野薔薇姫 山の章 三(後編)


 棒立ちになっている俺を尻目に、首なし娘は泡を食ってわたわたと縁側にうずくまり、こちらに背を向けたまま両手で頭を、いや推定頭のあたりを抱え、ぷるぷると震えながらつぶやいた。

「ぶたないでぶたないでぶたないで……」

 そのか細い声は、当然、どこか明後日あさっての方角から聞こえた。

 八畳ほどある座敷の奥、床の間の隅の暗がりで、鼻先を赤くした小さなおかっぱ頭が、ぷるぷると震えている。はずみで転がってしまったまんまだから、胴体のように俺の目を避けるわけにもいかないのだろう、いとけない黒目がちの瞳をうるうると潤ませ、

「いじめないでいじめないでいじめないで……」

 なんともはなはだしく父性本能をくすぐる哀訴の声ではある。オリコン・チャートに『守ってあげたいボイス・ランキング』があるとしたら、年間ベストテン入り確実な響きである。ではあるのだが――。

 俺は娘の生首から目を離せないまま、じりじりと数歩後ずさった。

 いやだから俺は君がただの女の子でもただならぬナニの子でも殴ったり虐めたりするつもりなどはなから微塵もないわけで、いやむしろこちらこそお願いですからかんべんしてください――。

 するうち、首だけ娘のうるうる視線に、なにやらニュアンスの異なる光が宿った。おや? というように俺の全身をしげしげと見定める瞳には、臆病な野良猫がふとしたきっかけで家猫に転身する直前のような、懐疑と希求の葛藤が感じられる。――おや? なんかちょっと久々になついてみたい感じ? みたいな。

 縁側にうずくまっていた首なし娘が、ふと身じろぎした。おずおずとこちらに振り向き、ためらいがちに立ち上がる。やがて決心したように、俺に向かって一歩踏み出す。ただしその視覚器官は、あくまで座敷の奥にある。

 灰色のウニと化した俺の脳味噌の中で、色違いのふたりの俺が拮抗していた。

 白い俺。

 おいおい、一歩先はまた庭の踏み石だぞ。さっきより派手にすっころびそうだぞ。大丈夫か、こいつ――。

 黒い俺。

 いやいや、こんな妖物を心配しているバヤイではない。ただちにきびすを返して遁走しなければ――。

 結句、首のない花柄浴衣ゆかたが縁側から足を踏み外してぐらりとつんのめった瞬間、俺の父性本能は防衛本能を踏みつぶし、前方にダッシュしてそれを抱きとめてしまった。

「…………」

「…………」

 うわ、ちっこくてあったかくてやーらかい――。

 それ以外、思うべき事は何もない。

 今まさに目の前にある、血こそ流れていないものの生々しい首の断面図に関しては、何を思っても無益である。

 俺はしらばっくれて、手脚のある花柄浴衣を何事もなかったかのように縁側に据えつけると、

「うあああああああ!」

 この世の終わりのような悲鳴をあげ、背後の野薔薇道に向かって逸散いっさんに逃げだした。


 俺は生活能力に比例して度胸がない。背後から巨大な岩石が転がってくるインディ・ジョーンズもかくやとばかり、恐怖に帆を掛けてどどどどどと駆けに駆けた。野薔薇の道はやはり無限のように続いており、逃げる先にだけは困らない。

 やがて巨大な岩石の転がる大音響の代わりに、大人の俺よりも速い子供の足音と哀訴の声が背後から追いついてきた。

「にげないでにげないでにげないで……」

 ――すまん、逃げる。現在いじめられているのはたぶん俺。

 そう自分に言い訳しながら、なぜか一抹の後ろめたさを抑えきれない。いっそ追跡者が奪衣婆だつえば黄泉醜女よもつしこめのごとき陰性根性丸出しキャラであればいいのに、などと横目で振り返ってみれば、夕暮れの蜜柑みかん色に染まった野薔薇天井の下をとととととと一所懸命に追いかけてくるのは、あくまでべそっかきの幼女なのである。首が落っこちないように自分で支えているので両手を振れず、とても走りにくそうだ。事実、ときどき地べたの凸凹に足をとられてコケかけている。

「にげないでにげないで……」

 いたいけに潤んだ上目うわめづかいの瞳で、自分の濁りきった目玉を直撃され、俺は激しく動揺した。

 蚊が鳴くほどの哀訴とはうらはらに、娘のまぶたからは、この小さな頭のいったいどこからこんなに流れ出てくるのかと怖くなるほど、ひっきりなしに涙が溢れている。

 いかん。子供にこんな顔をさせてはいけない。大量の涙には、地獄の鬼さえ地べたに額をこすりつけて許しを乞うほどの壮絶な泣きじゃくりを伴う、それが正しい子供である。子供がこんな歪んだ泣き方をするとしたら、それは畢竟ひっきょう、周囲の世間が間違っているのだ。

 俺は我ながら呆れるほどすなおに翻意して、ただちに立ち止まった。

「あう」

 ぽん、と背中にぶつかって尻餅をつきそうになる娘の頭と肩を、俺は咄嗟とっさに支えてやった。あのリアルな断面図だけは二度と見たくない。

「……おい、大丈夫か?」

 食後の河馬かばのように他意なく笑ったつもりだったが、娘は少々怯えた様子で、

「にげないで……」

 などとつぶやきつつ、逆に自分が逃げようとしている。

 ――どっちやねん。

 俺は思わず失笑してしまった。正体がなんであれ、たわいないものではないか。

「こんどは、おじさんが鬼か?」

 そう優しく訊ねると、娘はおずおずとその場に腰を据え、真意を計るように俺を見上げながら、しばしぐしゅぐしゅとはなをすすったのち、

「う……」

「う?」

「……うわあああああ!」

 うん、OK。涙と大音声だいおんじょう地団駄じだんだと連続ボディーブローが、きっちり同調している。これが正しい子供である。首は着脱式だけど。

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