第四章 アビスブラック・テンタクルース
第37話 人間なんて嫌い
幸福だけで形作られたそのセカイは、子どもだけが楽しめる楽園だった。
「コーヒーカップやばかったね。めっちゃぐるぐる回った」
「うぅん……ムギはもう二度と乗らないからな……」
身体に残る遠心力にうなされ、ムギノはアマネさんの横でふらついていた。
わたしは今、アマネさんとムギノと一緒に遊園地に来ていた。
ガリスとの戦いが『敗北』という形で終わったのに、こんな所にいるのには理由がある。
この場所に、ソノアのカイエがあるからだ。
…
―――十時間前。
ガリスとの戦いが終わり、わたしたちはナイトプールに来ていた。
ホテルの上階に位置しているため、眺望はかなり良い。東京の夜景の中で、小さな光の点が動いたり、点いたり消えたりする。それは命の灯火。あの光の傍に、その一つずつに、生きている人たちがいるのだ。世界はこんなにも、夜に敗けずにちゃんと生きている。
「いい景色でしょ? 人の強さと優しさが見えて好きだから、私よく来るんだ」
茫然と眺めていたわたしの隣に、水着姿のアマネさんがやって来た。夜の暗闇で、すらりとした身体のラインが際立っている。翠色の布地が華やかさをまとわせ、アマネさんを彩っていた。可愛いとか美人というより、綺麗だとわたしは思った。
「強さは分かるけど……優しさって、どこがですか?」
純粋に気になって、訊いてみた。
夜を退ける人工灯に人間の強さを感じるのは分かる。だけど、優しくはないと思う。一日の半分を生きる「夜」を、昼のような明かりで追い払うのは攻撃的ですらある。
アマネさんは目を瞬かせることもしないで、やんわりと言った。
「そうだなぁ……例えばさ、あのビルの航空障害灯があるでしょ? 飛行機が衝突しないように光ってるあれ。今あそこには、誰もいない。眠りに落ちてる。でも、自分が眠ってる間にも知らない誰かを傷つけてしまわないように『自分はここにいる』って言ってる。――それって優しさじゃないかな?」
そう、なのかもしれない。言われてみて、わたしは不思議と納得してしまう。
自分はここで生きていると言うことは、何も悪いことじゃないのだ。
「アマネさんに言われると、そんな気がします。なら、わたしが居ていいんですか?」
「んえ? なんで?」
「だってここ、アマネさんのお気に入りなんですよね? ―――わたし〈赤〉の侵触体に場所がバレてるのに」
ガリスが守っていたケースは空っぽ――ソノアのカイエは、入っていなかった。
そのすぐ後、アビストスは『〈赤の侵触体〉たちのカイエの移送』を補足した。わたしたちが向かったあの廃ホテルは、そっちを悟られないための
―――そして、タイムリミットを迎えた。
わたしのカイエは、ソノアのカイエとリンクしてしまった。
だから現在、わたしの居場所は〈赤の侵触体〉に完全にバレている。
もしかしたら、既にこのプールのどこかにいるかもしれない。戦いになれば、アマネさんのお気に入りであるこの場所を壊すことになってしまうだろう。
「……ミウナは優しいね。ありがと」
そう言ってアマネさんは、野花みたいに嬉しそうに咲った。
わたしは照れて「どういたしまして」も言えなかった。この人に「優しい」と言われると、自分が本当に優しい人間になれたような気がしてしまうのだ。
「でも大丈夫。このホテルで働いてるのは、みんなアビストスの侵触体だから」
アマネさんたちが喫茶『あまはら』を営んでいるように、ホテルを経営している者もいるのだろう。従業員の人がやけに仰々しかったのも、そういう理由か。
アマネさんは目を強かに細め、ずっと遠くの方を見つめた。
「それに、明日のために気持ちはリセットしておかないと」
アビストスは、調和性未来確定器――〈
そこはとある遊園地で、母星に帰るための〈船〉も用意されているようだった。
もしソノアのカイエが地球から持ち出されたら、わたしにはもう取り返せないし――居場所がバレているから、休む間もなく永遠に戦い続けることになる。
それは、ソノアの「幸せに生きて」という願いとは程遠い。
なんとしてでも、明日の戦いでカイエを奪い返さないといけない。
だからわたしには、戦うという選択肢しかない。
「……なんでアマネさんは……わたしを、助けてくれるんですか?」
でもアマネさんは――アビストスは違うはずだ。わたしの居場所がバレるのなら、それでも手出しができないところに封印すればいい。むしろそれが最善のはずなのだ。
なのにどうして、アマネさんは、わたしの意志を尊重してくれるのだろう。
「なんで、人を助けようと思ったんですか?」
自分のことから連鎖して、そこまで気になってしまった。
今ならはっきり分かる。―――わたしは、人間のことが嫌いだと思う。
人間の中にも、アマネさんみたいな人は確かにいた。
でもそういう人は、誰よりも傷つけられてしまう。
人間は都合がいいように〈優しい人〉を消費する。そのうえで、まるでその人が消費されるのが正しいみたいに「優しい」なんて耳障りのいい言葉をあてがって。
消費しきったら、ゴミみたいに捨てるのだ。
「あの人は変わった」「おかしくなった」
「病んだのは心が弱いから」「死ぬのはよくない」
優しさには底がある。
尽きてしまえば、自分自身にも優しく出来なくなってしまう。
なのに〈優しい人〉を消費する人間たちは、その人が壊れても助けてくれない。
ただこれからも、みんなに都合のいい〈優しい人〉として生かそうと「死ぬのはよくない」なんて言うのだ。
―――「あなたをつらくするものを壊してあげる」なんて、誰も言ってくれない。
何がアマネさんにそこまで人を信じさせるのかが、わたしには分からないのだ。
アマネさんは、東京の街並みを静かに見つめた。
「……なんでだろうね。私、人間のことなんて嫌いなのに」
「――――え」
聞き間違いかと思って、わたしは目を見開いた。アマネさんは目を合わせてくれない。その瞳を濁らせる暗色を、わたしに見られないようにしているみたいだった。
「私も分かんないんだ。なんで人間を助けたいって思うのか。そうしてるのか」
アマネさんは重たい身体を支えるように、柵に寄りかかった。その左腕には、夜にも紛れない真っ黒いアームカバーが付けられている。
ああ、そうだ――この人は、今まで一度だって「人間が好き」なんて言ってない。
「なのに……人間が嫌いなのに、誰よりも可能性を感じてる。百年後には国境が消えて、全ての人間が幸せに生きてる未来があるって信じちゃうんだ。おかしいよね、私」
力なく微笑うアマネさんは無理をする病人みたいで、わたしは目を反らしたくなった。
嫌いなのに信じてしまう――それはなんて、惨たらしい愛なんだろう。
「……やめることは、できないんですよね」
「うん。ごめん、できそうにないんだ」
それができたら苦しんでない。分かってるけど、訊かずにはいられなかったのだ。
アマネさんは自傷でもするように、倒錯的な貌で声を絞り出す。
「私にもあったんだよ。誰にも言いたくない、本当に大切な気持ちが。人間を好きだって想う気持ちが確かにあったんだ……! これさえあれば、生まれてきてよかったって思える過去がこんな私にも―――!」
自分が壊れないように。輪郭を保つように顔にやっていた指の隙間で、アマネさんが大きく目を見開いた。
「それも、いつの間にか失くしちゃった。残ったのは、人間を助けたいって欲求だけで」
でも結局、アマネさんは気持ちを吐き出すのをやめる。
「―――私はもう、誰かを救うことでしか生きられないの」
自分の本音がわたしの重荷にならないように、アマネさんは自制してしまった。誰かに寄りかかられるなら、自分だってそうしていいはずなのに。
そこでアマネさんは、はっとしたような顔になる。
「あっ。でもミウナは違うからねっ!? 嫌いじゃないよ。……ミウナ?」
気遣うようなその言葉にさえ、わたしは猛烈に苛立ってしまう。
人間を想う気持ちが失くなった――そんなの、同質量の「大嫌い」で相殺されたからだ。
だったら割り切ってしまえばいい。嫌いなものを助ける理由なんてないんだから、失くした好きだった理由を探すのはやめて、誰も救わなくたっていいのだ。
―――でもアマネさんに、それはできない。
きっと死ぬまで人間の可能性を信じ続ける。救われ難い醜悪な人間を見ても、その矛盾すらも見ないフリして救おうとするのだろう。
それしか、彼女は生き方を知らないのだ。
「……なら、今のままでいいです」
そんなアマネさんのことが、わたしも好きだから。
「だから――アマネさんは、誰かを救い続けてください」
わたしはその生き方を辞めてほしいと願っている。
でも同時に、その在り方のままであってほしいと祈っているのだ。
放棄と救済。その螺旋は決して矛盾しない。他ならぬアマネさんが、そういう生き方を選んでしまっているから。
だけどわたしは、それを許せない。その傷だらけの身体に、誰かの絶望をたくさん押し込んで、一人で暗い場所に沈もうとするのは間違っている。
アマネさんは誰よりも、真っ先に幸せにならなくちゃいけないはずなんだ。
「その代わり、わたしが――」
街並みから聞こえる生活音――その向こう側から朝日が差した。世界を水没させていた夜を押し戻し、眩しい光が街を輝かせる。
その温かい明かりが、アマネさんとわたしのことを照らし出す――。
「ミウナちゃん、アマネ。そろそろ朝ご飯にしましょう」
でもそこで、プールサイドにいたコヨミさんに呼ばれた。コヨミさんの背中では、ムギノがぷすぷすと寝息を立てていた。ガリスとの戦いで疲れているんだろう。
「ありがとう、ミウナ」
言い損ねたことにはっとして、わたしは顔を戻した。
子どもの手作りプレゼントを受け取るような、優しい笑みをアマネさんは浮かべていた。まだ言葉にしてないのに、わたしの気持ちは伝わっていた。
少し間を置いて、アマネさんは口を開く。
「ねえ、ミウナはさ――――」
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