野薔薇姫 山の章 四(前編)
さて俺は今、すっかり日の暮れた縁側に腰をかけ、あてどない旅で一夜の宿りを得た渡り鳥のように、気どった溜息なんぞをついている。澄んだ星空に浮かぶ上弦の月が、裏庭や薔薇園や、彼方の森と山並みを薄蒼く照らしている。やや赤みをおびた真夏の月の、その光が地に届くときなぜ蒼くなっているのか、俺はいつもながら不思議に思った。もう忘れてしまった小学校あたりの理科で習ったろうか。夜の大気が蒼いのだろうか。
ヤマムラチヨコと名乗った幼女は、縁側の右角を折れた奥の間で、俺のために
「――ぜったいに、のぞかないでくださいね」
チヨコがなにやら思わせぶりに、妙にませた口調で残していった謎の言葉を尊重し、あえて奥の間を覗く気はないが、わざわざそっちを覗かなくとも、ふつう他人に見られて困るような非常識な事態は、今も俺の眼前で平然と展開している。あの井戸の手漕ぎポンプが、無人の庭でキコキコとぎこちなく自動律動し、ぶっとい蛇口から水を吐きだし続けているのだ。その水流は不規則で低密度ながら、月光の庭の地上一メートルほどを
これは便利だ。非常識でも便利は便利だ。幼い体で何度も水汲みに通うのは辛かろう。俺も水物を梱包運搬する現場にしばしば通っているので、その辛さがよく解る。ミネラルウォーター2リットルボトル1ダース入り段ボール箱が、勝手に空を飛んでホームセンターの店先に山積みになってくれたら、どんなに楽だろう。もっとも勝手に飛ばないおかげで俺たちが日銭にありつけるのだから、やっぱり飛ぶべきではないのだけれど。
当初、なぜ無人自動井戸が公開可で風呂沸かしが非公開なのか俺には理解できず、幼いがゆえの思慮足らずなのだろうと笑いそうになってしまったが、思えばこれは、むしろ幼さに似合わぬ心遣いなのではないか。チヨコが目の前で水汲みを始めたら、当然俺は助力を申し出る。チヨコにしてみれば、ようやく迎え入れたお客様に労働を強いることになるわけである。
なんにせよ、
もっともチヨコの首は、よほど動転しないかぎりもげないものらしく、あのとき泣きじゃくっている間にも、そしてその後も、一向に落っこちる気配はなかった。
で、なかなか奥からお呼びがかからない。
何か魚を
座敷中央の黒光りする座卓に置かれた大ぶりのランプが、目に入るかぎり唯一の照明である。団塊
蛍光灯育ちの俺には部屋中とにかく薄暗く、目が慣れるまでだいぶ往生したが、柱周りや建具の造作を見て回ると、どれも職人仕事全盛期を感じさせる頑丈な造りだった。ただ経年の傷みは傷みのままに放置され、一体に薄黒く
あのとき首だけチヨコがしゃべっていた床の間も、改めて見れば、違い棚のある
床の間の
同型の十段の引き出しのうち、七段までは空っぽだった。
その下の八段目と九段目には、えらく着古した男物の和服や洋服や下着類が、季節ごとにきちんと整理されて収まっていた。するとこの家には、やはりチヨコ以外の大人も、最低ひとりは住んでいるのだろうか。しかしあまりにデザインが古臭く、すっかり
そして最下段の引き出しに、チヨコの衣類。チヨコのものと推定したのは、数着あるちっこい衣類が、すべて今着ている
その白い中にショーツならぬズロースを見つけ、俺は思わず手を伸ばしかけた。いや、けして
俺が幼児の頃、すでにグンパンに駆逐されて滅びつつあった、
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