野薔薇姫 山の章 二


 あの山奥の製材所で臨時派遣の夜間作業を終えたときにはすでに朝の九時を回っていたからもうそろそろ昼飯どきなのだろうなあ腕時計は持ってないしガラケーを見てみようありゃ電池切れだわでも腹はへってないしなんでだか喉も渇かなくなってきたしああとりあえずなんかもうどうでもいいや、などと、けしてどうでもよくないはずの物事をだらだらと汗に溶かし続けながら、さほど高くないひとつの峰を越え、下り、さらに峰を越えて下り、細々とした渓流に添って遡上する粗末な木道にさしかかった頃、いったんは途切れていた野薔薇の繁茂が、また路傍に連なりはじめた。

 木道は崖にへばりつくようにでっこまひっこまと曲がりくねり、へばりつけないほどけわしくなるとちょっと困ったなあというように渋々段差を重ねて崖上の山道まで上がったりしたが、深緑に紅と白を散らした野薔薇の群生だけは、道の片側一方になったり両側に戻ったりしながら、ただ延々と飽きもせず続いているのだった。

 こうなると染五郎の反復だけでは間がもたない。


「♪ わっらっべっはっ見ぃたぁり~~野っなっかっのっ薔~ぁぁ薇~~~」


 俺はポピュラーなシューベルトやウェルナーの旋律のみならずベートーベンやらシューマンやらブラームスまで総動員し、さすがにゲーテの原詩までは覚えていないので同じ近藤朔風の世話になりながら、やけくそのように旋律違いの同詞歌を口ずさみ続けた。


「♪ 紅におう~~野~~なか~~の薔~ぁぁ薇~~~~~」


 するうち木漏れ日の山道は野薔薇の藪による天然のドーム状通路と化し、いいかげん歌い飽きてきた俺を叱咤しったあるいは鼓舞するように、もしくは萌えキャラじみたノバラちゃんか何かのまうこの世ならぬどこか虹の彼方の国にでも導くように、あくまで遠く果てを失っているのである。

「……やめ」

 俺は自分が心身ともに茹で上がりつつあることに気づき、すとんと路傍に腰を落とした。熱中症の寸前までいくと、人は空腹も喉の渇きも自覚できなくなる。何人もの日雇い仲間が、毎年この時期にぶっ倒れている。しかし老人や子供はともかくアブラぎった中年男が易々と渇死できるほど日本の夏は甘くない。ぶっ倒れている間は日銭が稼げないだけだ。

「はい休憩」

 地べたに胡坐あぐらをかいた俺の顔や胸の辺りを、確かヤマキマダラヒカゲとかいう数センチほどの胡蝶こちょうが一羽、いや正確には一頭だったかゆらゆらと飛び回っているのは、先程から俺の美しい歌声を慕ってずっとついてきているのである。というのは大嘘で、黄褐色の羽一面に黒い斑点を浮かべたこの花嫌いの蝶は、俺の汗に含まれる水分や各種ミネラルを慕っているだけだ。ひらひらではなくゆらゆらなところを見ると、こいつも枯渇しかけているのか。

 俺は末期まつごの幻覚としか思えない無限の野薔薇にはらまれながら、野薔薇の香りが嵩じて中の岩清水にまで溶けこんだようなペットボトルをかかげ、息も絶えよと飲み下した。


 半煮えの脳味噌は、ものの数分で猫でもなめられる程度に冷めてきたが、野薔薇の藪はあいかわらず地べた以外の俺の周囲を覆いつくしている。高さと幅は俺のねぐらと大差ないから、せいぜい三畳間程度か。ただし奥行きは半端ではなく、後ろも先も窺えるかぎり徹底的に野薔薇である。天の川のほんの源流のようにちらちらと天空光が漏れ続くそのさまは、律儀りちぎな庭師が隊列を組んで毎日毎日せっせと刈りこんでもここまで端正ではあるまいと思われるほど端正だ。

 闇雲に歩いているうちにどこか観光地の大庭園にでも迷いこんだのかと俺はいぶかったが、ここいらにそんな景気のいい代物があるとはついぞ聞かないし、といって仮に大自然の為せる奇跡なら、俺の脚で偶然辿たどり着ける程度の場所のこと、とうの昔にネットや旅本で喧伝しまくられ全国から暇人の群れが押し寄せているはずだ。一般世間は今しもバカンスの真っ最中なのである。

 やっぱりこれはもう死んだな俺、と俺は観念した。極楽に花はつきものだ。そして俺は最低の後半生を迎えこそすれ、他人様ひとさまの物に手を出したり他人様に手を上げたりしたことは一度もない。そんな度胸があったらそもそもここまで落魄していないだろう普通。まあ子供の頃に文房具屋で消しゴムを万引きしたり蛙の尻に爆竹を突っこんで木っ端微塵に吹き飛ばしたりしたことはあるが、あれしきのことで地獄に堕ちるなら地獄などネアンデルタール人やクロマニョン人だけで満杯になっているはずだ。すると、この野薔薇のみち辿たどっていけば噂に聞く極楽浄土、はすうてなが浮いている雲の池あたりに出るのか。

 俺は飲みかけのペットボトルを肩掛け鞄にしまいこみ、微妙に仄暗ほのぐらい野薔薇天井の下、とりあえずまただらだらと歩を進めはじめた。このに及んで先の渇きに備え、いたずらな疲労を避けたりするのは、無論まだ死んでいない可能性が残っているからである。観念と実相は往々おうおうにして相反あいはんする。俺もまるっきりの馬鹿ではない。


 洞窟ならぬ薔薇窟は、ときおり思い出したように緩やかなうねりを配しつつ、全体的には平坦に、ほぼまっすぐに続いていた。この山間に勾配のない地形が何キロも広がっているはずはないから、やはり俺はすでに彼岸にいるのだろう。いやしかし、吹雪の山中で道に迷ったときのようにただ大きなひとつの円をぶっ倒れるまで描いているだけだとすれば、死にかけているにせよまだ死んではいない。

 そのあたりを明確に判断できる指標がちっともないので、俺はいいかげん面倒になってきた。美しい光景もかんばしい香りも、こうワンパターンで長々と続かれると歩きながら眠りそうになる。いや眠りながら歩きそうになる。同じだ同じ。とにかくもうかったるくて何も考えたくない。通りすがりのお百姓さんなり三途さんずの川の奪衣婆だつえばなり、誰でもいいから俺より社会的アイデンティティーの確立した何者かにすべてを丸投げし、白黒つけてもらいたい。はたして俺は此岸しがんにいるのですか彼岸ひがんにいるのですか。

 今年の正月に成人式を迎えたばかりのかわゆいノバラちゃんがジャッジだったりするともっといい。あらそこのおじさまスカな人生ホントにご苦労様でした。もうおじさまは苦しいだけのあっち側になんて戻らなくてもいいのよ。さあアタシといっしょにこの秘密の花園でいつまでもいつまでもダラダラ遊んで暮らしましょ。でも変なとこ触ったらトゲトゲで血まみれにしてやるかんなこのウスラデブなんちゃってウソウソ怒っちゃヤダ。

 ちなみにノバラちゃんというのはあくまで俺が勝手に命名した想像上の野薔薇の精だから、薔薇っぽくさえあれば三十路みそじなかばまでは許す。しかしあのような幼女ではいけない。干支えとでひとまわり足りないのである。あれでは下手に関わるとたとえ非実在キャラでもア●ネス・●ャンの差し向けた官憲に問答無用で別件逮捕されて誘導尋問の末に児ポ――


 ――待て。

 俺はなんの話をしている。

 幼女?


 視界の右手前方に、薔薇ではない小さな異物を認め、ようやく俺は脳味噌や網膜にかかっていた幾重いくえもの粘膜をめりめりと引きはがし、あとうかぎり脚を速めた。

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