第6話 その場所へ


 カーテンを透過する朝のひかりで、わたしはふと目が覚めた。

 部屋の中は薄っすらと青かった。天井には白波が立っていた。どうやら深海から浮上して、わたしは浅い海辺に打ち上げられてしまったみたいだった。

 ゆっくりと身体を起こすと、するりと落ちた毛布がソノアに触れた。


「……ん……みゅう……?」

「あ、ごめん。起こしちゃった……?」


 申し訳なさそうにわたしが言うと、ソノアは微睡みながら首を振った。

「んーん、へいき……。もしかして、今日もバイトか?」

「ちがうよ。今日は休み」


 寂しそうに言ったソノアの頭を、わたしは撫でた。

 くすぐったそうに、まだ眠たそうに笑う姿を見ていると、昨夜のやり取りもぜんぶ夢のような気さえした。あんなに苦しかった心の泥も、浚われて消えてしまっていた。

 ……ほんとうに、わたしはソノアに救われてるんだなぁ。

 このままお昼過ぎまで、いつもみたくベッドで一緒に過ごすのもいい。

 でも今日は、なんだかソノアと出掛けたい気分だった。


「休みだから……あっ。遊園地とか行ってみる?」


 わたしの提案に、ソノアは眩しそうにしていた目を開閉ぱちぱちさせた。眠たい思考を動かし、自分の頬をむぎゅうとつねり、そしてようやく「遊園地」の意味を思い出した。


「…………えっ! 行くっ!!」


 がばっと起き上がったソノアの目は、まん丸くてきらきらと輝いていた。


       ◇


 わいわいと楽しそうな声音が、そこいら中から聞こえてくる。

 いつもであれば、いるだけで眩暈がしてくる幸せと平和の楽園――でも今だけは、わたしもその中の一人だった。


「おおっ、なんだあれはっ! くるくる回っているぞ! この惑星の発電機か?」

「ち、ちがうよ。あれは観覧車っていって、高いところから景色を見るために乗るんだよ」


 初めて遊園地に連れて来てもらったソノアは、子どものように興奮しながら辺りを見渡していた。海底のような青い瞳も、今はプールの水面のように煌いている。

 ここは伊吹いぶき市にある、伊吹いぶき八色やいろじまシーサイドパラダイス。水族館や遊園地、ショッピングモールなどが併設されたレジャー施設で、わたしたちはその遊園地に来ていた。

 わたしの観覧車の説明を聞き、ソノアは不思議そうな顔をする。


「景色を見るため……? なぜ高い建造物に上らずに、わざわざあれに上って見るんだ?」

「えっ、なんでって……その、エモいから?」

「エモ? なんだそれ、おいしい食べ物か?」

「そうじゃなくて。なんかこう……感傷的な感じがしない? 誰かと二人きりで、一緒に同じ景色を見たりするのって」


 そう言った時に、胸の奥から気泡のように浮かんできたのは、昨夜のことだった。月明かりさえ入って来れない、深海のように薄暗い部屋の中で、ソノアと二人きり……。

 たぶん「生まれて来なければ」と思うほどの悪夢を見ても、そこにソノアがいてくれれば、その痛みも感傷になって沈んでくれるんだろう。どんなにつらい気持ちでも、一度吐き出してしまえば、海中なら総じて綺麗な気泡になってくれる。


「そうだな……ちょっと、分かるかもしれない」


 聞き間違いと思ってしまうくらい小さな声で、ソノアは囁いた。凪いだ海面に触れるようなその穏やかな瞳が見ているものが、どうか同じ夜の部屋でありますようにとわたしは祈った。

 遊園地と水族館のセットチケットを二人分買って、その片方をソノアにあげる。

 受け取ったソノアは、一生の思い出を捕まえたみたいにまじまじと見つめていた。


「じゃあ、どこから行こっか」

「あれだ!」


 わたしが開いたマップを無視し、ソノアは遠くに見える観覧車をびしりと指差した。

 なんだかんだ言って、観覧車に乗ってみたいようだ。


「いいけど……あれは夕方とか、夜に乗った方が綺麗だよ?」

「そ、そうなのか……では後の楽しみにしておく!」


 ショートケーキの苺を横に置くように、ソノアは名残惜しそうに観覧車を後回しにした。

 代わりにソノアが選んだのは、ジェットコースターだった。ぐねぐねと曲がるレールの上を高速で走るというのに、興味をそそられたらしい。


「ほら、みゅう。早く行かないと逃げられてしまうぞ」

「ジェットコースターはいなくなんないよ」


 待ち切れない様子のソノアに手を引かれ、わたしは笑いながら歩き出す。

 水たまりのように浅い青空には、まだ三月下旬だというのに、夏を先々取りしたような白雲がいくつも浮遊していた。たぶんあれは、青空を映えさせるための小道具なんだと思った。そうであってほしい。今だけは、雨に降って欲しくなかった。

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