前のペットボトルにも清水を補給する。人間、水さえあれば、とうぶんは根性で生きられる。ここは一宿二飯の恩義、チヨコの手伝いをしてやらねばなるまい。
ついでに顔を洗い、髭も当たる。俺は
そんな
念のため、
接近――そう、音は少しずつ大きくなっている。
「おじさん、おじさん!」
騒音に混じって、庭の外からチヨコの声が届いた。めいっぱい焦っているようだ。
「おじさん! へんなの、くる!」
その三語を発するだけの間に、チヨコは野薔薇路の出口から井戸の横をすり抜け、昨日の推定三倍速のイキオイで縁側に達そうとしていた。
「お、おい、気をつけ――」
俺は即座に縁側に駆け出ようとしたが、こんなときに限って、履きかけのチノパンが脚に絡まったりする。
「うおっと」
俺は畳にすっ転び、
「あうっ」
チヨコは例によって踏み石に足を引っかけ、顔面から縁側に激突した。
べん。
しかし
「ていっ」
俺は脚にチノパンを絡めたまんま横様に跳ね、床の間方向にぽーんと飛んだチヨコの首を、からくも捕捉した。
「ないすきゃっち!」
鼻の頭を赤くした首だけチヨコが、腕の中から俺のプレイを賞賛した。
ちなみに念のため、「ナイスキャッチ」という英語は、明治の早慶戦あたりからもう普及していたし、まだプロ野球の広まらない昭和戦前のラジオでも六大学野球は大人気だったから、チヨコが叫んでも不思議はないのである。
首なしチヨコが錯乱して俺たちの周りをとたぱたと駆け回っているので、俺はそっちもひっつかまえ、畳に抑えこんだ。
「えーい、こら動くな!」
元どおりくっつけようとしても、首が焦っているのか胴がパニクっているのか、ぽろぽろ落っこちてしまう。
「あうあう、あう」
例のヤマキマダラヒカゲまで泡を食ったように手元を飛び回り、邪魔になってしかたがない。
「えーい、らちあかん!」
俺は即行チノパンを履き直し、横の頭陀袋を掻き回した。こないだ町場の引っ越しを手伝ったとき、確か布ガムを入れたまま帰ったはずだ。
俺が、び、とガムテープを引くと、チヨコはびくりと身を震わせた。
「……いじめる?」
「人聞きの悪いことを言うな。これは特大の
実際、素手で縦横自在に
幸いチヨコのおかっぱ頭は昔風に刈り上げてあるので、
「どうだ?」
首輪を付けた猫のようで、見た目は少々気の毒だが、
「……ばんそーこ、つやつや」
チヨコはあんがい気に入ったようだ。
そんなこんなの間にも、例の
ふたりして恐る恐る障子の陰から空を窺うと、薔薇園の彼方の山上を、なにやらどでかい青白ツートンカラーのオタマジャクシのような妖物が、こちらに向かってくるのが見えた。
「……ばたばた虫?」
「なんじゃ、そりゃ」
「しゃあね。でも、ばたばたうなってる」
確かに面妖な怪物である。しかしその唸り声は、俺にはどうしてもヘリの爆音に聞こえる。
もしや――俺は思い当たった。
このチヨコの世界に、チヨコの知るべくもない戦後のデカ物が
「とにかく、お前は隠れてろ」
「やだ。おじさんといるも」
「ばたばた虫が、怒ってたら怖いぞ」
「……こわい?」
「心配するな。おじさんが
力いっぱいハッタリをかますと、チヨコはこくりとうなずいた。あの叔父さんも、相撲だけは強かっただろう。俺も得意だ。闇雲に押し倒すだけなのでヘリには通用しまいが、ヘリを操縦する奴には効くかもしれない。
俺は、あの本を抱えたチヨコを、蝶といっしょに
空の妖物は、ますます野薔薇の園に近づき、しだいに高度を落としはじめた。
絡み合い繁茂した野薔薇の
端正な野薔薇の園が、雑多な
不安が募り、
爆音の渦巻く中、自分の背中の陰までが幻日に晒された気がして、はっと仏間を振り返ると――そこには、もう家屋そのものがなかった。
〈【山の章】はこれにて終了、【街の章】に続きます〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます