第22話 自由意志
名詞に喜劇名詞と悲劇名詞があるように、感情には熱感情と冷感情がある。
空気はその温度を伝わせる。だから冷たいものに熱量が移動するように、廃ホテルに滞留する虚ろな空気は、すぐに焦りや怒りという熱感情をガリスまで伝えた。
乱暴に開けられたドアから二人、侵触体が駆け込んできた。
「なにがあった?」
真っ赤なローブを身にまとう彼女らは、獲物に反撃を食らったように喚き散らした。
「アビストスよっ! 情報通り、駅から出てきたから奇襲したのに……クソッ、なんでこっちがやられるの!? 話が違うじゃないっ!」
話もなにも、ガリスの下した命令は『攻撃した後撤退しろ』というものだ。こちらは襲来を予期しているのだと告げ、心理的に優位に立つためのものだった。
―――使えねぇ奴らだ。
予想外だった……だから自分には責任がない……報告ではなく、言い訳をつらつらと並べる彼女らを、ガリスは軽蔑するように眺めていた――その目が、鋭く研がれた。
逃走者たちの首に巻きつく『それ』に気づいたからだ。
「……お前ら以外の奴はどこいった?」
ガリスからの質問。溺れそうなくらい言い訳をしていた女たちは、苦そうな顔をする。おそらく、死んだことの責任を追及されると思ったんだろう。
「……あいつは死んだわ。体をカイエで貫かれて、即死なんじゃない?」
「あんな前に出るからよ。そのせいで一番最初に狙われた。運が悪かったのよ」
二人は笑う。
自分たちは運良く助かった。
助からなかったあいつは運が悪かったと。
「あー、お前らなんもわかってねぇー!」
いやに明るい声音。なのに凍てついて冷たかった。口語と文語が異なることがあるように、声と感情は必ずしも一致しない。口語は確かに熱感情だが、声調は冷感情だった。
それが空気でなく、ガリスが指を鳴らしたものだと遅れてわかる。
「おいエフ。一つ寄越せ」
自分はソファに座ったまま、ガリスは命令する。
命令されたエフがテーブル上の籠から、林檎を一つ取ってガリスに手渡す。それを手の上に乗せ、くるくると回し、じろじろと見回す。
手持無沙汰にされてしまい、
「あの――」
「お前ら、林檎は好きか?」
「え?」
唐突で。唐突すぎたから、間の抜けた声で聞き返した。
「林檎って良いと思わねぇか? 食ってもうまいし、見た目も宝石みたいで――なにより赤い。人間が楽園を追放されてまで食った理由がわかる。あたしだって食う」
ガリスは林檎の表面を撫でている。
「でもあたしは追放されない。じゃあ、人間が追放されたのは、なんでだろうなあ?」
「それは……運悪く神様にバレたから――」
「ちがうな。神様の前で服なんて着たからだ。それは運じゃない、選択の結果だ」
突然に始まった聖書に話に、二人の侵触体は困惑したように顔を見合わせた。
理解が追い付かず、無意識のうちに敬語を使って尋ねる。
「あの、何の話ですか……?」
「なんでエフが、あたしに林檎を寄越したと思う?」
逆に尋ねられ、侵触体たちは林檎があった方を見る。テーブルの上にある金色のトレーには様々な果物が乗っている。位置的にも、林檎は取りやすい位置にあったようにも思う。
「それは……それも、たまたまエフが――」
「違う違う違う。そうじゃねぇ。あたしの選択の結果だ。あたしが林檎が好きだって、日ごろからエフに教え込んだ選択の結果として、エフに『林檎を選ばせる』って選択をさせたんだ。―――あたしの自由意志が、エフの自由意志を制御した」
ガリスと二人の侵触体。その狭間のテーブルが、ガリスのカイエによって破壊される。そこに乗っていたトレーから、果物が零れ落ちる。林檎が、ブドウが、レモンが、イチゴが―――エフが間違って買ってきたトマトが、落ちて、そこら中に転がった。
「いいか? 社会ってのは自由意志で回ってる。職に就く。金を稼ぐ。物を買う。女を抱く。飯を食う。絵を描く。本を読む。夢を見る。神に祈る。呼吸する。―――生きる」
それはガリス自身の哲学。自由意志を信じる彼女の、生き方を支える思想体系。
「人間がよく口にする社会を動かす歯車っての――あれは命じゃなくて、自由意志の形容だ。個人とは自由意志の最小単位のこと。それが集まって、複雑に組み合わさり、互いに影響し合う自由意志の集合体を、人間は社会と呼び、あたしらは〈原色〉と呼ぶ。
自由意志で回るこの世界に、運なんてものはねぇんだ。運の良い悪いってのは、自由意志が観測し損なった、知覚できなかった必然的な出来事を超常的なものに依らせる欺瞞だ。
道端で金を拾ったのは運か? ――違う、その道を選んだ自由意志の結果だ。
ここを任されたのは運か? ――違う、これまでの自由意志が評価された結果だ。
あたしは運が良かったんじゃない、運が回って来たんだ。そうなるように、自由意志で選択をしてきた。だからさあ、運が悪いってのは『起こるべくして起こったことに反省できない』ってことなんだよ。反省できないなら、次も同じ失敗をする」
そして最後に、ガリスは結論を告げる。
「あたしの仲間に、自由意志のない奴はいらねぇ」
ガリスがソファから立ち上がった。
足元に転がるトマトを、ガリスが容赦なく踏んだ。ぶちゃりと、生々しい音が冷感情を呼び覚ます。持ち上げられた靴が、血だまりでも踏んだようにねっとりと糸を引いた。
その威容を見た二人は、すぐに分かった。
―――殺される、と。
それを悟った瞬間、またしても彼女たちの口は遠心分離機のように回り出す。ぐちゃぐちゃに混ざってしまった感情から、恐怖を分離させようとしているように。
「ま、待ってよ! 待ってくださいっ! そんなっ、たかが運が悪いって言った程度でっ!」
「そうよ……! だったら、死んでればよかったってわけ!? あんただって、殺されそうになったら逃げるでしょっ!? 死にたくないから逃げる、それの何が悪いってのよ!」
「悪くないぞ、最高だ。逃げるってのは自由意志の延命だ。最高に素敵だぜ。―――だがな、他の歯車を壊すような自由意志は邪魔なんだよ」
ガリスがアマネの
怒鳴っていた女の首に〈緑〉色の『首輪』が現れた。
「テメェらは逃げ帰ったんじゃねぇ。―――連れ帰って来たんだ」
諦めたように、一人が涙を浮かべながら首を横に振った。
「おねがい、た、たすけて……もう、反省します、しました、だから、殺さないで……」
「自由意志のねぇ奴は飼われるだけだ。神様に。世界に。社会に。理想に。願いに。欲望に。他人に。―――あたしに。そいつは人でも侵触体でもねぇ、家畜だ」
ガリスのカイエが持ち上がった。
「家畜の悲鳴に耳を貸すわけねぇだろ」
太く膨らんだカイエが、裁判官の木槌のように降ろされた。
結果は、言わずもがな――。
むしゃりとガリスは林檎を食らう。砂利を踏んだような音だ。命を無感動に。当然のものとしてすり潰す強者の行い。慈悲を与える側である者は、道徳を破棄することさえ許容される。
「ああ、そうだ。一つ言い忘れてた」
何もかも諦めたように、呆然としている最後の一人にガリスは続ける。
「運が良いも、悪いも、自由意志の観測範囲外を無視する欺瞞だ。だが二つ、言っていいことがある。『運が回って来た』。それともう一つだ。わかるか?」
分からなかったのかもしれないし、分かったが言う気がおきなかったのかもしれない。
「自由意志が組み合わされることで、社会が作られ、運が発生する。だから死ぬことは、社会からの断絶、つまりは運の巡りから断たれることだ」
「―――お前もう、運が尽きてんだよ」
最後の一人もまた、ガリスのカイエに叩き潰された。絨毯が元から赤かったのがよかった。散らかった肉と臓物さえ片付ければ、汚れはさして目立たないだろう。
びしゃりと、カイエを振って血を払い落とした。
「テメェら片付けておけ。――エフ。お前はあたしと来い」
ガリスは女たちに掃除を命令し、エフを連れて部屋を出た。
部屋を出ると、ここが人の去った廃墟なんだとよくわかる。
埃で色をくすませる絨毯に、アルバイトのようにだらしなく光る電灯。侵触体に改修技術などなく、考えあぐねていたのだが――どうやら、もうすぐ去ることになりそうだ。
「包囲して乱戦に持ち込んだら、あたしが前に出る。あとは予定通りだ」
「わかりました。ただ、朝比奈アマネをわたし一人で止められるかどうか」
弱気というより、可能性を述べるように淡々とエフは言った。
朝比奈アマネは諸事情で、全盛期の五分の一ほどの強さに落ちている。
だとしても有象無象では瞬殺されるし、エフでも十分ほどの足止めが限界だろう。
「問題ない。――もう運は巡らせてある」
社会と同様、作戦もまた自由意志の構造物に他ならない。
ならばそれは、統制できるものということになる。自分の観測範囲外を正しく予測し、回り巡ってくるものを確定させる――すなわち、勝利と報酬の獲得だ。
二人分の足音が空気を伝う。
熱感情で炭化したように、ぼろりと廃ホテルの壁紙が崩れた。
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