野薔薇姫 山の章 五


 ここでしばらく、伊豆シャボテン公園の温泉カピバラを想像していただきたい。もっとも現時点の照明は、ちっこいランプと、板戸式の小窓から漏れこむ月明かりだけだから、長野の国は地獄谷、夜の露天風呂に浸かっている温泉猿をカピバラに置き換えてもらったほうが適切か。

 いずれにせよ、そのように思考停止したまま、俺が推定小一時間ほども風呂場で過ごし、やがて我に反ってぷるぷると毛皮の湯切りを、もとい体を拭いて着衣に及ぼうとすると、いつの間にか廊下の籠には、汗で湿ったTシャツやチノパンやがらパンの代わりに、こん松葉まつばがら浴衣ゆかたがきちんと畳んで置いてあった。

 台所には、すでにチヨコの姿はない。するとこの浴衣は、手拭てぬぐいや石鹸せっけんのようにどこぞから涌いて出たわけではなく、俺がカピバラ化している間に、あの座敷の箪笥たんすからチヨコが運んできてくれたのだろう。そういえばしばらく前から、湯の香に樟脳しょうのうの匂いが混じっていた気もする。

 すっかり折り癖のついた浴衣を、ぱたぱたと振り広げる。濃密な樟脳臭が辺りに広がり、俺は一瞬くらりとした。しかし化合物のナフタリンとはちがい、天然樟脳の匂い移りは、じきに風に散ってしまうのがである。だいたい、丸一日かけて濃縮発酵熟成させた体液まみれのTシャツを風呂上がりに再着用するよりは、樟脳の汁を身体中に塗りたくったほうがまだましだ。数回ぱたぱたやったら鼻も慣れてきたので、俺は、かなり着古されたぶん肌に優しいその浴衣を、ありがたく着こませてもらった。

 ところで俺は前述したように大デブである。以前、社員旅行で温泉旅館に泊まった経験から、その浴衣もてっきり身頃みごろが窮屈だろうと思ったが、意外にも、胸や腹にまだ余裕があった。本来の持ち主は俺より大デブらしい。その代わり身丈みたけは三寸近く足りず、縦×横で推計すると同じ重量級、組み合えば互角と見た。まあ夜中に争うことになっても、相手が首だけなら関係ないが。

 実は籠の中に越中褌えっちゅうふんどしも置いてあったのだが、着用法に今ひとつ自信がないので、恥ずかしながら省略させてもらった。くれぐれもアグネ●・●ャンには内緒である。


 ランプをたずさえて暗い廊下を座敷に戻ると、チヨコが座卓の下座しもざにちょこんと正座して俺を待っていた。座卓の上には、もう晩飯の用意が整っていた。俺はちょっと図々ずうずうしいかなと思いながらも、すなおに空気を読んで上座かみざ胡坐あぐらをかいた。

 節約のために手持ちのランプを消し、

「いやはや、たいへんけっこうなお風呂ぶうでございました」

 冗談めかして丁重に頭を下げると、

「いえいえ、おきにめしまして……めしまして……」

 チヨコはまともに応じようとしたが、次の言葉が思い浮かばないらしく、

「――でございます」

 くぐもった声で、力いっぱいごまかした。

「…………」

「…………」

 互いに数瞬沈黙したのち、

「無礼講って言葉、知ってるか?」

「ぶれいこう? ……しゃあね」

 しゃあね。土地の言葉で『知りません』。かなり生地きじが出てきた。

「しゃねくていいの。ふつうにしゃべれ」

 俺が破顔すると、チヨコもにっこり笑った。

「お前も入ってこいよ、風呂」

 大デブが入った後でも、子供が入れるくらいは湯が残っている。

 チヨコはふるふるとかぶりを振り、

「いい」

「でも汗かいたろ、昼間」

「かかねも」

 ふるふるふる。

 確かにチヨコは、そばに寄っても微かに甘酸っぱい子供の匂いがするだけで、汗臭さはまったくない。それも人外の特性だろうか。

 さて、目の前の座卓の両側には、わらびの味噌汁の椀と、菊の花のおひたしの小皿。チヨコの手元に、でかい飯櫃めしびつ。そして真ん中に、むくりぶなをふんだんに盛りつけた大皿が、どーんとひとつ。

「おお、御馳走ごちそうだなあ」

 むくり鮒とは、背開きにした鮒を串に刺して軽く乾かす程度に炙り、それから素揚げにして、さらに甘辛く煮つけた郷土料理である。手間がかかるぶん、子供でも骨まで食える。まあ今どきこれをメインディッシュと納得する子供がどれだけいるか怪しいが、俺が幼稚園の頃は充分な御馳走だった。ただし中学に上がった頃には、もう誰も再現を欲しない過去の遺物になっていた。しかし今、一日ワンコインぽっきりの俺にはやっぱり御馳走だし、一般世間の尺度でも、今だからこそ風流な珍味、伝統的郷土料理といえよう。

「こりゃありがたい。むくり鮒なんて、もう何年も食ったことないぞ」

 本心から言うと、チヨコは高らかに、

「だって、お客さま!」

 少々気になるのは、この鮒の出所である。冷蔵庫のない昔の山家やまがでは、正月の、塩だかシャケだか判然としない新巻あらまきの切り身や、祝い事の席で出る『からかい』とかいう深海魚のミイラさえ、ハレの日の主役だった。新鮮な淡水魚も、それに準ずる。つまり真夏の台所で、ふだんから泳いだりパクパクしているものではない。しかしまあ、風呂がきちんと風呂であったからには鮒も鮒、まさか馬糞ばふん饅頭まんじゅうたぐいではなかろう。

 チヨコは、俺の茶碗に飯をてんこもりにして、

「はい、おじさん」

「おお、大盛りだ」

「おおおーもり!」

 満面の笑顔とともに渡された茶碗の飯は、半分がた茶色かった。

 あわ飯?

 いや、これはひえ飯だ。稗と白米が五分五分くらいか。

 こうなると、近頃すっかり郷愁命の俺でも、さすがに美化できない。江戸時代の飢饉ききんまではさかのぼるまいが、下手をすると大東亜戦争前、昭和東北大凶作あたりの救荒食きゅうこうしょくなのではないか。いやいや、これも死んだ祖母が言っていた。当時は米二に稗八で上々、まるっきり稗でも食えればラッキー。やはりチヨコは最大限、俺をもてなしてくれているのである。

「じゃあ遠慮なく、いただきます」

「いただきまーす」

 ふたり揃って『おててのしわとしわをあわせて、しあわせ。なーむー』したのち、まず味噌汁をすする。わらび灰汁あく抜きは申し分ない。自家製らしい味噌も滋味満点だ。正確には雑味なのだろうが、俺には滋味だ。

「うん、うまい!」

 感嘆する俺に、チヨコは今度は目をぱちくりさせ、小首をかしげた。スーパーで売っているパックの蕨や、大工場生産味噌の味を知らないのだろう。

 次いで、菊の花。なんで真夏に菊なのかちょっと疑問ではあるが、野薔薇を食わされるよりはありがたい。煮浸にびたした花弁のほのかな苦味と甘味に、田舎醤油のコクが荷担し、法外に旨い。こんなものがそう旨いはずはないと頭では理解しつつ、舌にはやっぱり懐かしくて旨い。

 そして初体験の半稗飯ひえめし。これが案外にいけるのである。かなりのモソモソ感と多少の臭いはあるが、味噌汁とじっくり噛み合わせれば、それもまた滋味に思える。

 確か祖母の話では、本来炊いてもパサパサの稗を、米に合わせて巧く炊くのは至難の技であり、しゅうとめのガチな嫁いびりに対抗する嫁力よめぢからの見せどころだったそうだ。今の健康食品としての五穀米や、レトロが売りの観光地で食わせる「ちょっとだけ稗を入れて古里っぽさを演出してみました。さあ郷愁のお味っぽいのをどうぞ」な稗飯ではない。冷めた半稗飯の弁当を、うっかり風の強い野良で開けると、分離した稗の部分だけが風に乗ってぱらぱらと飛んでいってしまう、そんな代物しろものなのである。

 しかしこれは間違いなく、チヨコが台所の羽釜はがまで炊いていた飯だ。

 俺は思わずチヨコの顔を、じっと見入ってしまった。

 ――ちっこいくせに、ずいぶん苦労してんじゃないか、お前。

 チヨコは喜色満面で、ちまちまと飯をついばんでいる。

 俺はちょっとうるうるしそうになりながら、気づかれないうちに目を逸らし、むくり鮒に箸をのばした。

「さあて、いよいよ主役の大御馳走だ」

 俺は文字どおり貧乏性なので、いちばん旨そうなおかずは最後の楽しみにとっておく。

 チヨコも、俺より先に手を付けるのを遠慮していたのだろう、神妙にうなずき、一拍遅れて大皿に取りついた。

 むしゃむしゃ、むしゃ。

 ちまちま、ちま。

「……んまいな」

 いつどこで食材を調達したかは知らず、文句なしに東北ネイティブ御用達ごようたし、コテコテの甘辛さだ。

「……ん~~」

 チヨコは日向ひなたの猫のように目を細め、ゆらゆらと顎を泳がせた。

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