野薔薇姫 山の章 六(前編)
もし、時計のない世界があるとすれば、時は俺の生活感覚に忠実に、緩急を変えながら移ろうものと思っていた。つまらない単純作業を繰り返す一時間は正味二時間、それなりに達成感のある作業をして過ごす一時間は正味三十分、ぶっちゃけそんな流れである。
しかしそれは、やはり物心つく前から時計や時報の存在を生活感に焼き付けてしまった俺の勘違いで、時計のないこの家の夜は、無数の
「♪ いっちばんはっじめの、いっちのっみや~~、に~いは、にっこの、と~しょおぐ~~」
台所で洗い物を手伝ってから座敷に戻り、チヨコの
しかし今、チヨコのちっこい両の
「♪ む~っつ、む~らむ~ら、ちんじゅさま~~、な~なつ、なりたの、ふど~さま~~」
いや、この時の不連続感そのものが、現時点の俺の生活感に過ぎないのか。いやいや、それでは、ちっとも給油しないのに晩飯前から座卓の上でゆらゆらと揺らぎつづけているランプの炎、これはなんなのだ。冥府の炎か。
「♪ ここのつ、こ~やの、こ~ぼ~さん~~、と~おは、と~きょ~、しょ~こんしゃ~~」
チヨコのお手玉歌は、何べん何十ぺん繰り返されても、変わらず耳に心地よい。座敷にたゆたう暖色の光の波が、声の波にまで干渉しているようだ。これで庭から
「♪ これだけ、しんがん、かけたなら~~ なみこの、やまいも、なおるだろ~~」
なんで十の次になると突然お手玉歌に徳富蘆花の『
「♪ いっちばんはっじめの、いっちのっみや~~、に~いは、にっこの、と~しょおぐ~~」
いいではないか。時など
たとえノバラちゃんが永遠に
――などと完璧に現実逃避しながら、また茶碗の白湯をすすったとたん、俺の腹が、ぐう、と鳴った。残念ながら俺の消化器官は、
チヨコはお手玉を手に収め、俺を見上げてつぶやいた。
「……おおめしぐらい?」
いきなり痛いところを突きやがりますなあこのノバラガキは、と俺は首をすくめかけたが、
「なにか、つくる」
台所に立とうとするチヨコの袖を、俺は引き止めた。
「ちょと待て」
それが
俺は、ちょうどいいものを持っているのを思い出し、横に置いてあった
「お
今朝、製材所を出るとき、余った夜食をもらってきたのである。
「じゃーん。
おっかなびっくりビニール袋を受け取ったチヨコは、不審そうにカサカサといじくり回し、
「あんぱん。……これが、あんぱん?」
食ったことはないらしいが、中身の名前には心当たりがあるようだった。
餡パン自体は、確か明治時代からあるはずだ。当然この辺りでも、県庁所在地や古くからの商業地では、明治の内に売り出されただろう。ただし昔の日本は、情報も物流も地域格差がハンパではなかったから、山間の
たとえば昭和三十年代中期から出回っていたはずの即席ラーメン、あれを俺が初めてこの目で見たのは大阪万博の前年、つまり昭和四十四年になってからだった。しかもそれから何年もの間、『即席ラーメン』イコール『
余談になるが、元祖チキンラーメンなどという鍋要らずのスグレ物がこの世にあるのを知ったのは、実にカップヌードルを知った後だったりもする。さらに余談になるが、俺は小学校に上がるまで、海に棲む
チヨコがいつまでも悩ましそうにビニール袋をいじくっているので、俺は代わりに破いてやった。
中身を半分こにして、
「ほい、お前も食え」
チヨコは両手で受け取った半かけのパンを鼻の下に持っていき、くんくんと小犬のように匂いを嗅いでいる。
「
……ぱくり。
ひと口頬ばって、にっこり笑うかと思いきや、チヨコはいったんまん丸になった目を、なぜか懐疑的に、うにい、と歪め、それから
「ばくっ」
しばしもぐもぐともぐもぐしたのち、
「うああ、うあうああお、うあうあ」
声だけ聞くと錯乱してしまったようだが、激しくうなずきながら俺に向けた感動のまなざしは、確かにこう言っていた。うわあ、ふかふかだよ、ふかふか。
チヨコは中身のアンコより、ガワの食感にインパクトを受けたようだ。なるほど、ただの
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