野薔薇姫 山の章 九


 わざわざ残していってくれた朝飯に感謝兼脱力しながら蠅帳はいちょうを上げると、なんと朝飯はあんパンだった。ビニールっぽい謎の素材の袋まで再現されている。ただし、印刷されたロゴ類のうち正しいのは平仮名の『あん』と片仮名『パン』だけで、あとは全部、謎の幾何学模様になっていた。

 俺は長いことくつくつと笑い続けてから、まずは勝手口の外の便所で鼻をつまみながら目覚めの小水を済ませ、仏間ぶつまの蒲団を片づけ、座敷に戻って、ありがたくチヨコの気持ちを頬ばらせてもらった。

 ――う、うめえ。

 花のパリーは三つ星レストラン、それすら凌駕するであろう至高の食感と味覚である。北大路魯山人も海原雄山も舌を巻きそうだ。あんなものがチヨコにはそんなに旨かったのかと、俺はまたホロリときた。同時に、すぐにも土方どかた現場の猫車ねこぐるまを押せそうな力が湧いた。

 しかし、いつもながら不思議に思うのは、人間の口と脳味噌と筋肉の関係である。ガテン作業の途中でシャリバテになったとき、握り飯や菓子パンを咀嚼そしゃくするだけで、とたんに活動可能になるのはなぜだろう。東大出の偉い医学者は「それは単に血糖値が上がるからですね」などと講釈するが、そもそもこっちはまだ餌を飲みこんでいないのである。

 この世の森羅万象が、そんな心ひとつのものであるなら、人間、死んでから歩き回ったって、ちっとも不思議ではない。ならば俺も、こうしてチヨコの心づくしを受けているうちに、いずれ膨大な皮下脂肪や体脂肪を消費しつくし、チヨコの同類になれるはずだ。ここにいるのは俺でもいいんだからな。

 俺は餡パンもどきを食い終えると、心機一転、庭に出た。

 庭先の物干し棹には、チヨコが朝に洗ってくれたらしい俺のTシャツやチノパンも、すっかり乾いて、爽快な山の夏風にひるがえっていた。野薔薇の園も、きっちりその向こうにあった。

 俺は妙に張りきって、キコキコ井戸の水をがぶがぶと飲んだ。

 習慣で、自前のペットボトルにも清水を補給する。人間、水さえあれば、とうぶんは根性で生きられる。ここは一宿二飯の恩義、チヨコの手伝いをしてやらねばなるまい。

 ついでに顔を洗い、髭も当たる。俺は頭陀ずだぶくろの中に、常時、百均のカミソリとシェービングクリームを用意している。これがあれば夜勤の次の日勤にも、無精髭なしで出られるからだ。他人の無精髭は俺のせいではないから別に気にならないが、俺のせいで自分がむさ苦しいのは厭なのだ。

 そんな益体やくたいもない自尊心を今朝も満たし、座敷に戻って着替えていると――なにやら小刻みな雑音が、俺の鼓膜を震わせはじめた。微かではあるが、俺の鼓膜のみならず障子紙やさんまでぴりぴり揺るがしているところを見ると、大気そのものをひっぱたく性質の、破裂音の連打である。仮にオノマトペで表現すれば、だばだばだばだばだばだばだばだば。

 念のため、人声ひとごえのスキャットではない。あれだ。映画でいえば『地獄の黙示録』。古いか。それでは『ブルーサンダー』。やっぱり古いか。つまりどっちにしても、とことんこの場に似つかわしくない、ヘリコプターの接近を思わせたのである。

 接近――そう、音は少しずつ大きくなっている。

「おじさん、おじさん!」

 騒音に混じって、庭の外からチヨコの声が届いた。めいっぱい焦っているようだ。

「おじさん! へんなの、くる!」

 その三語を発するだけの間に、チヨコは野薔薇路の出口から井戸の横をすり抜け、昨日の推定三倍速のイキオイで縁側に達そうとしていた。

「お、おい、気をつけ――」

 俺は即座に縁側に駆け出ようとしたが、こんなときに限って、履きかけのチノパンが脚に絡まったりする。

「うおっと」

 俺は畳にすっ転び、

「あうっ」

 チヨコは例によって踏み石に足を引っかけ、顔面から縁側に激突した。

 べん。

 しかし粗忽者そこつものの俺とて、その後の軌跡は昨日すでに学習済みである。

「ていっ」

 俺は脚にチノパンを絡めたまんま横様に跳ね、床の間方向にぽーんと飛んだチヨコの首を、からくも捕捉した。

「ないすきゃっち!」

 鼻の頭を赤くした首だけチヨコが、腕の中から俺のプレイを賞賛した。

 ちなみに念のため、「ナイスキャッチ」という英語は、明治の早慶戦あたりからもう普及していたし、まだプロ野球の広まらない昭和戦前のラジオでも六大学野球は大人気だったから、チヨコが叫んでも不思議はないのである。

 首なしチヨコが錯乱して俺たちの周りをとたぱたと駆け回っているので、俺はそっちもひっつかまえ、畳に抑えこんだ。

「えーい、こら動くな!」

 元どおりくっつけようとしても、首が焦っているのか胴がパニクっているのか、ぽろぽろ落っこちてしまう。

「あうあう、あう」

 例のヤマキマダラヒカゲまで泡を食ったように手元を飛び回り、邪魔になってしかたがない。

「えーい、らちあかん!」

 俺は即行チノパンを履き直し、横の頭陀袋を掻き回した。こないだ町場の引っ越しを手伝ったとき、確か布ガムを入れたまま帰ったはずだ。

 俺が、び、とガムテープを引くと、チヨコはびくりと身を震わせた。

「……いじめる?」

「人聞きの悪いことを言うな。これは特大の絆創膏ばんそうこうだ」

 実際、素手で縦横自在に千切ちぎれる布ガムは、人体にも有用である。

 幸いチヨコのおかっぱ頭は昔風に刈り上げてあるので、襟足えりあしの髪もほとんど邪魔にならない。

「どうだ?」

 首輪を付けた猫のようで、見た目は少々気の毒だが、

「……ばんそーこ、つやつや」

 チヨコはあんがい気に入ったようだ。

 そんなこんなの間にも、例のやかましいだばだば音は、ますます大きくなっている。

 ふたりして恐る恐る障子の陰から空を窺うと、薔薇園の彼方の山上を、なにやらどでかい青白ツートンカラーのオタマジャクシのような妖物が、こちらに向かってくるのが見えた。

「……ばたばた虫?」

「なんじゃ、そりゃ」

「しゃあね。でも、ばたばたうなってる」

 確かに面妖な怪物である。しかしその唸り声は、俺にはどうしてもヘリの爆音に聞こえる。

 もしや――俺は思い当たった。

 このチヨコの世界に、チヨコの知るべくもない戦後のデカ物が闖入ちんにゅうしてきたら、チヨコの目にはどう映るか。飛行中のヘリのローターは、遠目にはほとんど見えない。ローターを省略したヘリは、どでかいオタマである。

「とにかく、お前は隠れてろ」

「やだ。おじさんといるも」

「ばたばた虫が、怒ってたら怖いぞ」

「……こわい?」

「心配するな。おじさんが相撲すもうで追い返してやる」

 力いっぱいハッタリをかますと、チヨコはこくりとうなずいた。あの叔父さんも、相撲だけは強かっただろう。俺も得意だ。闇雲に押し倒すだけなのでヘリには通用しまいが、ヘリを操縦する奴には効くかもしれない。

 俺は、あの本を抱えたチヨコを、蝶といっしょに仏間ぶつまの押し入れにもぐりこませ、縁側に出て空を仰いだ。

 空の妖物は、ますます野薔薇の園に近づき、しだいに高度を落としはじめた。

 絡み合い繁茂した野薔薇のつるという奴は、そう簡単にはほぐれないはずだが、妖物の巻き起こす突風を受けると、なぜかドライフラワーの寄せ集めのようにもろくも吹き飛ばされていった。だけではない。きれぎれのうずとなって宙に流れるはしから、大気に溶けるように消え去ってしまうのである。

 端正な野薔薇の園が、雑多な潅木かんぼくの藪に変貌するにつれて、宙空の妖物もまた、やはり一機の小型ヘリコプターへと姿を変えた。そのさまは俺にとって、もはや現実への回帰ではなく、うそ寒い冬の幻日げんじつの下へと俺を引っ立てる、機械仕掛けの妖物に見えた。

 不安が募り、四股しこを踏む気力も失せた。

 爆音の渦巻く中、自分の背中の陰までが幻日に晒された気がして、はっと仏間を振り返ると――そこには、もう家屋そのものがなかった。




    〈【山の章】はこれにて終了、【街の章】に続きます〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る