野薔薇姫 山の章 三(前編)


 その異物が遠目にも幼女と察せられたのは、黒々としたおかっぱ頭とつんつるてんの和服のバランスが、六頭身そこそこに見えたからだ。年の頃なら五、六歳だろうか。

 俺は生活能力に反比例して視力がいい。だからその子供が普通に地べたに立っていればもっと早く見つけたはずなのだが、天井と地べたの中間あたりで野薔薇の壁に張りついていたものだから、なかなか視認できなかったのである。おまけに今はっきりと見えてきた浴衣ゆかたがらが、萌葱色もえぎいろの地に紅白の花模様もよう、つまりほとんど保護色になっている。そんなのがこんなところで宙に浮いていたら、誰だって野薔薇の妖精、推定名称ノバラちゃんだと思うだろう。思わないか。俺は思った。

 しかしさらに脚を速めて近づくと、なんのことはない、単に幼女は古びた木製の脚立きゃたつに登って、野薔薇の枝葉を手入れしているだけなのだった。脚立のてっぺんでうんしょうんしょと背伸びをし、身の丈に似合わぬ大人用の刈込鋏かりこみばさみを器用に両手で操るその姿は、どう見ても妖精のたぐいではなく親孝行な農家の娘っぽい。そもそも果てしないとばかり思っていた野薔薇の路が、脚立のかなり先で途切れている。目をらせば、出口だか入口だか定かではない外光の先には、乾いた土の地面と、木造家屋の一部が垣間かいま見えた。

 これはもしや、ここまでの経緯そのものが、俺の茹だった脳味噌による白日夢だったのではないか。裕福な園芸農家の敷地にでも迷いこみ、堂々巡りしていただけではないのか。そろそろ夕方が近いらしく、よどんだ温気の中を微かに渡りはじめた山風が、そんな自問を確信へと裏打ちしていた。

 俺は脚立の数メートル手前から、幼女に声をかけた。

「やあ、こんにちは」

 しかし剪定せんてい作業に夢中の幼女は、まったく俺に気づかなかった。

 さらに脚立に近寄ると、刈込鋏の刃先を仰いでいる幼女の表情が見てとれた。柔らかそうな白い頬に自前の薄紅うすべにを浮かせたその横顔は、家の手伝いというより、大好きな遊びに没頭している幸福な子供の笑顔そのものだった。

 脚立は大した高さではなく、胸高むなだかに締めた子供っぽい赤帯が俺の眼高あたりに揺れている。脚立の後ろには負ぶい紐の付いたどでかい竹籠が置いてあり、刈られた枝葉が中程まで溜まっている。今どき草履ぞうりに浴衣の農作業は、いかに片田舎でも時代錯誤な気がするが、お手伝いのあとは鎮守の森で夏祭り、あるいは公民館広場で盆踊り、そんな段取りなら不思議はない。

 俺は脚立の横に立ち、なるべく脅かさないように軽い調子で挨拶した。

「こんにちは、お嬢ちゃん」

 刹那せつな、刈込鋏が静止した。同時に幼女の体全体がびしりと収斂しゅうれんし、凍りついたように硬直した。なんぼ予期せぬ出来事だったにしても反応が過剰すぎる。俺は少々面食らいながら、あわてて詫びを言った。

「ごめんね、いきなりで脅かしちゃったかな」

 このあたりの田舎の子供は見知らぬ余所よそ者に挨拶されると、おおむね二種類の反応を見せる。やたら人なつこい笑顔で元気に挨拶を返すか、逆に銅像のようにしゃっちょこばるか。この子は金メダル級の後者なのだろう。

「えーと、おじさんね、ちょっと道に迷っちゃったみたいなんだ」

 猫撫で声でいう間にも、幼女は宙空を仰いだまま、びし、びし、びし、と二度三度収斂し、

「えーと、君のお家の人は――」

 俺が言い終わらないうちに、

「うあああああああ!」

 この世の終わりのような悲鳴をあげ、いきなり脚立の上からあっち側へ跳躍し、そのまま宙空を飛び去るのではないかと思うほど滞空時間を稼いだ後、見事な着地のキメもそこそこに、野薔薇道をとととととと逃げてゆく。

 俺はさらに面食らいながら、その後を追いかけた。

「おーい」

 けして無闇に追いつめる気はないが、あの剣幕で親でも呼ばれた日には、このご時世、いきなり警察に通報されかねない。

「ちょっと待ってよー」

 せいぜい優しく声をかけながら、幼女を追って薔薇園を抜ける。

 そこはひなびた山家やまが縁側えんがわに面する、広々とした裏庭だった。入母屋いりもやづくりの重厚な茅葺かやぶき屋根はそこそこの旧家を思わせたが、明らかにここ何十年も葺き替えられていない。

 幼女は物干し竿ざお手漕てこぎポンプ井戸の間を脱兎の如く走り抜け、縁側の奥の障子しょうじが開け放たれた座敷を目ざし、草履を脱ぎ散らそうとして踏み石に足を引っかけ、べん、と倒れこんだ。

「あうっ」

 あのイキオイでは、顔面から縁側を直撃したのではないか。

「だ、大丈――」

 夫? と訊ねかけて、俺は立ちすくんだ。

 縁側に半身をあずけてうつぶせになっている幼女の、肩の上には首がない。うなだれているから見えないのではない。頭部そのものが消えているのである。

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