野薔薇姫 山の章 八(後編)
当時は写真機そのものが大層高価だったから、一介の農家のアルバムにファミリー写真が溢れかえっているはずもない。しかし上の出征写真のように、冠婚葬祭など折々の節目で誰かに撮ってもらった写真は、それなりに溜まるものだ。昔の俺の家のアルバムにも、百姓だった曾祖父たちの野良仕事写真が、けっこう残っていた。村長の息子が道楽で村中を撮って回ったのだそうだ。
期待しながら、黒々と持ち重りのする糊付け式の立派なアルバムを開き、俺は、驚愕かつ落胆した。
少なからぬページに、かつて大小の写真が
一枚は、今も変わらぬあの井戸の横で、今と同じ顔をしたモンペ姿のチヨコが、はにかんだように笑っている。背景はピントが合っていないので判然としないが、野薔薇ではなく畑のようだ。もう一枚は、上で主役を張っているチヨコの叔父さん。こちらも同じ場所、
……こんだけかよ。
俺は憮然としていた。
一般に家庭アルバムは、その家族全体の変遷の公的縮図である。チヨコと叔父さんだけが残っている以上、他の家族の写真を引き剥がしたのは、チヨコか叔父さんのどちらかだろう。今のこの家の具合から見れば、チヨコである確率が高い。じゃあ他の家族は、チヨコにとってなんだったのか。また他の家族にとって、チヨコや叔父さんはなんだったのか。
チヨコにだって、生まれたときがあったはずだ。まあ小学校の入学式は、当時の農家だと、女に義務教育なんて余計なお世話、そんなふうに軽んじられたかもしれない。しかし古い田舎だからこそ大切な、七五三もあったはずだ。桃の節句もあったはずだ。思えば学校側が撮った記念写真だって一枚もない。
あの本に
無駄飯喰らいの余計者が、おそらく何年もかかって貯めた金、あるいは招集後の給金で、おそらく彼同様の余計者だった姪っ子に贈り物をする。当時としては高価な書物である。今なら二~三万にも匹敵するだろう。あえてその値を秘したのは、姪への気遣いもあったろうが、おそらくは他の家人の冷たい目に配慮したのだ。
俺は生活能力に反比例して涙もろい。憶測以外の事実は知らず、胸の奥を締めつけ、さらに逆流してこみあげてくる負の情動を、俺は抑えきれなかった。さっき仏壇の前のチヨコから漂っていた、やるせない、逃れようのない
俺は震える手でアルバムを元に戻し、這うように寝床に戻った。夏蒲団を頭から被って、いい歳こいた親爺が何やってんだかと自嘲しながら、えぐえぐと
するうち蒲団の端が、そっと持ち上がった。
「……ないてるの?」
チヨコが、きょとんとして俺を見ていた。
泣いてなんかないやい、と強がれる有様ではないので、俺は顔を
「こわいゆめ、みた?」
大ハズレだが、それが子供にとって一番妥当な答だろうと思い、俺はまたこくこくとうなずいた。
「だいじょぶだも」
チヨコは、くすっと笑って、俺の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「だいじょうぶ。ここは、チヨコだけのうちだも。こわいの、なんにもこない。ごりらも、くまも、こない」
チヨコは子守歌のように優しく囁きながら、俺の後ろ頭を撫でさすった。
「こわいひと、だあれも、こない。……おとうちゃんもおかあちゃんも……せんせいも……がっこうのみんなも……だあれも、こない」
そうか。お前は、そいつらがみんな怖かったのか。
「きていいの、おじちゃんだけ」
そうか。だからお前は、あの野薔薇の
「……あと、おじさんも」
そうか。俺もいいのか。
わあわあ泣くっきゃないだろう、この場合。
俺はとりあえず、涙枯れるまで泣きつづけることにした。
*
翌朝――障子越しの陽ざしの加減だと、もう昼に近かったが――目覚めた俺は、充分な睡眠で疲労こそ和らいだものの、完璧なシャリバテで重たすぎる図体をもてあまし、あーうー、などと呻きながら寝床に半身を起こした。昨夜あれだけ食ったはずなのに、異常なほど空腹を覚えた。
そんな目覚めは、過去に何度か経験している。金が一文もなくなって、次の日雇いにありつくまで、しばらく絶食を余儀なくされたときだ。チヨコにとっては確かな糧でも、常人の身になるとは限らない。俺は昨日から丸一日、実は餡パン半分と水しか腹に収めていないのかもしれない。
しかし、そんなことより、俺はこの手の怪異談にありがちな【夢オチ】が怖かった。辺りにチヨコの姿がないのである。たとえば小泉八雲の『和解』、あるいはその原話である上田秋成の『浅茅が宿』――それらはいずれも【目覚めれば廃屋】パターンである。間が悪いと、昨夜親しんだ女性のダシガラが添い寝していたりもする。
半分開け放たれた障子から裏庭に目をやって、俺はようやく安堵した。井戸の横の物干し竿に、俺の衣類と並んでチヨコの花柄
「おーい、チヨコー」
俺はぼりぼりと背中を掻きながら、大声で呼んでみた。
「チヨさん、チーヨコさん、チヨぽんぽん」
昨夜あれだけ情けない姿を見られたからには、もはや身内感覚である。
しばらく待っても返事がないので、よたよた起き出して隣の座敷を覗くと、座卓の上に、水差しや茶碗といっしょに
はいけい おじさんえ
ちよこわ おそとに おしごとに いきます
これは あさごはんです けいぐ
極めて難読物件ながら、いちおう平仮名だった。チヨコは今日も野薔薇の手入れに出たのだろう。
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