野薔薇姫 山の章 八(前編)


 闇の中、自分ではない身じろぎを感じて目が覚めた。

 いや、身じろぎを感じてからまた眠ってしまい、しばらくたって、ようやく目を開いたような気もする。

 朦朧もうろうとする視界には、寝る前に縁側の雨戸を閉めてランプを消したあとの漆黒ではなく、ランプほどには明るくないが、微かな光の揺らぎが感じられた。

 隣にチヨコがいなかった。

 横になったまま首を回すと、開かれた仏壇の扉から蜜柑みかん色の燈明とうみょうが漏れており、チヨコはその前の座布団にちょこんと正座して、一心に仏壇の奥を見つめていた。俺は声をかけようとしたが、蝋燭ろうそくの炎に浮かぶチヨコの横顔に、なにがなし、例の触れてはいけないものを感じて、寝ているふりをしながら薄目で様子を窺いつづけた。

 といってチヨコは、泣いているとか哀しそうであるとか、悩んでいるとか困っているとか、そんな様子ではなかった。むしろ外観を排した『気』だけなら、まるで末期まつごの老婆、あるいは倒木寸前の枯れ木としか思えないような、乾ききった諦念ていねんを感じさせた。それは、やはり外貌とは無縁に、あの野薔薇のみちで追いかけられたときの、子供としてあってはならない姿に思えた。

 やがてチヨコは悄然しょうぜんと立ち上がり、こちらに戻ってきた。

 俺は目を閉じ、寝たふりを続けた。

 チヨコが俺の頭のすぐ横に座り、かがみこむ気配がした。息を殺し、すれすれまで顔を近づけ、俺の寝息を窺っているようだ。

 小泉八雲が再話した中の『ろくろ首』ではない話――確か『雪女』だったか、こんな場面があったのを思い出す。深夜、寝ている老人に雪女が冷たい息を吹きかけ、凍死させる場面である。

 チヨコはいよいよ本性を現し、首だけになって俺の喉笛に喰らいつくのだろうか。

 それならそれでもいい、と俺は思った。

 どうせ、なんのために生きているんだか解らない、ただ死んでいないから生き続けているだけの俺である。チヨコのかてになって時を超え、あの野薔薇のみちやこの面白屋敷の存続に貢献するなら、それはそれで立派な廃物利用、いや廃人利用ではないか。

 まあちっこいお前には無理かもしんないけど、なるべく急所の頸動脈あたりをイッキをナニして、即死キボンヌ南無阿弥陀仏――。

 などと、本心はビクビクもののくせに大脳新皮質だけで余裕をかましていると、

「……ほ」

 鼻先にチヨコの息を感じた。

 癒し系の溜息ためいきだった。

 チヨコは俺の寝顔を見つめることで、確かに安らいでいる。

 俺は、粗大ゴミのトラックからリサイクルショップの店頭に回された大人サイズの信楽焼の狸のような、ありがたい腰のわりを覚えた。

 それからチヨコは、そっと立ち上がり、そっと障子を開けて部屋を出、縁側の奥に遠ざかっていった。

 耳を澄まして行方を窺うと、あの風呂のある土間から、外に離れた便所に向かって、石畳を踏んでゆく下駄の音が微かに聞こえた。


 で、安心すると、たちまち困った奴へと増長するのが俺の本性である。

 俺は蒲団を抜け出し、燈明が点いたままの仏壇に這い寄った。

 立派な唐木からき仏壇の中には、外見にふさわしく、仏具がほとんど揃っていた。下段には花立てと香炉と蝋燭立て、中段の真ん中に半稗飯の御仏餉おぶっしょう、その隣に茶湯器。

 中段の両脇にあるふたつの高坏たかつきの内、左の高坏に餡パンの欠片が乗っていたのには驚いた。いつの間に供えたのだろう。もう片方の高坏が果物ではなく、花立てと同じ野薔薇の花なのは御愛敬か。

 とまあ、今どき大人でも適当こきがちなお供え物をきっちり揃えているのには感心したが、肝心かなめの主役である仏様関係だけは、大いに間違っていた。

 まず、ふつう御仏餉の後ろにあるはずの精霊簿がない。そして上段、ど真ん中の一等地にあるべき御本尊の仏様や、それに並ぶ御先祖様一同の位牌、これが綺麗にない。上段には、ただひとつ、手札てふだばんほどの小さな写真立てが置いてあるだけだった。

 昨今のアバウト仏壇ではない、これだけ大時代な正調仏壇に、写真は置かないはずだ。これはこの家の本来の当主が、その写真の人物こそ我が一族の御本尊であると信じていたのだろうか。いや、そうではあるまい。ただチヨコが毎日拝みたい人物を、いちばん目立つところに勝手に置いただけなのではないか。

 なるほど大デブだった。

 やはり大東亜戦争あたり、出征記念にわざわざ写真館で撮った写真だろうか。単色の布を背景に、俺よりずいぶん若い、しかし俺によく似た丸い目の青年が、戦争映画の出征シーンなどで見かける粗末な国民服だかなんだかをぱっつんぱっつんに脹らませ、誇らしげに胸を張っている。

 俺は生活能力に反比例して、余計な想像力に富む。特に夜中など、妄想に歯止めが効かない。チヨコが漏らしたひと言『お父ちゃんの、おとうとの、おとうと』から想えば、この青年にとって、あの頃の農村の三男暮らしは、なかなか気苦労があったのではないか。これだけ太っているからには、余人の倍以上、飯を食わねば生きられなかったはずだ。

 家を継げる長男なら、まだいい。次男でも、労働力のサブとして少しは大きな顔ができるし、そこそこ田畑があれば分家もできるだろう。しかし三男だったりしたら、目も当てられない。なんらかの形で家を出ない限り、生涯無駄飯喰らい扱いである。ゆえに、なんぼか写真館の修正が入っているとはいえ、輝くばかりの希望に満ちたその出征姿は、当時の教育勅語ちょくごの成果だけではなく、むしろ今の境遇から誰恥じることなく転進できることを心から喜んでいるように見えた。

 ただ、その写真が仏壇でチヨコに拝まれている以上、この青年は、結局この家に帰ってこなかったことになる。敗戦後、戦地のたみに紛れた兵士もいたと聞くが、それはきわめて稀である。十中八九、水漬みずづくかばね草生くさむす屍だろう。

 俺は同じ大デブとして、この青年が、あのガダルカナルやニューギニアに送られなかったことを祈るばかりだった。餓死は人間にとって最も残酷な死だと、いまだ飢餓の蔓延する地の人々は言う。とすれば俺やこの青年は、飢餓に際して余人の幾倍も長く、残酷な死を死に続けなければならない。

 しかし、この叔父さんが、兵役の務まる正常な人間だったなら――今のチヨコは、いったいなんなのだろう。

 なんらかの事故で首がもげて死んだ姪の亡魂?

 ならば、その父親や母親は?

 俺はちょっと恐縮しながら、なんでもいいからなにか手掛かりが出てこないかと、仏壇の各所にある引き出しを探ってみた。

 中段のいわゆる猫戸や、その横の引き出しは空で、下段の引き出しからは蝋燭と線香とマッチしか出てこなかった。他に収納はなさそうだが――いや、近頃の仏壇だと、台座の部分がまるまる隠しの引き出しになっていることがある。昔はそんな気の利いた収納はほとんどなかったものだが、旧家の注文生産品ならば――。

 読みが当たって、一見台座の表の飾り板にしか見えない木彫部分が外れる構造になっており、その中には、一冊の古びたアルバムが収まっていた。

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