第5話 深海で呼吸していた
…
――殺意の籠った硬い指が、わたしの喉を締め上げている。
息切れを起こして浮上するように、わたしは暗闇の中をもがいて、目を開いた。
「かはっ……!」
落ちた食器。冷蔵庫の薄光。常夜灯と割れた窓。―――壊れたリビング。
眼球を動かし、それを見つける。何度も見た夢だから場所は覚えていた。
ぐちゃぐちゃに荒れたリビングで、義母は死んでいた。さながら動物の解体のように腹を割かれ、そのグロテスクな内臓を部屋中に飛散させていた。
ぎり――鳴ったのは、わたしの首の骨が軋んだのか――それとも、義父の歯だろうか。
「ぜんぶお前のせいだ……! お前なんて引き取らなければ、妻は死ななかったんだ!」
義父の目は、後悔と嫌悪で歪んでいた。
わたしを引き取った後悔。普通の可愛らしい娘にはなれないわたしへの嫌悪。わたしを殺せば全部無かったことに出来るかのように、馬乗りになった義父は首を絞めた。
中学生のわたしに、引き剥がせるはずもなかった。
「……ぁ……や、めて……と、さん……っ!」
消え入りそうな声で、わたしは命乞いをする。
血が集まって頭の真ん中が熱くなり、眼球が飛び出る錯覚に襲われる。
苦しいのか悲しいのか、自分でも分からないけど涙が流れ落ちた。締め付けられた喉を酸素は通れず、力んでいた全身の感覚が急速になくなっていく。
――――視界の端では、わたしの腕がなにも出来ずに揺れていた。
ただただ悲しかったのを、ずっと覚えている。
引き取ってもらって、娘にしてもらって――普通の少女になろうと頑張った。
いっぱいご飯を食べて、友達と一緒に遊んで、みんなが好きなものを好きになって、誰かと愛し合う……それで、なにもかも失敗して、わたしは父親に首を絞められている。
それでもう、人生も、何もかもどうでもよくなった。
義父に首を絞められたあの瞬間に――たぶん、人間としてのわたしは死んだのだ。
ぷつんと視界が暗闇に落ちた。さながら映写機のフィルムが切れたようにあっけなく、呼吸のしづらさだけを残して記憶は上映を終える。
それは心の防衛反応。忘れたい
そうしてわたしは、いつも夢から覚める。
◇
悲鳴のような、鋭い呼吸が部屋を伝う。百五十八センチの身体に収まりきらず露点した感情は、涙になって両目から落ちた。
数時間前まで楽しい雰囲気だった部屋は、眠りに落ちたように暗くなり、雨の音がよく馴染んでいた。窓ガラスには、雨水でふやけた街の明かりが点々と映る。まるで海に潜り込んだ蛍のように、夜という水の中を軽やかに漂っているようだった。
「ミウナ」
名前を呼ばれ、顔の向きを変える。
わたしの頭を膝に乗せてたソノアが、わたしのことを見下ろしていた。女王らしい威厳ある目つきも、今は病気に臥す人を慰めるように柔らかくなっていた。
「ソノア……起きてたの?」
「……いや。ミウナが、苦しそうにしてたから。また、夢を見たのか」
慈愛が滲んだ声音に、わたしは無性に泣きたくなってしまう。
ソノアは愛が分からないと言ったけど、たぶんそれは判らないだけなんだと思った。自分の気持ちを名付け損ねてるだけで、本当はソノアにも愛はあるんだろう。
わたしよりも小さな手で、ソノアが優しく頭を撫でてくれる。
「ミウナは悪くない。悪いのは、ミウナのことを襲った侵触体だ」
声に怒りを帯びさせ、ソノアははっきりと言った。いつもみたいに言ってくれた。わたしが悪夢にうなされ、泣いて起きる度に、こうしてソノアはわたしを慰めてくれるのだ。
一年前、わたしは侵触体に襲われた。
ソノアの話によれば、侵触体は人間に混ざって生活しているのだが、稀に目立つことを気にせず、人間を襲う個体もいるらしい。普通にはなれなかったわたしは、そういう普通じゃない奴の興味を引いてしまったようだ。
その時のことは、あまり詳しく覚えてない。
たぶん覚えていたくなくて、上手に忘れられたんだと思う。
気がつけば、襲ってきたその侵触体は帰っていて、わたしは電灯の割れた薄暗い部屋に一人残された。家畜のように惨殺された義母と一緒に。
そして、家に帰って来た義父に、わたしが殺したと誤解されて首を絞められた。
両目から零れ落ちた涙は、ソノアの太ももを伝ってシーツに落ちる。まるで血が滴っているようだった。夜闇で漉かされたわたしの涙は、血と変わりなく汚かった。
「わかってる……わかってるのに、苦しいんだよ……」
悪いのは義母を殺した侵触体で、わたしはその罪責を押し付けられただけに過ぎない。それはわたしが「自分のものじゃない」と捨てていいものだ。
でもあの侵触体は、わたしを狙って、あの家にやって来たのだ。
――――わたしが引き取られていなければ、わたしが普通に生きれていれば。
わたしなんて、生まれてなんてこなければ―――。
わたしが死ねば、これまでの人生で不幸にしてきた人たちがみんな報われるような錯覚が消えてくれないのだ。
「……なんでわたし、生きてるのっ……なんで生まれてきちゃったんだろ……っ」
死にたいじゃなくて、生まれて来なければ良かったと、わたしは言った。
だってわたしが死んでも、過去は全部無かったことにはならないから。
わたし自身を、最初から無かったことにしたかった。
「苦しい……もう呼吸するのだって苦しいよ……。お願い、ソノア……どこにも行かないで。わたしを、一人ぼっちにしないで……」
最後の言葉で、どうして誰かに食べられたかったのか――自分の想いを悟った。
―――わたしは、誰かに一緒にいてほしかったんだ。
雨がひどくなってきたせいだろう。泣き声も雨に溶けると思ったら、胸の中に溜まっていた泥水みたいな感情は声になって漏れた。
ソノアはわたしの手を、力強く握りしめてくれる。
「……ああ。ずっと一緒にいよう。だから――ミウナも私を置いて行かないで」
なんでだろう……その時だけ、ソノアの声は力なくて、繋ぎ直した手を強く握る子どものように不安そうだった。でも依存し合うように、それも安堵感に変わった。
「もう、眠ろうか」
かぷりと、ソノアはわたしの左手首を噛んだ。
血が吸われ、少しだけ寒くなって、心が満たされる。
自分のような人間でも、誰かの役に立てるという実感に堕ちていく。
視線だけ向けると、ソノアが恍惚とした貌でわたしの血を飲んでいた。口の端からは、夜闇で漉かれ泥のように黒ずんだ血が滴り落ちている。蓮の花に飛んだ泥水のように、ソノアの顎の輪郭を艶やかになぞって、布団の上に点を打っていく。
二人ぼっちの薄暗い部屋の中は、少し冷たい静謐な空気で満ちていた。そこは深海だった。月明かりさえ届かない、冷たくて暗い、どこよりも静かで深い世界の底。その白砂のような、白いベッドの上で、わたしたちは寄り添い合っていた。
薄青いセカイの中でたった二人、わたしたちは深海で呼吸していた。
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