野薔薇姫 山の章 六(後編)
口いっぱいのパンを喉に詰めそうになっているチヨコに、俺は
「……ぷはあ」
「こっちも食うか?」
もう半分も勧めると、チヨコは笑って
「はんぶんこ」
そうか、そっちのほうが嬉しいか。ええ子や、ええ子やでぇ、こん子は――。
俺はなぜか関西弁で感慨に
そのとき、にこにこと俺を見守っているチヨコの顔を、ふと、なにやら小さな影が揺れながら
「え?」
俺は思わず声を出して
チヨコも驚愕し、きょときょととあたりを見回した。
「……ちょうちょ!」
俺はてっきり、夏の夜につきものの
「ちょうちょ、ちょうちょ!」
チヨコは不規則に飛び回る小さな影を追いかけ、部屋中を踊って回った。それほど影がすばしっこかったわけではない。むしろ、あまり活溌ではないため、かえってチヨコの
俺がもそもそとパンを食い終わった頃、
「つーかまーえたっ!」
チヨコは丸く合わせた両の掌を俺の前に差し出し、そっと隙間を空けてみせた。掌中の小さな影は、観念したのか羽ばたきを止めて、黒い糸のような二本の触覚を緩慢に揺らしていた。
「……お前かよ」
俺が昼間、山道で迷っている間に見た、あのヤマキマダラヒカゲなのである。片羽の先端にある苦労傷で、同じ個体と判った。どうやらペットボトルをしまいこむときに、
チヨコは頬を上気させ、
「この子も、おみやげ?」
「おう」
俺は他人を喜ばせる嘘なら、なんぼでも平気で
チヨコはよほど嬉しかったらしく、お手玉も
「……あんまり、げんきない。ちょうちょ、ねむい?」
「夜だしな。腹が減ったのかも」
「香水製造場で、くたびれた?」
こうすいせいぞうじょう、という言葉の
「ちょうちょ、町で、はたらいてるも」
チヨコは、こほん、と咳払いすると、なにやら学芸会っぽい口調で、
「――『私は、町の香水製造場にやとわれています。毎日、毎日、白ばらの花からとった香水をびんにつめています。そして、夜、おそく家に帰ります。』――」
「あ、あれか」
小川未明の童話『月夜とめがね』の一節である。ちなみに、要約すればこんな話だ。
ある月夜の晩、町はずれに住むひとり暮らしの老婆を、旅の眼鏡売りが訪ねてくる。老眼で夜の針仕事に難渋していた老婆は、ぴったりの眼鏡を見せられて喜び、さっそく
「――『すると、おばあさんはたまげてしまいました。それは、娘ではなく、きれいな一つのこちょうでありました。』――」
チヨコは一語一句なぞるように、甘酒のようにとろりとした
「――『おばあさんは、こんなおだやかな月夜の晩には、よくこちょうが人間にばけて、夜おそくまで起きている家を、たずねることがあるものだという話を思いだしました。』――」
老婆は、その
「――『花園には、いろいろの花が、いまをさかりと咲いていました。ひるまは、そこに、ちょうや、みつばちが集まっていて、にぎやかでありましたけれど、いまは、葉かげでたのしいゆめをみながらやすんでいるとみえて、まったくしずかでした。』――」
そういえば俺も子供の頃、『11ぴきのねこ』とか、大好きな絵本の文章を一語一句
しかし昔の俺の棒読みとは違い、チヨコの暗唱には、さっきのお手玉歌のような深い情感があった。
「――『ただ水のように月の青白い光が流れていました。あちらのかきねには、白い野ばらの花が、こんもりとかたまって、雪のように咲いています。』――」
結句、少女だった胡蝶は老婆が気づかぬうちに姿を消してしまい、物語は
「――『「みんなおやすみ、どれ私もねよう。」と、おばあさんはいって、家の中へはいって行きました。
ほんとうに、いい月夜でした。』――」
ボーカロイドとセリーヌ・ディオンの差を感じて、俺は思わずぱちぱちと拍手した。
賞賛に慣れないのか、照れまっているチヨコに、
「でもまあ、こっちの蝶は、たぶん
ずっと
せっかくウケたお土産に、即行ダウンされては困るので、
「ちょと待て」
俺は縁側から庭に降り、ヤマキマダラヒカゲむきの飯を探した。
あれの仲間が花から吸蜜するのは、一度も見たことがない。とりあえず俺の汗でもいいのだろうが、あいにく今は引いている。それ以外で思い当たるのは――えーと、動物の糞とか、他の虫の死骸とか――思えばネクラな蝶である。
どのみちここには野薔薇しかないので、俺はその白い奴をひと枝、失敬して
チヨコはさっそく、俺が差し出した白薔薇の花に蝶を移した。
「……たべない」
「うーん、こいつはね、こっちのほうかも」
手折った枝の根元側に指で追いやると、蝶はおずおずと
「……のんでる、のんでる」
「たぶん甘い蜜は苦手なんだな」
「へんな、ちょうちょ」
「変なほうが面白いだろう」
つい俺は、チヨコのおでこを突っついた。
「お前も変だしな」
「チヨコ、へん?」
「おう。だから面白い」
気を悪くするかと思ったら、チヨコはけっこう楽しそうに、
「おもしろいの、すき?」
「おう。大好きだぞ」
「チヨコも、へんなのがすき。おみやげ、へん。おじさんも、へん」
変仲間のヤマキマダラヒカゲは、満腹したのか野薔薇の葉の下に移動し、そこで動かなくなった。眠ったのだろう。定かではないが、とうに夜半も過ぎたはずだ。俺だって眠い。
俺は、未明作の老婆を真似て言った。
「『みんなおやすみ、どれ私もねよう。』」
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