第二章 決して混ざらずの四原色

第13話 概念世界

       …


 誰かに、名前を呼ばれた気がして目を開ける。

 わたしは深夜の海辺に立っていた。あたりは瞼の裏側みたいに真っ暗で、海水も墨より濃淡がない黒色だったから、夜の世界と海は一緒くたになっていた。

 世界と海、その曖昧な境界線上で――わたしの前に、悲しそうに微笑うソノアがいた。消え入りそうな月明りで縁どられたソノアだけが、このセカイに存在していた。

 ソノアがなにか言っている。わたしもそれに、なにか言葉を返した。なにも聞こえないし、なにを言ったのかも自覚できない。それでも会話が成立したことだけは分かったから、ああ、これは夢なんだと思った。

 夜の海岸沿いを歩いている。迷い込んでしまった深海魚みたいだ。

 海水に触れた身体から、青白い粒子が零れ落ちる。それは波に浚われ、夜光虫のように黒一色だった海水に青を混ぜた。海は夜空になり、わたしたちの身体は星になっていた。

 わたしたちは朝を待つように、ずっとずっと歩き続けた。

 ―――そうしていた理由を、わたしはもう思い出せない。


       ◇


 瞳から雨が降った。頬を流れ落ちるそれを追うように、わたしは瞼を開く。

 意識を取り戻したわたしは、寝台列車の一室で身体を起こした。

 窓ガラスを隔てた向こうは、言葉にしたくないほど美しい世界だった。宝石だとか花だとか、音楽や絵画みたいな、世界中の美しいものが全部星になってしまったみたいな光景がどこまでも広がっているようだった。


「……銀河鉄道みたい」


 あの世に向かっているようだったから、思わずそんな感想を呟いてしまう。

 だけどわたしは、ソノアがいるあっちには行けない。

 だって銀河鉄道の夜は終わってしまった。カムパネルラは死んでしまったのだから。

 ―――わたしは、もう二度とソノアには会えない。

 すごく悲しいのに、どうしてだろう涙は一滴も流れなかった。

 ただ茫然と、わたしは車窓から視える景色を眺めていた。

 その時、わたしの耳に歌のようなものが聞こえてきた。――優しい。とてもあたたかくて、独りの夜を越えられそうにない人に寄り添うような、そんな歌声だった。

 まるで自分に歌われているようで……わたしは、寝台から降りた。

 どこか古風な廊下は、やっぱり銀河鉄道のようだった。

 わたしは先頭車両の方へ歩いていく。少しずつ、歌がよく聞こえるようになる。

 精緻な装飾のドアを、わたしはゆっくりと開けた。

 その車両は、壁も床も天井も透過していて――だからそう、さっき見た美しい世界の中に、わたしは立っていた。手を伸ばせば触れそうなほど近くに、星の欠片が漂っている。まるで、自分自身まで綺麗な何かになってしまったみたいだ。


「―――――♪」


 そんなセカイで、朝比奈アマネは何かを願うように歌っていた。高くて、澄み切った声は、夜空の黒色も星を目立たせる背景と信じているようだった。

 全天の真ん中で歌うアマネさんは、わたしには、どんな物語よりも美しく見えた。

 どれくらい、そうしていただろう――気づけば歌は終わっていて、わたしのことを見つけたアマネさんは恥ずかしそうに笑った。


「私、歌うの好きなんだ。言葉にできなくなった感情も、音に換わってくれるっていうか」


 ぽつりと零したその呟きも、この場所では形になって、星の一つになったようだった。

 アマネさんはわたしに向き直ると、恭しく頭を下げた。


「では改めて。―――私は朝比奈アマネ。地球で人類のために戦う〈緑の原色者〉です。まず、前王と間違えてしまったこと、会談を強いてしまったこと、深くお詫びいたします」

「……やめて、ください」


 心の底から洩れたようなわたしの声に、アマネさんは当惑した。


「わたしは……王様じゃない。〈青の原色王〉は、ソノアだから……」


 カイエを継ぐことの意味をわたしは知らない。でもわたしにとっての王様はソノアだから、自分が〈青の原色王〉と呼ばれるのはひどく居心地が悪かった。

 アマネさんは、傷が痛むような貌になった。いい人なんだなって思う。他人の傷を自分のもののように感じ取れる、優しい人なんだろう。

 この人に、そんな顔をさせていることが嫌で、わたしは話題を探そうとした。


「……ここは、どこなんですか?」


 いつの間にか、列車は海底のような場所を走っていた。黒い夜空は青い海水に。美しい星は綺麗な気泡に変わってた。また一つ違うセカイに来てしまったみたいだ。

 アマネさんは気が抜けたように、辺りを見渡した。


「概念世界ですよ」

「がい、ねん……?」

「人間に肉体と精神があるように、惑星にも肉体と精神があるんです。ここは地球の精神世界――現実から流れ着いた概念や、地球の記憶や無意識で構築された場所です。概念世界、って長いから普通は『裏側』って言ったりますね」


 そのとき、列車の外で砂が舞い上がった。赤みがかった石が沈んできたのだ。

 海面の荒れ具合を確かめるように、アマネさんは見上げた。


「……現実世界は、激しい戦いになってるみたいです。でもまあ、ここは安全なので」


 わたしの不安を消そうとするように、アマネさんは明るい笑みを見せた。

 その激しい戦いというのは〈赤の侵触体〉とアビストスが殺し合っていることだろう。ソノアからカイエを継いだわたしを〈赤の侵触体〉が奪い返そうとしているのだ。

 だというなら、その〈青の原色王わたし〉をアビストスが奪った理由はなんだろう。


「どうしてアマネさんは、わたしを殺そうとしないんですか?」


 思わず、そんな言葉を口にしてしまう。

 ソノアは〈赤の侵触体〉たちに傷つけられて、地球まで逃げて来たのだ。

 異なる色の侵触体は殺し合う――そう思っていたわたしは、自分がまだ生かされているのが不思議だった。

 どうして殺そうとしないんですか。――きっとわたしの言葉は、アマネさんには「どうして殺してくれなかったの」と聞こえたに違いない。

 わたしよりも泣きそうな顔になると、ぎゅっと強かに目を瞑ってから、穏やかに微笑った。


「……ちょっと、歩きませんか?」

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