野薔薇姫 山の章 四(後編)
その倹飩の引き戸をずらし中を覗いて、俺は
――これは奇っ怪。
先刻、ちょっと
ならば他にも怪しげな奴は――。
思い当たって桐箪笥の上から富山の薬箱を下ろし、その
なんじゃこりゃと目一杯とっ散らかりつつ、その一方でストンと腑に落ちる気もする。自分の目の届かない部分や、なんだかよく判らないものは適当に省略――。
俺は脱力して、元の縁側に戻った。
縁側は長く、座敷と
やがて縁側の角から、元気な足音がとととととと近づいてきた。
「おじさん、おふろがわきました」
大人びた物言いながら、いかにもあの掛け軸の作者にふさわしい舌足らずな声だった。
小ぶりのランプを携えたチヨコに案内されて縁側の角を曲がり、右を座敷の側面の障子、左を白壁に挟まれた廊下を進んで行くと、右手の座敷奥は廊下と同じ板敷きの台所になっており、左手は石畳を敷き詰めた土間――正確には石間と呼ぶべきか――と裏口になっていた。風呂場は、その土間だか石間だかの一角にある。
風呂場といっても、
これだと入浴姿が台所や廊下から丸見えなので、都会者や平成生まれの若い衆などはかなりビビるだろうが、思えば俺の母の実家がトタン屋根に変わる前、まだ
鉄砲風呂の形や構造も、当時の田舎と似たり寄ったりだった。要は人ひとり収まるほどの、どでかい小判型の
ちなみにこの風呂桶様式は、遠く江戸時代に生まれ、明治・大正を跨ぎ、実に昭和中期、灯油やガスの湯沸し器が普及するまで脈々と一般日本家庭の多数派であり続けた。もっとも細部には種々のバリエーションがあるようで、火口が桶の横下にあるタイプや、竈の大部分が
俺は、竈の中身がちょっと気になった。薪なら子供ひとりでもなんとか調達できないことはないが、炭を使っているとしたら、それを製造供給する誰かが近くにいなければならない。煙突の横に置いてあった
「……おふろだも」
後ろでチヨコがつぶやいた。
それから妙に改まって、
「ふつうの、おふろですよ」
俺の詮索的な挙動に不安を抱いたのか、声が途中で裏返っていた。
「うん、お風呂だ」
俺はせいぜい目を細めて言ってやった。
「立派な風呂だな」
まだ心配そうなチヨコに見守られながら風呂桶の木蓋を上げ、顔に湯気を受けた段階で、疲れた体にさぞ良さげな、ぬるめのお湯なのが判った。手先を沈めてみると、水質はまるで鉱泉のように柔らかい。
「おお、湯加減も完璧だ」
俺が思わずトロけるような声を漏らすと、チヨコもようやく緊張を解き、安堵の溜息のように「かんぺき……」とひとりごちたのち、
「それではおじさん、ごゆっくりどうぞ」
また妙にませた口をきいて深々と一礼し、ランプを廊下に残して、向かいの台所にとことこと去っていく。正体はちっとも判らないけれど、つくづくおもしろい奴だ。いや、判らないからこそおもしろいのだろう。チヨコも、この家も。
たとえば俺が
――ま、いいか。
俺は思考を停止して、微かに野薔薇の香りのする風呂の湯に、ずぶずぶと顎まで浸かった。
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