野薔薇姫 山の章 四(後編)


 箪笥たんすの上には、これまた古い富山の置き薬の木箱と、箪笥よりも色の薄い倹飩けんどんが乗っていた。倹飩というと、東京者などは蕎麦そば屋が出前に使う岡持おかもちをまず思い浮かべるらしいが、このあたりの田舎では、左右引き戸式のちょっとした戸棚をいう。

 その倹飩の引き戸をずらし中を覗いて、俺ははなはだ困惑した。板目の引き戸の直後が、また板目なのである。取っ手もなければ窪みもなく、ただの一枚板に見える。これでは収納具として用を足せない。試しに表面を叩いてみたら、奥まで堅い材木そのものの音がした。

 ――これは奇っ怪。

 先刻、ちょっとしっかりしていると思った他の造作を、念のためにあらためなおす。すると脇床わきどこの上の天袋てんぶくろも、倹飩の同類であることが判明した。引き戸の直後が、すぐに白壁なのである。

 ならば他にも怪しげな奴は――。

 思い当たって桐箪笥の上から富山の薬箱を下ろし、そのふたを開けようとした俺は、意表を突かれてつい失笑してしまった。そもそも蓋がない。文字どおり木型モックアップなのである。間近に見れば、毛筆体で印刷された『越中富山御薬』のうち『越』や『御』など画数の多い文字は、線が多かったり足りなかったり妙なところでくっついていたり、遠目にそれらしく見えるだけの嘘字だった。

 なんじゃこりゃと目一杯とっ散らかりつつ、その一方でストンと腑に落ちる気もする。自分の目の届かない部分や、なんだかよく判らないものは適当に省略――。

 俺は脱力して、元の縁側に戻った。

 縁側は長く、座敷とふすまで仕切られた左隣の部屋の障子しょうじも見えているが、あえて探索する気は失せていた。手動式自動井戸などというシロモノを備えた家が、どんな構造であろうと驚くには当たらないわけである。いつしかその井戸も自分の仕事を終え、朧気おぼろげな月明かりの下、名残なごりしずくだけをぽとりぽとりと滴らせている。

 やがて縁側の角から、元気な足音がとととととと近づいてきた。

「おじさん、おふろがわきました」

 大人びた物言いながら、いかにもあの掛け軸の作者にふさわしい舌足らずな声だった。


 小ぶりのランプを携えたチヨコに案内されて縁側の角を曲がり、右を座敷の側面の障子、左を白壁に挟まれた廊下を進んで行くと、右手の座敷奥は廊下と同じ板敷きの台所になっており、左手は石畳を敷き詰めた土間――正確には石間と呼ぶべきか――と裏口になっていた。風呂場は、その土間だか石間だかの一角にある。

 風呂場といっても、衝立ついたても何もない石畳の延長で、ただ木製の鉄砲風呂と、洗い場にあたる半畳ほどの簀子すのこが敷かれているだけだ。水捌みずはけは、銭湯のような壁際の溝と、風呂桶の下の見えないあたりに傾斜した幅広の溝を設け、外の溝に繋げているらしい。

 これだと入浴姿が台所や廊下から丸見えなので、都会者や平成生まれの若い衆などはかなりビビるだろうが、思えば俺の母の実家がトタン屋根に変わる前、まだ茅葺かやぶきの農家だった頃は、やっぱりこんな風呂場しかなかった。幼かった俺は母の里帰りにつきあうたび、年上の従姉いとこたちが平然と入浴している横を通って水呑みや外便所に行かねばならず、けっこう恥ずかしかったり、実はちょっぴり嬉しかったりしたものである。

 鉄砲風呂の形や構造も、当時の田舎と似たり寄ったりだった。要は人ひとり収まるほどの、どでかい小判型のふたつき木桶である。もっとも蓋が外れるのは上面の三分の二ほどで、残る三分の一はあらかじめ板で塞がっており、そこからブリキの煙突が生え、まきや炭を放りこむ丸い鉄製の火口ほぐちも、煙突の隣でどーんと上を向いている。つまり桶の内側横に沈めた円筒状の鉄竈てつがまの中でまきや炭を燃やし、直接水を温める構造になっている。ぶっちゃけ人と鉄竈が、いっしょに湯に浸かるわけだ。当然、追い焚き中に竈に触れると火傷でズルムケになってしまうから、湯の中を木製の簀の子で縦に仕切ってある。

 ちなみにこの風呂桶様式は、遠く江戸時代に生まれ、明治・大正を跨ぎ、実に昭和中期、灯油やガスの湯沸し器が普及するまで脈々と一般日本家庭の多数派であり続けた。もっとも細部には種々のバリエーションがあるようで、火口が桶の横下にあるタイプや、竈の大部分が達磨だるまストーブのように桶の横に分離し、竈から生えたくさび状の鉄の筒だけが桶の中を通るタイプなども、昔、近所で見たことがある。

 俺は、竈の中身がちょっと気になった。薪なら子供ひとりでもなんとか調達できないことはないが、炭を使っているとしたら、それを製造供給する誰かが近くにいなければならない。煙突の横に置いてあったかぎを使って火口の鉄蓋を上げてみると、中身は薪でも炭でもなく、何か木の枝のようなものが絡み合いながらわやわやと燃えていた。見れば土間の隅の暗がりには、乾燥した野薔薇の枝葉が山積みになっている。それで煮炊き一切をまかなっているらしい。

「……おふろだも」

 後ろでチヨコがつぶやいた。

 それから妙に改まって、

「ふつうの、おふろですよ」

 俺の詮索的な挙動に不安を抱いたのか、声が途中で裏返っていた。

「うん、お風呂だ」

 俺はせいぜい目を細めて言ってやった。

「立派な風呂だな」

 まだ心配そうなチヨコに見守られながら風呂桶の木蓋を上げ、顔に湯気を受けた段階で、疲れた体にさぞ良さげな、ぬるめのお湯なのが判った。手先を沈めてみると、水質はまるで鉱泉のように柔らかい。

「おお、湯加減も完璧だ」

 俺が思わずトロけるような声を漏らすと、チヨコもようやく緊張を解き、安堵の溜息のように「かんぺき……」とひとりごちたのち、

「それではおじさん、ごゆっくりどうぞ」

 また妙にませた口をきいて深々と一礼し、ランプを廊下に残して、向かいの台所にとことこと去っていく。正体はちっとも判らないけれど、つくづくおもしろい奴だ。いや、判らないからこそおもしろいのだろう。チヨコも、この家も。

 たとえば俺が汗染あせじみだらけのTシャツを勇んで脱ぎにかかって、ありゃ脱衣だついかごか何か欲しいな、タオルも石鹸もないぞと気づき、Tシャツから首を抜いてみれば、の横の廊下には、大ぶりの丸い竹籠が最初からそこにあったようにそこにある。こん竹縞柄たけじまがら手拭てぬぐいと、無骨な固形石鹸のアルマイト箱も、きちんとその籠に収まっている。しかしチヨコは台所の奥の、羽釜はがまを乗せたかまどの前にしゃがみこみ、竹筒でぷうぷうと火の粉を散らしているのである。

 ――ま、いいか。

 俺は思考を停止して、微かに野薔薇の香りのする風呂の湯に、ずぶずぶと顎まで浸かった。

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