野薔薇姫 山の章 五
ここでしばらく、伊豆シャボテン公園の温泉カピバラを想像していただきたい。もっとも現時点の照明は、ちっこいランプと、板戸式の小窓から漏れこむ月明かりだけだから、長野の国は地獄谷、夜の露天風呂に浸かっている温泉猿をカピバラに置き換えてもらったほうが適切か。
いずれにせよ、そのように思考停止したまま、俺が推定小一時間ほども風呂場で過ごし、やがて我に反ってぷるぷると毛皮の湯切りを、もとい体を拭いて着衣に及ぼうとすると、いつの間にか廊下の籠には、汗で湿ったTシャツやチノパンや
台所には、すでにチヨコの姿はない。するとこの浴衣は、
すっかり折り癖のついた浴衣を、ぱたぱたと振り広げる。濃密な樟脳臭が辺りに広がり、俺は一瞬くらりとした。しかし化合物のナフタリンとはちがい、天然樟脳の匂い移りは、じきに風に散ってしまうのが
ところで俺は前述したように大デブである。以前、社員旅行で温泉旅館に泊まった経験から、その浴衣もてっきり
実は籠の中に
ランプを
節約のために手持ちのランプを消し、
「いやはや、たいへんけっこうなお
冗談めかして丁重に頭を下げると、
「いえいえ、おきにめしまして……めしまして……」
チヨコはまともに応じようとしたが、次の言葉が思い浮かばないらしく、
「――でございます」
くぐもった声で、力いっぱいごまかした。
「…………」
「…………」
互いに数瞬沈黙したのち、
「無礼講って言葉、知ってるか?」
「ぶれいこう? ……しゃあね」
しゃあね。土地の言葉で『知りません』。かなり
「しゃねくていいの。ふつうにしゃべれ」
俺が破顔すると、チヨコもにっこり笑った。
「お前も入ってこいよ、風呂」
大デブが入った後でも、子供が入れるくらいは湯が残っている。
チヨコはふるふると
「いい」
「でも汗かいたろ、昼間」
「かかねも」
ふるふるふる。
確かにチヨコは、
さて、目の前の座卓の両側には、
「おお、
むくり鮒とは、背開きにした鮒を串に刺して軽く乾かす程度に炙り、それから素揚げにして、さらに甘辛く煮つけた郷土料理である。手間がかかるぶん、子供でも骨まで食える。まあ今どきこれをメインディッシュと納得する子供がどれだけいるか怪しいが、俺が幼稚園の頃は充分な御馳走だった。ただし中学に上がった頃には、もう誰も再現を欲しない過去の遺物になっていた。しかし今、一日ワンコインぽっきりの俺にはやっぱり御馳走だし、一般世間の尺度でも、今だからこそ風流な珍味、伝統的郷土料理といえよう。
「こりゃありがたい。むくり鮒なんて、もう何年も食ったことないぞ」
本心から言うと、チヨコは高らかに、
「だって、お客さま!」
少々気になるのは、この鮒の出所である。冷蔵庫のない昔の
チヨコは、俺の茶碗に飯をてんこもりにして、
「はい、おじさん」
「おお、大盛りだ」
「おおおーもり!」
満面の笑顔とともに渡された茶碗の飯は、半分がた茶色かった。
いや、これは
こうなると、近頃すっかり郷愁命の俺でも、さすがに美化できない。江戸時代の
「じゃあ遠慮なく、いただきます」
「いただきまーす」
ふたり揃って『おててのしわとしわをあわせて、しあわせ。なーむー』したのち、まず味噌汁をすする。
「うん、うまい!」
感嘆する俺に、チヨコは今度は目をぱちくりさせ、小首を
次いで、菊の花。なんで真夏に菊なのかちょっと疑問ではあるが、野薔薇を食わされるよりはありがたい。
そして初体験の半
確か祖母の話では、本来炊いてもパサパサの稗を、米に合わせて巧く炊くのは至難の技であり、
しかしこれは間違いなく、チヨコが台所の
俺は思わずチヨコの顔を、じっと見入ってしまった。
――ちっこいくせに、ずいぶん苦労してんじゃないか、お前。
チヨコは喜色満面で、ちまちまと飯をついばんでいる。
俺はちょっとうるうるしそうになりながら、気づかれないうちに目を逸らし、むくり鮒に箸をのばした。
「さあて、いよいよ主役の大御馳走だ」
俺は文字どおり貧乏性なので、いちばん旨そうなおかずは最後の楽しみにとっておく。
チヨコも、俺より先に手を付けるのを遠慮していたのだろう、神妙にうなずき、一拍遅れて大皿に取りついた。
むしゃむしゃ、むしゃ。
ちまちま、ちま。
「……んまいな」
いつどこで食材を調達したかは知らず、文句なしに東北ネイティブ
「……ん~~」
チヨコは
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