第36話 暗躍


 ぱらぱらと壁が崩れる音だけがしていた。

 わたしのカイエに貫かれたガリスは、上方のダンスホールよりその先、大階段の方まで打ち上げられた。通路を転がり、床で仰臥して吐血するガリスに、わたしは歩み寄る。


「わたしの勝ちだね。―――たしか、首切りがいいんだっけ?」


 ガリスのセリフを引用し、わたしはカイエを持ちあげた。

 そこで違和感――彼女の瞳には、恐怖はない。

 ただ純粋な、理性だけが残っていた。

 わたしのカイエが動くよりも、ガリスの判断の方が早かった。

 ガリスが手を突いた瞬間、床がぼろぼろに朽ちて崩壊したのだ。そこには、深淵まで続いていそうなぽっかりとした穴だけが残った。

 かつん、と後ろで靴音が鳴った。

 だからといって、わたしはカイエを構えたりしなかった。その靴音は聞き覚えがあったし、うんうんと聞こえるうめき声は、貧血で倒れた人みたいだったから。


「遅くなってごめんねぇ。すごいねミウナ。ガリスに勝っちゃうなんて」


 振り向くとそこには、ぐるぐると目を回しているムギノをおんぶした、アマネさんがいた。アマネさんはついさっきまで「メイド服姿の侵触体」に足止めされていたらしい。


「勝ってないです。逃げられちゃいました」


 申し訳なさそうにわたしがそう言ったら、アマネさんは穏やかに微笑った。


「ううん。ミウナの勝ちだよ。だって私たちの目的は、ガリスじゃないでしょ?」


 そう言ったアマネさんの視線を、わたしは辿った。

 最初にガリスが守っていた大階段の上、この通路の奥――そこに、銀色のケースがあった。中身がなんなのかは、わざわざ言葉にするまでもないだろう。

 ムギノをおんぶしたアマネさんに見送られ、わたしはそのケースに歩み寄る。

 ソノアに会おうとしてるみたいだ。心臓の鼓動が速くなる。


「―――――え」


 だけど中身は、空っぽだった。

 まるで最初から、何も入っていなかったみたいに。


       ◇


 それは水たまりを踏んだような音だったが、実情は吐いた血が跳ねた音だった。

 ガリスは避難経路を、傷口を抑えながら歩いていた。

 敗退。陰鬱でくたびれた言葉が脳裏をよぎり、ガリスは苛立って壁を殴った。

 ミウナに敗け、ガタルソノアのカイエを奪われた。


 だが――まだ終わっていない。


 この路の先には、ラズリタが寄越した応援と、挟撃に向かった仲間たちが待っている。自由意志は、こんなところで途絶しない。

 前方に、気配を感じてガリスは顔を上げる。

 メイド服をボロボロにしたエフが立っていた。赤い髪は所々が切れ、腕には打撲痕が残っている。致命傷にならない傷の再生を放棄するくらい、弱っているようだった。

 だがそれでも、表情は無感動――自由意志を捨てたような、人形めいた顔つき。

 ずっと嫌悪していたエフの表情に、耐えがたい苛立ちに襲われる。

 歩調を速めて近づき、ガリスはその顔を殴りつけた。


「お前、今までどこに行ってやがった!?」

「朝比奈アマネに、足止めを受けていました」

「……ちっ」


 それならば仕方がない。そう分かっていても、ガリスの心情から憤懣の色は消えなかった。敗北を打ち消せる場所にいたエフに、苛立ちをぶつけたくなってしまった。

 ガリスは、エフの横を通って歩き出した。


「お前がガタルソノアのカイエを持って逃げれば、どうにかなったってのに」


 この戦いにおける敗北とは『〈赤の原色王〉に預けられたカイエを奪われること』だ。

 エフがそれを理解し、カイエを持ち逃げすれば、敗北にはならなかったのに。

 ―――次こそは、あの女を殺す。

 暗い方へと進むガリスに、エフは答えた。


「無理ですよ。―――だって、最初からここに〈青〉のカイエはありませんから」


 振り向くより迅く、ガリスの体をエフのカイエが刺し貫いた。

 噴き出した大量の血は、床に跳ねると虫のように散らばった。体内でカイエが蠢く感覚に、不快感より苛立ちの方が強く出た。

 爬虫類めいたカイエを発現させ、エフのカイエを力づくで引き剥がす。


「血迷ったか、人形風情がッ! 手負いだからってあたしに勝てると思ってんのかッ!?」


 大槌のように振り下ろされたガリスのカイエを躱し、エフは大きく跳んだ。猛禽類めいた苛烈な影が、ガリスを覆いつくす。

 こちらを見下ろすエフの身体からは、四つもの〈赤〉いカイエが伸びていた。


「わたしの任務は終わりです。ですから――わたしのことはちゃんと『エフ』ではなく『エフサグァ』とお呼びください」


 困惑で麻痺した伝達神経に、激しい痛みが襲いかかる。

 エフはその四つのカイエを伸ばし、ガリスの四肢を貫いた。背中から倒れた彼女の上に飛び乗り、続けざまにスカート下から軽やかに出した短剣で、喉を刺した。

 ごぱっと吐き出される鮮血も、エフが口元を鷲掴みにして抑え込む。少し遅れ、自分の顔に散った血にエフは嫌悪感を露わにした。

 そっと、エフはガリスの耳元に顔を近づけ、怖々ゾゾっとするような冷たい声で囁いた。


「あの方に、失礼がないよう」


 顔を戻したエフの目が、現実感を喪失する。

 だが次の瞬間、瞳が金色を帯びた。


「―――久しいな、ガリス」


 もし動くことが出来ていたら、自分は恐怖のあまり即座に自殺していただろう。眼前にあるそれは、もはや本能に訴えかける狂気だった。

 紡ぐ言葉が、鳴らされる声が、瞬く視線が――現実を夢に放り込み、自分という一つのセカイを壊しにかかってくる。

 同じ顔つきで、全く同じ声帯のはずなのに。

 今、自分の目の前にいるのが〈赤の原色王〉――〈クトゥルグァリア〉だと悟った。

 恐怖と混乱で、思考回路が壊死したガリスに〈赤の原色王〉は囁く。


「なあガリス。この世界に、自由意志なんて本当にあると思うか?」


 自分の好きなコトバ。イキルための指ヒョウ。

 なのにキイタコトないコトバのよう。


「―――そんなのものは、この世界の内側にはない。私たちは誰しも『生きること』を優先する。命を食らい、知を集め、友を作り、愛を育み、善を営み悪を罰する。―――だが、それらすべては『生きること』の永遠性を願う行為だ。生が持つ絶対的な価値基準に縛られた意志を、はたして自由と呼べるのだろうか」


 より一層、彼女が纏う気配が大きくなる。


「だから私は、その意志の輪廻から離れる。生と死、それらが両立する次元と概念、そのものになるんだ。次なる神――アザトースとなり、本物の自由意志を手に入れるのだ」


 言葉では首は切れない。

 だがその代わり、言葉は魂を殺す。


「―――それを邪魔する『異常イレギュラー』には、死んでもらう。運が尽きたな」


 遠い宇宙から、エフの肉体を通じて放たれる言葉が、ガリスの意志を容赦なく殺した。

 それは間違いなく、自分がエフに言ったセリフ。

 比較的自由だったはずのガリスの思考が、諦観に落ちる。


 ―――いつからだ?

 ―――あたしはいつから〈赤の原色王〉と話していた?

 ―――いったい、どこまでがエフで、どこからが〈赤の原色王〉だった?


 その答えはもう、歯車ガリスには必要ない。


「エフ。もう帰っておいで」


 王が、従者に優しく囁く。

 金色が瞳から抜け落ち、エフの意識が現実に戻ってきた。その瞳の赤は、以前見たものよりも心なしか色が深く、黒みがかっているようだった。


「わたしの任務はクティーラを探すこと。――もう一つは、本当のカイエの場所を悟られぬよう、アビストスをここに誘き出すことでした。そして最後に、あなたを殺すこと」


 殺す。その明確な自由意志を断絶させる動詞に、ガリスは声を上げた。だが、四肢はエフのカイエで固定され、口は手で塞がれてて意志表示は出来なかった。


「あなたは言っていましたね。自由意志のない奴は家畜と同じだって」


 そのとき、ガリスはエフの瞳の奥に潜むそれを見た。


「だけど、自由意志のある者は〈赤の原色王〉――あの方、ただ独りでいいんです」


 自覚はないのだろう。

 だが、自分の最善エゴに生きようとするその輝きは、紛れもなく―――。

 声にならない声で、ガリスは笑った。

 エフが短剣を切り払った。刃先は死を代償に、赤い三日月を宙に描く。鮮血製の線はやがて点になり、ぱたぱたと降り注いだ。それは、殺害者にのみ相応しい驟雨。

 着ていたメイド服は白い部分が赤く染まり、赤と黒のゴシックドレスになっていた。着替えは心の換装。一つ任務が終わった感覚を得ながら、エフは立ち上がった。


 ―――この場所をアビストスに知らせた匿名の通報者とは、エフのことだ。そうすることで、アマネたちを誘い出し、本物のカイエの移送に気づかれないようにした。


 そして二つ目の任務――クティーラの捜索も、単なる演出に過ぎない。

 母星の〈赤の原色者〉たちの『〈青の第四王女〉が実在しているのではないか』という不安を解消するためのものだから、地球を調査したという事実だけあればいい。

 まだ気になることはあるが、ひとまずエフの任務は、これで終わりといっていい。


「ようやく帰れます。……はあ。早くクトゥグア様に会―――」


 恍惚としたエフの呟きが、まる。

 足元が血で満たされている――満たされていく。

 ガリス以外の、ものによって。

 帰ろうとしたその時に、エフは、血だまりが前から広がってきているのに気づいた。


 ―――点々ジッジジ……と、蛍光灯が恐怖で震えるように点滅する。


 光差すその一瞬で見たそれは、最初、ただの影かと思った。

 だが影は、無から発生するものではない。

 広がっていたのは、夥しい量の――死体。真っ赤なローブは初めからなのか、血染めなのかも分からない。蛍光灯の光によってできた濃淡が、禍々しい筆致で輪郭を描く。

 それはまるで、彼岸花の花畑のよう。


「……どうやら、わたしの運も尽きたようですね」


 ばしゃりと、水を撒くような音が鳴る。

 その水の名は鮮血。死の花を咲かせる、生命維持の必需品。


「あら、まだ尽きてないでしょう?」


 光沢を帯びる血だまりに、黒い何かが反射する。伝承では龍と称されるそれも、光無き暗闇で見れば神性を剥奪された化け物に過ぎない。

 這いずり回り、全身を血で粧して、主と共に姿を見せた。


 ―――失神するように、蛍光灯は明るいまま止まった。


「だってほら、とっておきの悪運が残ってる」


 化け物の食道のような一本道――その真ん中に、返り血を纏った伊耶宵コヨミが立っていた。前髪によって落ちた影の中で、彼女の目が笑みでたわんだ。

 眩暈がするほどの緊張感に、エフはつい名を呼んでしまう。


「イザ――――」


 ぐしゃっと、水気のある生々しい音が足元で鳴った。

 コヨミのカイエが、ガリスの死体に飛びついていた。作法の分からない子どもが行儀悪く食い散らかすように、カイエの先に付いた口が乱雑に食い漁っていた。

 コヨミのカイエがこちらを見る。人間のような歯列が、エフを見て嗤っている。

 息を吐くだけで、身体から力が抜けて震えた。

 ここからは、たった一言、間違えただけで殺される。


「……大変、失礼いたしました。名を口にしようとした無礼をどうかお許しください」


 それから恭しくスカートを持ち上げ、頭を下げて挨拶を述べた。


「私の名はエフサグァ。〈赤の原色王〉――〈クトゥルグァリア〉様の従者にございます。お初にお目にかかります、〈緑の原色王〉」


 エフの言葉と作法に、コヨミは目元に落としていた翳りを消した。


「その色で呼ばれるなんて、久しぶりだわ。もうすっかり色も混ざっちゃって、緑なんてどこにもないのに。――クトゥも随分と礼儀正しい子を見つけたのね」


 コヨミは血だまりと死体を背景に、柔らかく笑う。


「わたしの言動と行動は、すべて、主であるあの方の尺度に使われます。ゆえに原色王には、礼節を欠かぬよう注意を払うつもりでした」

「名前のことはもういいわ。あたしも原色王として、相応しい服を着てこなかったんだもの。それにアビストスの実権を握ってるのは、あたしじゃなくて〈ノーデンス〉だし」


 コヨミは優しく笑っている。その声調には、もう嘘のように怒りの情はない。――だけど、殺意はまだ残っている。怒りと殺意は、必ずしも結びつくものではないのだから。


「でも残念ね。もしよければ、うちに来ない? これから賑やかになるだろうし」

「お言葉ですが、〈緑の原色王〉」


 そこで初めて、エフは目に敵愾心を宿した。

 忠誠と信仰は、ときに恐怖心を優に抑え込めるものだ。


「わたしの主は〈クトゥルグァリア〉様、ただ独りです。あなた様には礼節は尽くしますが、忠節は生まれから死に至るまで、あの方にだけ捧げるつもりにございます。ゆえにわたしは、わが主の命令に従い、帰らねばならないのです」


 エフは短剣を取り出す。銀色の刀身は暗闇に呑まれ、コヨミの姿を映さない。それでも、意志は変わらない。四つのカイエを現し、因子で肉体を強化する。


「お手合わせ、お願い申し上げます」


 再びスカートを持ち上げたエフは、決死の覚悟で臨む。

 そんなエフに、コヨミは―――。


「よい」


 そう、一言だけ告げた。


「あなたの主に対する忠誠と畏敬、それは尊く価値あるものです。信仰から欺瞞を排したものを忠誠と呼び、生命の強かさを認めることを畏敬と言います。それを知っている者は、生きることに真摯であるということ。―――あなたの主に免じ、この場は許しましょう」


 コヨミが和やかに笑う。


「それにっ、手足の先からがぶがぶ食べても、あなたは何も教えてくれなさそうだもん」


 終わったんだと、エフは体感する。

 だけど、またいつ終わりが始まるとも限らない。気は最期まで抜いてはいけない。

 エフは深く礼をしてから、コヨミの横を通った。

 その間も、彼女のカイエは腹をすかせた獣のように、歯ぎしりをしながらエフに飛び掛かることを我慢していた。エフの姿が闇の中に溶けたのを見て、コヨミが小さく呟いた。


「今回だけは、ね」


 ―――切々ぶつりと、ついに蛍光灯がこと切れた。

    コヨミの姿も、闇に沈んだ。

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