第23話 相対

 空気を感情が伝っている。

 戦意と焦燥、スパイス程度に恐怖を混ぜたもの――緊張感。


「……完全に反応が消えた。ガリスにバレたみたい」


 アマネさんが千切れた鎖を消し去る。

 暗闇から彫り出されたような廃ホテルは、墓石のようだった。本館と別館、旧館といくつも生え並んでおり、終わったビンゴカードのような窓が濃淡を打っていた。

 赤いローブ姿の警邏者たちの間を抜けて、わたしたちはホテルの中に入った。

 時間に殴殺された内装。重力によって頽れるインテリアたち。埃が喉に絡みついてくる。

 ここは一直線の通路で、正面からの波状攻撃には回避しようがない。アマネさんの翼状のカイエなら防げるから、先頭はアマネさんが歩いていた。

 必然的に、わたしとムギノが隣り合った。

 相変わらず、彼女は黙り続けている。わたしの存在を無視するように。


「……あの、ムギノ……!」


 緊張で声を強張らせながら、わたしは話しかけた。

 ここは敵の本拠地で、これから熾烈な戦いが起こることになる。

 仲直りは無理だろうけど――せめて、悪印象だけは解消しておきたかった。


「昼間は、その……ごめんなさい、かっとなって。でもわたし、あなたに危害を加えるつもりはなくて……他の侵触体がどうなのかは知らないけど、少なくともわたしは――」

「―――お前は幸せになろうとしてる」


 突き殺すような鋭い言葉。唸るような低い声。

 確かにわたしは、ソノアに言われた通り、生きて幸せになろうと思ってるけど……どうしてムギノが、それを非難するように言うのだろうか。


「幸せは飯みたいなもんだ。食えばいい気持ちになるし、胸が温かくなるけど――一緒に食う奴が増えれば、ムギが食える分が少なくなる」


 ムギノの幸福論が空気に流れる。

 それは路傍にある廃材に引っ掛かり漂流していた。


「あいつはそれが出来なかった。他の奴が飯を食ってるのを見て、自分まで食った気になってた。だからあんなことになった。――ムギは、あいつの分まで食うって決めたんだ」


 あいつ――ムギノはその人のことを、目を細めて呼んだ。黄色の瞳の中では、責めるような感情と、感謝が複雑に絡まり合っていた。

 取り留めないムギノの言葉に、わたしが尋ねようとして。

 その間に、視界が開けた。

 そこはエントランスホールだった。天井は高く、吹き抜け構造になっている。

 照明はとうに喪っている。照らす要素は既になく、かつての華美な装飾と矜持を消費しきり、ただ布団の上で余生を過ごす老人のようにホールは朽ちていた。


「待ってたぜ。侵触体の矜持を捨てた、人類庇護者アビストスのカスども」


 声は、上から聞こえた。

 壁に沿って作られた三階の通路に、〈橙〉の髪色の女が立っていた。こちらを見下ろす目は嘲るように細いが、その奥には生存に基づいた警戒心が息づいている。

 写真で見た通りの姿――あれがガリスだ。

 対して、その隣にいる赤い髪の女は資料にはいなかった。身を包むのはメイド服。清潔感のある白色は、何か食べ物でも零したように汚れていた。紅茶の底のような黒を帯びた瞳は無感動にわたしを見ていた。

 遅れてさらに、数十人の――それとも数十体と言うべきか――侵触体が姿を見せる。彼女らは総じて上層階で待機していて、一様に戦意の整頓を終えている。

 すぐにでも、殺し合いになりそうだった。

 誘い込まれた事実に、アマネさんは顔を険しくした。


「私たちがここに来ること――いえ、ここから来ることも分かってたみたいね」


 廃ホテル周辺の侵触体たちに、怪しい動きはなかった。

 たぶん、なにも伝えられていないんだろう。個々に命令を与え、そうして自然に、必然的に空いた穴に、わたしたちは誘導されたのだ。


「そんなズルしたみたいな顔すんなよ。殺し合いにまで規律ルールを求めるなんて、アビストスは脳みそまで人間になっちまったのか?」


 その言い方に、アマネさんはきりっと唇を結び、目を鋭くする。


「なにも求めてない。体の奥でいやらしく動いてる密偵ガンがうざいだけよ」

「長生きの弊害だな。もうアビストスも死んだらどうだ?」

「冗談じゃないわ。あなたたち〈赤の原色〉――いいえ。人の可能性を飼い殺す、管理主義の侵触体がいる限り私たちはなくならない」


 管理主義と言われ、わたしが連想したのは『飼育赤街シークレッド』だった。さっき見た赤い町。侵触体が人間を飼っている場所。食料の安定的な供給方法。――人間の管理体制。

 昼間、アマネさんは『自分たちは神様だったけど、今は人に世界を任せて隠れてる』と言っていた。おそらく管理主義はその真逆だろう。

 嫌悪感を露わにするアマネさんとは対照的に、ガリスはつまらなそうに反論する。


「飼育ってのは捕食者の当然の権利だ。リスは木の実を土に隠し、人は種を捲いて家畜を飼う。規模や再現性はともかく、食い物の供給サイクルを作るのは自由意志の特権だ」

「それだと人の意志が失われるでしょ。それに飼育者になったところで、あなたたちは〈深淵たる黒き侵触体〉――〈アザトース〉になろうとしかしなくなる」

「それが侵触体の本能であり、起源だ」

「私はそれに意味を感じない」

「意義はある。起源を識ろうとするのが、生命の正しい営みだって分からないのか?」

「正しいものが美しいとは限らないわ。人が純粋な被食者になれば、人の可能性は閉じられる。アビストスは――私は、それを絶対に許さない。いつか……全ての人が手を取り合い、私たちの母星の遥か先まで往くことを、私は信じてるんだよ」


 手を伸ばせば星を触れると、そう信じる子どものように、アマネさんは言い放った。

 ―――やっぱりこの人は、どこまでも優しくて、人を信じているんだ。

 きっと永遠に国境はなくならない。なら殺意だってなくならないし、銃器や刃物はこれからも命を奪い、尊厳を犯し続けるだろう。

 いつか世界中の命が、この世界に疲れて絶望するかもしれない。

 それでもきっと、この人だけは永遠に信じ続けるだろう。

 わたしはまだ、アビストスのことを何も知らないけど。

 アマネさんが信じるアビストスを、わたしも信じてみようと思った。

 いずれ世界中が自分の敵になるとしても――この人は、きっと最後になるから。


 アマネさんが後ろ手で「下がって」と合図する。挟み込まれようとも、退避する方がマシと判断したようだ。それに倣い、わたしは後ろに足を引いた。

 ムカデとクモの触れ合いを見たような、純度の高い嫌悪の声でガリスは告げる。


「やっぱ、お前らとは無理だわ。それとも――お前が無理なのかもな。朝比奈アマネ」

「―――っ、二人とも!」


 アマネさんが、カイエを盾にしてわたしとムギノを守った。

 瞬間、さっきの通路で爆発が起こった。自分の無敵性を信じるように、静かに滞留していた闇が火炎に焼かれる。天井がひび割れ崩壊し、瓦礫が完全に通路を塞いだ。


「人間が作った爆弾だ。C4って言ったか。愚能指数グノーシスの気配もなかっただろ?」


 感じなかった。それでわたしたちは、罠がないと思ったけど――それすらも罠だった。

 上層階から、赤いローブ姿の侵触体たちが降下してくる。ばたばたとローブをはためかせ、次々と一階に着地する。


「お前たちに一つだけ選択肢をやる」


 こちらを嘲るような、油断にも転じる態度を潜めさせ、ガリスは真面目な顔になった。


「〈青の原色王〉を連れて来るよう、連絡しろ。そしたら命は助けてやる」


 その要求を聞いて、硬いものが喉に詰まったように苦しくなった。視線を向けると、アマネさんもまた歯を食いしばっているように、顔に力が入っていた。

 通路を歩いていたわたしたちを爆殺しなかったのは、アビストスが仲間にした〈青の原色王〉の交渉材料に使うため。

 だが、交換対象である〈青の原色王〉は――わたしは、今この場にいる。

 ならばもう、わたしはカイエを使って戦えない。その原色の〈青〉を見られた瞬間、アマネさんやムギノは用無しとして殺そうとするだろう。

 カイエを使わずに、この場を離脱する――それしか今は選択肢がない。

 一階に集まった大量の侵触体たち。体から生やすカイエの色は、総じて〈赤の類色〉。その色をさらに黒に近づけようと、わたしたちの血を欲して宙で身をうねらせている。

 ガリスは、最後通告めいた強迫的な声で言った。


「一応聞いとくが、返答は?」

「地獄に墜とす」


 アマネさんが凛然と告げ、カイエをばさりと羽ばたかせる。それは戦意の主張。従属の意志を放棄する、生命の尊厳の表れだった。


「―――やれ。死ななければ何してもいい」


 殺せという一言より、想像の余地がある残虐な命令をガリスが発した。

 存在意義を失ったホテルの中で、地球外生命体たちによる殺し合いが始まった。

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