【完結】愛の時(作品241001)

菊池昭仁

★愛の時(作品241001)

第1話

 凄い形相で女が会社に乗り込んで来た。

 

 「今野十和子って女いる! 今すぐここへ呼んで来て!」


 応対に出たのは後輩の和恵かずえだった。

 すぐに野上の嫁だとわかった。 

 私は自分の席を立ち、和恵から対応を代わった。


 「今野は私ですが? どちら様ですか?」


 いきなりビンタされ、新宿高層ビルの35階のフロアが沈黙した。



 「アンタがウチの旦那をたぶらかした女ね!」


 私は氷のように冷静だった。


 「何か勘違いをされているようですけれど、私は野上係長とヘンな関係ではありません」

 「旦那が白状したのよ! あなたと不倫してるって!」

 「不倫? 私はご主人とそういうことをした記憶がありません。

 たまにランチをご馳走になることを不倫だと仰るのでしょうか?」

 「よくもいけしゃあしゃあと! 私を馬鹿にしているの!」

 「先ほども申しましたように、私とご主人とは不倫関係では御座居ません。

 ここはご主人のお勤めになっている会社でもありますので、係長のためにもどうぞお引き取り下さい」


 すると野上の嫁はオフィスに向かって大声で叫んだ。


 「みなさーん! この女はウチの夫を誘惑したんですよー!

 すぐにクビにして下さーい!

 慰謝料たっぷり請求するから覚悟しなさい!」


 それだけ言うと野上の嫁は帰って行った。

 社員の目が全身に突き刺さるのを感じたが、私は平気だった。

 そんなことは初めから想定内の出来事だったからだ。

 私は仕事を続けた。


 


 お昼休みに井上課長にランチに誘われた。


 「どうだ今野主任、たまには一緒に鰻でも?」

 「ありがとうございます、課長。お供します」




 誘われた理由はわかっている。今朝の野上の妻の乱入の件だ。


 「鰻はもちろん旨いけどね? 僕はここの肝吸と奈良漬が好きなんだよ。

 奈良漬のない鰻屋は好きじゃないんだ」


 100年続く老舗の鰻屋。それは5,800円の特上鰻重だった。

 井上は決して自腹を切って部下に奢ることはしない。

 必ず領収書を貰い、それを私に回してくるはずだ。井上はそういう上司だった。

 


 「日本酒が飲みたくなるな?」

 「ランチではそうはいきませんね?」

 「じゃあ夜ならいいのかね?」

 「仕事が終われば後はプライベートですから」

 「主任、今夜どうだろう? 旨い小料理屋があるんだが」

 

 (野上の事を利用して、私をセフレにでもするつもり?)


 出世と女とヤルことしか頭にない男。社員たちの間では、常務にべったり張り付いた井上の事を、「小判鮫」と揶揄していた。

 私は少しらしてやろうと思った。


 「生憎あいにく今夜は予定がありますが、金曜日の夜でしたらお付き合い出来ます。朝まででも」

 「朝まで? それは本当かね?」


 分かり易い男だと思った。

 この男は射精さえすればすぐに体を離して賢者タイムに入り、女に説教を始める輩だ。


 「井上課長、今度の華金、楽しみにしています。うふっ」 

 「僕も楽しみにしているよ」


 (この豚野郎)


 私はゆっくりと食事を続けた。




第2話

 井上課長とのランチを終えて会社に戻る途中、野上から何度もLINEが届いた。



     女王様ごめんなさい 今夜会えませんか?


    

 私は既読にしたままそれを放置した。


 (クソ野郎)




 退社時間になったので帰り支度を始めた。

 私は残業をするほど間抜けではない。営業職でもない限り、勤務時間内に仕事を終えることが出来ない人間は、自分が無能だと証明しているようなものだ。

 仮に会社側の仕事の割り振りに問題があるのであれば、そんなブラック企業に在籍している自分が無能だということになる。

 いずれにしても残業をしている社員は無能だ。

 そして残業をしていることを自慢し、残業している自分に酔っている輩はもう救いようがない。

 そんな奴は定年まで会社の奴隷としてこき使われ、安い居酒屋で世の中に対しての不平不満ばかりを並べ立て、知識人ぶる卑しい老人になってゆく。


 


 会社を出るとすぐに野上が電話を掛けて来た。

 最初の着信は無視した。そして次の7回目のコールで野上の電話に出た。


 「今日はすみませんでした」

 「どちら様? 番号をお間違えですよ」

 「ごめんなさい、本当にごめんなさい女王様。女房のヤツに女王様とのハメ撮り動画を見られてしまったんです。

 それで仕方なく・・・」

 「謝罪するお相手をお間違えではありませんか? 野上係長。

 謝るのは奥様だけで結構ですよ、もう私とあなたは無関係ですから」

 「本当にごめんなさい、女王様・・・」


 野上は涙声になっていた。もう少しかまってやりたくなった。


 「それで洗いざらい白状したわけだ? アンタ馬鹿?」

 「本当にごめんなさい。もう二度とあんな真似はさせません。だから・・・」

 「二度も三度もあったら堪ったもんじゃないわよ。私、お前の嫁にビンタされたのよ、みんなの前で。

 さようなら、下僕」

 「ちょっと待って下さい。少しでいいんです、会って女王様とお話がしたいんです!」


 野上は私に必死に懇願した。


 「今さら言い訳なんて聞いても仕方がないわよ。奥さんのオマンコでも舐めていなさい」

 「そんなこと言わないで下さい、女王様。5分でいいんです! 5分で!」

 

 大の男が女の私にひれ伏すのを見るのは嫌いではない。

 野上は同期入社の中で一番出世が遅かった。

 小太りの禿げで低身長。いわゆるブ男である。

 だが彼が出世出来ない理由はそれだけではなかった。野上はすぐに謝る人間だった。

 自分が悪いと思っていなくても、すぐにその場から逃れるために簡単に頭を下げてしまう。

 だから後輩の井上にまで追い抜かれてしまうのだ。

 仕事はそこそこ出来たが野上はやさし過ぎた。

 会社の女子社員たちからはいつもタメ口で、いいように使われていた。


 「野上係長、コピーの調子が悪いんだけどさあ、ちょっと見てよ」

 「どれどれ、僕が見てあげるよ」


 彼はうれしそうに、ニコニコしてそれらを引き受けていた。



 「それじゃあいつもの小料理屋、『花房』で待っていろ。後で行くから」

 「本当ですか女王様! ありがとうございます! 待っています、女王様!」


 野上とはただの暇潰しだった。

 会話もつまらないがSEXも下手。

 だが野上は私の従順なペットであり、だった。

 ストレス解消には丁度いい相手だったのである。

 私はここ1年で野上を自分好みに「調教」した。




 私が店に着くとすぐ、野上は個室の畳に両手をついて土下座をした。


 「本当にすみませんでした。十和子様」

 「お酒。私のお酒は?」


 私は野上の頭を足で踏みつけた。


 「ハイ、只今お持ちします! いつもの久保田の『碧寿』でよろしいでしょうか?」

 「いいから早く持って来な!」

 「ハイ、女王様!」


 野上はいつもの奴隷モードになっていた。



 お酒が運ばれて来た。

 私はそのお酒を口に含むと、一気に野上の顔にそれを吹き掛けた。

 野上はうっとりとした表情になり、私にお替りを強請ねだった。


 「もっと下さい、十和子様」

 

 私は徳利とっくりを持つと、それを野上の頭の上にゆっくりと注いだ。畳に酒が零れてゆく。

 野上のその恍惚とした顔に、私は優越感を覚えた。


 「ここでオナニーしてみせな」

 

 すると野上はズボンのファスナーを下ろそうとした。

 私は野上の頬をビンタした。


 「お前、ここをどこだと思ってるんだ? ここは料理屋の個室だぞ? このド変態野郎!」

 

 私は野上の股間を踏んづけてやった。


 グリグリ グリグリ


 「うっ」


 悦び悶える野上。

 私はそんな野上を見ながらお酒を飲んだ。

 美味しいお酒だった。

 もうこの男は捨ててしまおうと思ったが、もう少し調教してもいいかと思った。

 私は退屈な毎日に辟易へきえきしていた。


 10年前に今の夫と結婚した。社会人のバドミントン・クラブで知り合った恋愛結婚だった。

 付き合っている時から結婚するならこの男だと決めていた。

 仕事が出来てハンサム。いつもやさしく私をエスコートしてくれた。


 だが結婚して私が不妊症だとわかると、夫の態度が急に冷たくなった。

 毎日のようにしていた夫婦生活もなくなり、いつしか寝室も別になった。


 「これからはお互いに別々に寝よう。その方がぐっすり眠れるから」


 ダブルベッドはそのまま私が使い、夫はシングルベッドを買って自分の書斎に入れた。

 以前はふたりでよく行っていた外食にも連れて行ってくれなくなった。そもそも夫はあまり食に興味のない人だった。

 私はただの家政婦にすぎなくなっていた。



 「そろそろ行くぞ」

 「どちらへですか?」

 「いつものところに決まってんだろ? 今日はたっぷりお仕置きしてやるから覚悟しな」

 「ハイ! よろしくお願いします! 女王様!」


 

 私はいつものラブホのSM部屋に野上を連れてチェックインをした。




第3話

 野上はブリーフ一枚になった。


 「お前の女房はバカなのか? 旦那にこんな小学生みたいな白ブリーフなんか履かせやがって」

 「う、浮気防止だそうです」

 

 私はハンガーに掛けられた野上のズボンから革ベルトを引き抜き、野上の白豚のような肉体を鞭打った。


 「うっつ」

 

 打ち付ける度に目がトロンとして来る野上。コイツは根っからのM男だった。

 もっとも野上をそう調教したのは私だった。

 私は野上に首輪とリードを着け、両腕に手錠を掛けた。


 「お前は私の何だ?」

 「犬です」

 「犬?」

 「奴隷犬です、女王様の下僕です」


 私は服を着たまま、ソファに座った。

 

 「こっちへ来い」

 「はい」

 「はいじゃないだろう? 犬なんだから?」

 「ワン!」


 四つん這いになって野上が私の足元までやって来ると、私は靴とストッキングを脱いだ。


 「私の足の指を舐めろ」

 「ワン!」


 野上の禿げた頭頂部が見えた。うれしそうに私の足の指を丹念に舐める野上。


 「女王様、私にご褒美を下さい」

 「どんなご褒美だ? お前は何が欲しい?」

 「女王様の聖水が飲みたいです」

 「私の聖水? だったらもっとちゃんと私に奉仕しろ」

 「ワン!」


 私は服を脱ぎ捨て、全裸になった。

 

 「立て」

 「ワン!」


 野上が立ち上がると、私は野上の乳首に予め用意していた洗濯バサミを挟んだ。


 「うっ」

 「どうした? 痛いか?」

 「いえ、大丈夫です」

 「こんな乳首、いらないよなあ? お前は一応、男なんだから」

 

 私は洗濯バサミを更に強く指で抑えた。

 苦痛に歪む野上の表情が愉快だった。

 人間とは不思議なもので、男には女の、女には男の感情が少なからず内在しているものだ。

 ある者はサディスティックに、そしてまたある者はマゾヒズムにその性的快感を充足させようとする。

 サドとはフランスの拷問や死刑執行を生業なりわいとする貴族、サド侯爵に由来し、マゾは羞恥心や肉体的精神的苦痛、屈辱などを支配者から被虐、支配されることにより、性的快感を得るものだ。

 性的倒錯、パラフィリアという精神疾患であるとも言われている。

 マゾの語源はオーストリアの作家、ザッヘル・マゾッホに由来する。

 彼の代表作、『毛皮を着たヴィーナス』は精神的肉体的苦痛により性的快楽を得るという彼の自伝小説である。


 

 「今日はよくも私に会社で恥を掻かせてくれたな?」


 野上は土下座して私に詫びた。


 「ごめんなさい、ごめんなさい女王様」

 

 私は再び革ベルトで野上の体を容赦なく打ち付けた。

 みるみる野上の体に幾つものミミズ腫れが出来た。


 「仰向けになって口を開けろ」


 私は野上の顔に跨り、放尿した。

 野上は私のオシッコをゴクゴクとうれしそうに飲みながら射精した。


 「誰が出していいって言ったあ!」

 「ご、ごめんなさい、女王様」

 「舐めろ。聖水を出してやった私のここを舐めろ」


 野上のねちっこいクンニが始まった。

 私は軽い絶頂の後、野上に命じた。


 「私の中に入れろ」

 「ハイ、よろこんで!」


 野上の挿入はいつまでも続いた。

 私は幾度かのエクスタシーを感じると野上から体を離し、メンソール・タバコに火を点け、煙を吐いた。

 私はそのタバコの火を野上の尻に押し付けた。


 「ギャーッ!」


 すでに時計は深夜零時を回っていた。



 その後、野上は女房と離婚したらしい。

 バカな男だ。


 


第4話

 午前零時を過ぎて夫が帰宅した。

 「ただいま」の一言もない。それはいつものことだった。


 「ご飯は?」

 「今日は何だ?」

 「お刺身だけど」

 「とりあえず風呂に入って来る」

 

 夫には女がいる。それは何となく分かる。女の勘だ。


 「もう外で入って来たんでしょう?」


 私にはその一言が言えない。

 

 

 夫が風呂から上がる頃合いを見計らい、私は晩酌と食事の用意をした。

 新婚時代のようにお酌もしないし、一緒にご相伴することもない。

 そもそも私たち夫婦には会話が殆どなかった。

 「旨い」とも「不味い」とも言わず、ビールを飲み、食事をしている夫。

 伊万里の皿に盛り付けたお刺身も、「綺麗な盛り付けだな」とも言わずに食べている。心底憎いと思った。


 「それじゃあ先に寝るわね?」

 「ああ」


 「おやすみ」の言葉すらない。

 世の中には仮面夫婦という表現があるが、私たち夫婦は「心をなくした人形」だった。




 井上課長との約束の金曜日になった。

 待ち合わせをした料理屋で、井上は目をギラつかせ、舐めるように私の全身を見た。


 (やる気満々の下衆野郎)


 井上は典型的な卑しいサラリーマンだった。

 部下の手柄は自分の手柄、そして自分のミスは部下のせいにする。

 井上は社内の嫌われ者だった。



 「会社でも今野君は目立つが、プライベートの君はもっと輝いている。実に美しい」

 「ありがとうございます。ほんの普段着ですよ」


 私は敢えて露出のある服装は避け、シックなコーデにした。

 カーキー色のウエストを絞ったワンピースにゴールドのダブルネックレス。ピアスもゴールドにした。

 ストッキングは艷やかな薄い黒。

 中年男は意外とミセスのファッションに欲情するものなのだ。いわゆる「美熟女」を好む傾向にある。



 「好きな物を注文しなさい。お酒は飲めるんだったよね?」

 「はい、大好きです。それなら最初はおビールでお願いします。その後は適当にやらせていただきますので。

 お料理は課長のお勧めで結構です」

 「わかった。オヤジ、この美人に生とフグの唐揚げ、それから白子のポン酢を頼む」

 「あいよ」

 「この店は僕の贔屓ひいきの店でね? オヤジとは長い付き合いなんだ。ここは何を食べても旨いよ」

 「そうなんですか? 私、フグの白子が大好物なんです」

 「それは良かった。人間の白子はどうだね?」

 「エッチな課長さん。うふっ。これでも一応人妻なんですからね? 課長とそうなったら不倫になっちゃうじゃないですか?」

 「あはははは これは失礼。危うく人妻さんを口説くところだったよ」


 (私とやりたいくせに。馬鹿面オヤジが)


 私はこの井上が大嫌いだった。

 今日の目的はこの男の口を封じることにある。予定通りの進捗だった。


 

 早くホテルに行きたい井上は、1時間もすると急にソワソワし始めた。

 盛んに私にお酒を勧め、醉わせようとする。

 

 「君は日本酒も焼酎もいける口なんだね?」

 「お酒と紳士は大好物ですから」

 「どうだい? 次はホテルのBARでカクテルでも?」

 「いいですね? 明日は土曜日でお休みですから」

 「ところで旦那さんは遅くなっても心配しないの? 大丈夫?」

 「ウチの夫は放任主義ですから、私には関心がありません」


 井上はうれしそうに笑った。


 「理解のあるいい旦那さんで良かったね?」



 

 井上は私を老舗ホテルのBARへと誘った。

 下心は見え見えだった。



 「十和子君は何を飲む?」

 「シェリー酒をお願いします」

 

 シェリー酒は「今夜はあなたと一緒に寝たい」という意味のお酒だった。

 井上は歓喜した。


 「それじゃあ僕も同じ物を」

 「かしこまりました。フィノとアモンティ・リヤードがございます」

 「私はフィノで」

 「僕もそれで」


 会話のつまらない男は最悪である。

 井上との会話は苦痛でしかなかった。


 「何だか今日は酔ってしまったみたい」

 「そうか! それならここで少し休んで行くといい」

 「ホテルでですか? 課長とふたりで?」

 「大丈夫、僕は紳士だから何もしないよ」

 「なら安心して眠れますね?」



 私たちはホテルの部屋へチェックインした。


 部屋に入るなり、井上はすぐに私の胸を揉み、キスをして来た。耳の後ろ辺りから死人のような加齢臭がした。


 「課長、何もしないって言ったじゃないですか! やめて下さい!」

 「そんなことは言った覚えはない! さあ今夜はたっぷり楽しもうじゃないか!」

 「イヤっ! 今日は女の子なんです! ヤメて!」

 「構うもんか、俺はそんなの気にしない。寧ろ燃えるんだ、生理の時のセックスの方が」


 シナリオ通りだった。


 「せっかちな課長さん。それなら課長が先に脱いで下さいよ」

 「よしわかった」


 井上はすぐに全裸になった。

 私はスマホを構え、それを動画に収めた。


 「何をしている! やめろ!」

 「そうはいかないわ。さっきからの会話もすべて録音してあるわよ。

 強制わいせつ罪の証拠としてね? あはははは」

 「その動画と音声録音をすぐに消せ! 今すぐに!」

 

 井上は私のスマホを奪おうとした。


 「人を呼びますよ」


 井上は大人しくなった。

 

 「野上とのことで私をゆすろうなんて100年早いわよ。

 安心しなさい、お前が私に何もしなければこれを公開することはしないから。

 でももしヘンなまねをしたらその時は・・・」

 「わかった、だからこのことは内密に頼む」

 「それから常務に言っても無駄よ。アイツは私の下僕しもべだから。

 反社に依頼するのも止めなさい、そっちの方も私、結構顔が利くから」


 さっきまでギンギンだった井上のペニスは項垂うなだれて萎み、その場にへたり込んでしまった。

 いい気味だと思った。クズはどこまでもクズだった。





第5話

 夫の背広をクリーニングに出そうとした時。背広の肩口にファンデーションが付着していることに気づいた。

 微かにシャネルのNo.19の香りもした。

 それは明らかに意図的に付けられたものだった。


 私は脱衣籠の中に放り込まれていた、夫の下着を確認した。


 (思った通りだわ)


 白い肌着の裾に口紅が付けられていた。まるで犬のマーキングのように。

 夫はこれに気付いてはいない。

 おそらく夫が風呂かトイレにそこを離れた時に、わざと女が付けたものだ。


 (ご主人はもうあなたを愛してはいないわよ)


 私は宣戦布告をされたのである。

 私はハサミでそれをズタズタに切り刻んで捨てた。爽快な気分だった。

 それはまるでその女を切り刻んだかのようにも思えたからだ。


 あはははは あはははは


 でも私は泣いたりしない。私はもう泣くことを忘れていた。



 

 会社の帰りに大丸デパートの地下の食品売場に寄った。

 今日は疲れたのでお弁当とお惣菜を買って帰るつもりだった。

 私が老舗寿司屋の鯖寿司を見ていると、横から竹皮で包まれた鯖寿司に手を伸ばす、背広姿の男がいた。


 「ここの鯖寿司、少し高いけど旨いんですよ」


 笑顔が爽やかな、背の高い、顔立ちの整った中年男性だった。

 久々に見るいい男だった。柔らかな物腰、私の周りにはいないタイプの紳士だった。

 年齢はおそらく40前後であろうか? 仕立てのいいスーツをきちんと着こなしていた。ネクタイの趣味もいい。


 「美味しいですよね? ここの鯖寿司。私も大好きです」

 「これと日本酒はとてもよく合います。今夜はこれで一杯やるつもりです。すみません、これを下さい」

 「いつもありがとうございます」

 「それでは私も」


 私もその鯖寿司を購入することにした。

 その男性と顔を見合わせて笑った。


 「美味しくいただきましょうね?」

 「私も大吟醸を買って帰らないと」

 「それはいい、では失礼します」


 そう言って男は人混みの中に消えて行った。




 それから2週間後、私は会社帰りに青山のブティックでブラウスを買い、カフェでお茶をしていた。

 真っ直ぐ家に帰りたくはなかった。

 するとあの鯖寿司の男性が英字新聞を小脇に抱え、店に入って来た。

 カフェの奥の席に座り、何かを注文して男性は英字新聞を広げた。


 (商社マンなのかしら?)


 珈琲が運ばれて来た。

 英字新聞を読みながら珈琲を飲む所作しょさが様になっていた。

 男性と目が合った。

 男性は私に気づくと軽く微笑んで会釈をした。

 その瞬間、運命の歯車が動き出した感触があった。


 私はすぐに席を立ち、化粧を確認するために化粧室に向かった。

 

 口紅を引き直し、髪型を整えた。

 洗面所の鏡に映る自分を見て、私は笑った。


 (うふっ 私は一体何を期待しているのかしら?)


 そんな自分が可笑しかった。氷のような女だと言われるこの私がである。



 案の定、席に戻ると彼が私のところに歩み寄って来た。


 「先日の鯖寿司、絶品でしたよね?」

 「本当に美味しかったですよね? あの鯖寿司」

 「お一人なんですか?」

 「ええ、いつもひとりなんです。私、友だちがいないので」

 「それじゃあ僕とお友だちになってくれませんか? ここ、座ってもいいですか?」

 「どうぞ、私がお邪魔でなければ」

 

 男は珈琲と新聞を持って私のテーブルに移動して来た。

 その身のこなしがとてもスマートで美しかった。


 「私は有栖川と言います。四菱に勤めています。どうぞよろしく」


 有栖川は名刺入れから名刺を取り出し、私に名刺を渡してくれた。


 「四菱商事の部長さんなんですね?」

 「3ヶ月前にロンドンから帰って来ました。やはり日本はいいですね? 何よりも食事が美味しい。

 ロンドンは高いし最悪でした」

 「世界中とのお仕事は大変ですよね? 私は今野、今野十和子といいます。数字の十に和むに子供の子です。

 性格は全然和んではいませんけどね? うふっ」

 「十和子さん? 素敵なお名前ですね?」

 「そうですか? ありがとうございます」

 

 有栖川は私の買物袋を見て言った。


 「今日はお買物ですか?」

 「ええ、春も近いので春物のお洋服を買いに」

 「そうでしたか? もう春ですものね? 私は季節の中で春と秋が一番好きです。

 暑がりで寒がりですから」

 「私も同じです。寒いのも暑いのも嫌いです」

 「同じですね? ところで十和子さん、今日のこの後のご予定は?」

 「特にはありません、家に帰るだけです」


 (お食事に誘って欲しい)


 「そうですか? お食事はまだですよね? いかがです? もしご迷惑でなければこの近くに旨いモツ鍋の店があるんですが、ひとり鍋というのも抵抗がありまして。

 こんなオジサンでよければモツ鍋、お付き合いいただけませんか? もちろん私にご馳走させて下さい」

 「モツ鍋ですか? 私も大好きです。ニラをどっさり入れて食べるのが好きです」

 「よかった。それじゃあニラを増々で」

 「ニンニクも多めでお願いします」

 「わかりました。ではすぐ近くですのでご案内します」


 有栖川力也。この人なら私の人生を変えてくれるかもしれないと思った。


 


第6話

 かなりの有名店らしく、店はほぼ満席だった。


 「モツ鍋を食べる人ってこんなにたくさんいるんですね?」

 「私もたまに無性に食べたくなるんですよ。ここのモツ鍋が。

 飲み物はどうしますか?」

 「私はビールで」

 「じゃあ僕もビールにしようかな? モツ鍋はどんなお酒にも合いますから」

 

 食の好みとセックスは似ている。食にセンスがない男はセックスもがさつで下手だ。


 「十和子さんはきっとここのモツのファンになりますよ。

 ここのモツは新鮮な大腸を丹念に掃除してあってプルプルなんです。そしてセンマイと蜂の巣も入っているんです。コラーゲンがたっぷりですよ。でも美人な十和子さんには必要ないか? あはははは」

 「それじゃあたくさん食べて、もっとキレイにならないと。うふっ」

 「では注文しますね? すみませーん! 注文いいですかあ!」


 有栖川さんは大きな右手を挙げて仲居さんを呼んだ。


 「生2つとモツ鍋を2人前、それから別料金で結構ですのでニラとニンニクを追加でお願いします」

 「かしこまりました」


 仲居はタブレットで注文を調理場へ伝えた。


 「ニラとニンニクは増々でしたもんね?」

 「お気遣い、ありがとうございます」


 女が何気なく口にしたことを忘れない男は仕事も出来る。

 

 先にビールとお通しが運ばれて来た。


 「今夜は何に乾杯しようかなあ?」

 「ではモツ鍋に」

 「そうですね? では十和子さんのモツ鍋デビューに乾杯」


 私たちはグラスを合わせた。

 久々に美味しいビールだった。

 有栖川さんは私の結婚指輪に気づいたようだった。

 さっきのカフェの化粧室で指輪を外そうかとも考えたが止めた。

 それはどうせ指輪の跡が残ってしまうと考えたからだった。

 そしてそのための言い訳はすでに用意していた。


 「十和子さんはご結婚されているんですね? こんな美人、周りが放って置くわけないか?」


 少し落胆したような有栖川さん。

 有栖川さんの指には結婚指輪の痕跡が見て取れた。


 (バツイチ?)


 「これですか? これは魔除けなんです。独りでいることが多いので、ヘンな人からよく声を掛けられることがあるので、その時の対策です。「私、結婚しているんで」って言えるでしょう? だからこの指輪はそのためにしています。結婚はしていません。今は独身です。

 そうでなければ有栖川さんとモツ鍋なんて食べに来ませんよ。

 独身です、一応」


 嘘を吐いた。でもそれはあながち嘘だとも言えない。すでに私たち夫婦は破綻しているのだから。

 だから私は「一応」と付け加えたのだ。


 「ということは私は今、十和子さんにとって「ヘンな人」ではないということですか? よかったー」

 「有栖川さん、ご結婚は?」

 「僕も結婚していたら十和子さんをモツ鍋に誘ったりはしませんよ」


 ホッとしている自分がいた。

 男の中には結婚していても指輪をしなかったり、都合のいい場面では外したりする男も多いからだ。

 有栖川さんは嘘を吐く人ではない、彼は間違いなく独身だ。

 私にとって有栖川さんが独身であろうとなかろうと、それは関係のない話だった。

 私は有栖川さんに恋をした。



 モツ鍋が運ばれて来た。白い綺麗なモツにニラとスライスされたニンニクがたっぷりと乗っていた。


 「とてもいい香り。ワンタンの皮も入っているんですね?」

 「餃子の皮が入っているお店もありますが、ここはワンタンなんです。この香りが食欲をそそりますよね? ここのモツ鍋の締めは雑炊ではなく、ちゃんぼん麺なんです。どうぞ期待していて下さい、これがまた凄く旨いんですよ。

 出汁は鶏ガラで、タレはポン酢と唐辛子、白ゴマで食べます」


 うれしそうに子供のように話す有栖川さん。

 有栖川さんが手際よくモツ鍋を私に取り分けてくれた。

 男性にこんなことをしてもらうのは初めてだった。

 給仕をするのはいつも私だった。ゴツゴツとした血管の浮き出た男らしい手に欲情した。


 「さあ、どんどん食べて下さいね? ニラとニンニク、たっぷり入れましたから」

 「ニンニクとニラをこんなに沢山入れたら、キスする時、匂いますよね? うふっ」

 「それなら大丈夫です。僕もたくさん食べますから。あはははは」


 私はこんな会話がしたかった。

 夫や下僕たちにはこんなとっさのアドリブは出来ない。

 私はとりわけてもらった小鉢のモツ鍋に箸を付けた。


 「すごく美味しそう。いただきまーす。

 うーん、白モツもお出汁もとても良く合いますね?」

 「それはよかった。もしよろしければ白ゴマを掛けると尚、美味しくなりますよ」

 「そうですか? じゃあ入れてみますね?」


 私は白ゴマを擦ってタレの小鉢に入れた。

 炒った白ゴマの香りがより味に深みを増した。


 「有栖川さん、ご結婚の経験は?」

 「バツイチなんです。妻は海外生活には馴染めなかったようで。かわいそうなことをしました」

 「そうでしたか? お子さんは?」

 「男の子がひとりいます。今は大学生です」

 「息子さんとはお会いになっているんですか?」

 「小遣いがなくなると連絡して来ます。でも一緒に酒を飲んだり、メシを食ったりすることは殆どありません。

 僕は息子に嫌われているようです」

 「父親と男の子はそれくらいの距離が丁度いいのかもしれませんよ。

 父親に限らずですが、親と子供がベッタリというのは気持ちが悪いですから」

 「イタリア人は酷いマゾコン男が多いですけどね? 週末には彼女や奥さんを連れてよく実家に帰ります。「ママのパスタが食べたい」とか言ってね?」

 「本当ですか?」

 「本当の話です」


 私は夫を思い出していた。


 (すると夫はイタリア人だったのかもしれない)


 付き合っている頃からよく夫の田舎に連れて行かれた。

 行ったからと言って大事にされるわけでもなく、義母たちからは家政婦のようにこき使われた。


 私は有栖川さんとすっかり現実逃避をしていた。





第7話

 食事を終え、私たちは一緒にお店を出た。

 

 (腕を組んで歩きたい)


 有栖川さんには自分を委ねてみたいと思う安心感があった。

 女は安心と安定が欲しい。


 「美味しかったですね? モツ鍋」

 「ええ、とっても」

 「食事は何を食べるかじゃなく、誰と食べるかが重要ですからね?

 十和子さんとの今夜の食事は最高でした」

 「私もです。また食べたいです。有栖川さんとモツ鍋」

 「あはははは またモツ鍋ですか? 旨いグラタンの店があるんですよ、今度は一緒にグラタンを食べに行きませんか?」

 「グラタン? 大好きです。ちょっと焦げてるところが好き」

 「僕もです。楽しみだなあ、十和子さんとのグラタン・デート」


 私は有栖川さんと腕を組んだ。



 月がキレイな夜だった。

 公園に差し掛かると有栖川さんはブランコに座った。私も隣のブランコに座った。


 「誰もいない夜の公園って好きなんですよ。昼の公園にはない静寂が」

 

 有栖川さんがブランコを漕ぎ始めたので私もそれにシンクロした。


 「綺麗な満月ですね? 月は人を素直にさせます」

 「ブランコなんて漕いだの、小学生の時以来です。お月様まで飛んで行けそう」

 「僕はたまに漕ぎますよ、ブランコ」


 こんな会話がしたかった。

 私は自分が女であることを、この時初めて実感した。


 「十和子さんが好きです。好きになっちゃいました。一目惚れです。

 あの時の鯖寿司からずっと」

 「鯖寿司からずっとですか?」

 「ええ、鯖寿司も美味しかったですが、あなたと出会えたことがうれしかった」

 「・・・」

 

 大の大人の告白に心が震えた。

 照れを隠すかのように有栖川さんが言った。


 「冷えて来ましたね? 少し飲みませんか?」

 「マルガリータがいいなあ」

 「音楽は何がいいですか?」

 「ピアノ」

 「どんなピアノ曲が?」

 「辻井伸行のベートーヴェン、『月光ソナタ』がいい」

 「僕も好きだよ、辻井伸行の『月光ソナタ』は」



 ブランコを降りた有栖川さんが、私の手を取ってブランコから降ろしてくれた。

 私たちは手を繋いで夜の街を歩き、ピアノのあるBARを探した。

 温かい彼の大きな手。私は愛情を持って初めて男性と手を繋いだ。

 自分の手も、女の部分もしっとりして来るのがわかった。



 ようやく店を見つけた。


 

 「彼女にはマルゲリータを。私はロイヤルサルートをダブルで」


 すると有栖川さんがピアノに向かい、ピアノの蓋を開けた。

 いつ弾き始めたのかさえもわからぬほどのフェザータッチの彼のピアノ。

 有栖川さんの『月光ソナタ』の演奏が始まった。


 私は今まで泣いたことがなかった。

 頬を冷たい雫が伝って流れた。

 それは私の頬に落ちた、月の雫だと思った。

 



第8話

 その夜、有栖川さんに抱かれた。

 鋼のような肉体から繰り出される緩急のある愛撫、舌使いに私は翻弄ほんろうされた。


 (これが本当のセックスなの?)


 私は背中に汗を掻くほど何度も絶頂に達し、あえいだ。

 今まで勝手に自分はドSだと思っていたが、有栖川さんに抱かれていると、もっともっと激しく虐めて欲しいとさえ思った。

 本当の私はドM体質であることを初めて知った。



 有栖川さんは私を俯せに寝かせると、耳を甘噛みしながら舐めた。

 ゾクゾクした。


 「あん あっ」

 「耳、弱いの?」

 「弱いの・・・」

 「それじゃあこれはどう?」


 私のお尻を触りながら、首筋、肩、背中へと舌をヘビのように這わせながら、時々甘い吐息を耳に吹き掛けた。


 「ふーっ はーっつ」


 ビクンとカラダが反応してしまう。

 

 「キレイなお尻だね? 十和子。少し持ち上げてくれるかな?」

 

 私は彼の命令に従い、腰を浮かせ、恥ずかしいポーズを取った。

 彼の舌が私のアナルを突っついた。


 「汚いわよ・・・」

 「大丈夫、十和子のここはとってもキレイだから」


 アナルを丹念に舐められた。

 彼の人差し指と中指が、私の一番敏感な部分に触れた。


 「ここまで濡れてるよ。感じてくれているんだね? うれしいよ、十和子」


 濡れた陰核を指で押し、またある時はやさしく、強く撫で回して私の反応を確かめている。

 私は恥ずかしいほどそれに反応していた。


 有栖川さんがその二本の指を私のヴァギナに滑り込ませて来た。クチュクチュと淫らな音がして、指の第二関節まで出し入れしてGスポットを刺激して来た。


 「う うん あう あ」

 「もっと奥まで入れてもいいかい?」

 

 私は黙って頷いた。

 すると今度は仰向けにされ、クリトリスを舐めながら、彼の長い指が子宮口へと到達した。


 私はシーツを掴み、必死に快感を押し殺そうとしたがそれは徒労に終わった。

 自分でするよりもはるかに気持ちがいい彼のペッティングに、私は歓喜の声を挙げた。


 「あ あー んっつ はうっつ」


 私は股を広げられ、彼のそそり立ったペニスをそこに充てがわれたのを感じた。


 「痛かったら言ってね?」

 「はい・・・」


 彼の物がメリメリと私の中にゆっくりと侵入して来た。

 それは下僕たちのそれとは比べ物にならない感触だった。


 「動くよ」

 「お願い」


 絶妙なリズムで彼の腰が動いている。

 私は限界まで耐えて、最高のエクスタシーを得ようとした。

 それは意外にも早く訪れた。私は足の指を内側に強く曲げ、より深く快感を得ようと試みた。


 「ごめんなさい・・・、私、もう駄目、イクっ!」


 それでも彼は行為を中断しなかった。

 すぐに第二波が押し寄せて来た。それは最初の快感よりも強い衝撃を私に与えた。


 「そのまま中に欲しい! 大丈夫なの、私は妊娠出来ないカラダだから!」


 私は思わずそう叫んだ。

 すると有栖川さんは動きを止めた。

 そして私のオデコにやさしいキスをしてくれた。


 「辛かったね?」


 私は涙が止まらなくなった。泣くまいと思うほど、涙が溢れて来る。

 有栖川さんが枕元にあったテッシュで私の涙を拭いてくれた。


 「セックスは愛を確かめ合うコミュニケーションだと思うんだ。

 だからそこに愛がなければいけない。人間は他の動物とは違う。セックスは高尚であるべきなんだ。

 ただ子孫を残すためだけにセックスがあるんじゃないよ、お互いの愛を称え合うためにするものだと僕は思う。

 だから君は僕にとって最高の女性だ。愛してるよ、十和子」


 うれしかった。

 私は有栖川さんを強く抱きしめた。


 「力也、私もあなたが大好き・・・」

 「それじゃあ僕もイッてもいいかな?」

 「うふっ、どうぞ。いっぱい頂戴ね」


 そして彼は私の中に愛の樹液をたっぷりと放出した。

 私はしばらくの間、放心状態だった。

 それは今までに感じたことのない充足感のあるセックスだった。


 



第9話

 砂を噛むような毎日が、力也との出会いによって劇的に変わって行った。

 すべてが輝いて見えるようになった。


 私の結婚生活は既に破綻している。離婚は時間の問題だった。

 だが不思議なことに、今まで義務としてやっていた夫の身の回りの世話も、別段苦にならなくなっていた。

 おそらくそれは、夫のためにしているのではなく、力也のためにしていると無意識に思ってやっているからなのかもしれない。


 その日の朝も、私は出勤する夫のために靴を磨いていた。

 それを当たり前のように無言で靴を履く夫。「ありがとう」の一言もない。

 こんな生活も間もなく終わるのだ。

 私は「有栖川十和子」になるのだから。



 下僕たちとは縁を切った。

 

 「なんでもしますから私を捨てないで下さい、十和子様!」


 と懇願する下僕たち。


 「私はもうお前の女王ではない。私はきさきになるのだ。

 新しいご主人を探すがよい」


 下僕たちは泣きながらそれを承諾した。



 

 力也とのデートはまるで韓流ドラマのように新鮮でピュアなものだった。いつもときめきがあった。

 私は大した恋愛経験もないまま、夫と結婚したのでロクなデートもして来なかった。

 味気ないセックスは経験しても、私はまだ「恋愛ヴァージン」だったのである。


 休日には海沿いをドライブをして食べ歩きをしたり、映画館で大きなポップコーンをふたりでシェアして映画を観たり、マーケットで一緒にお買物をして、彼のマンションでお料理を作って食べたりと、まるで夢を見ているようだった。

 私は今、力也と青春をやり直していた。



 「今度、ロンドンに出張なんだけど、向こうで少し休暇を取るつもりなんだ。

 どうだろう? 十和子も一緒について来ないかい?」

 「素敵なお話ね? だけど会社があるからなあ、今回は無理かも」

 「それじゃあまた今度の機会に」

 「ごめんなさいね、折角誘ってくれたのに」

 

 会社の方はなんとでもなるが、問題は夫だった。

 夫は私の行動に関心はないので、私が何をしようが何時に帰って来ようがそれをとがめることはない。

 私が朝帰りしても何も言わない夫だった。

 だが長期に家を空けることだけは嫌がった。

 以前、下僕と九州に二泊三日の旅行に出掛けた時、珍しく夫は私を問い詰めた。


 「三日も家を空けるなんてどういうことだ! 何をしていたんだ! 女のくせに!」

 「あなたに私を責める権利はないわ」

 「二度とこんな真似はするな! わかったな!」


 そんなことがあったからだ。

 別に離婚するつもりだから何を言われても構わないとは思っていたが、なぜかあの時の悲しそうな夫の顔が目に浮かんだ。

 あんな夫を私はその時初めて見た。

 どうせ別れるなら後腐れなく別れたいと思ったのも事実である。




 夫の実家から呼び出され、日曜日、私と夫は田舎の両親の元へと向かった。

 クルマの中では会話もなく、地元のFMラジオが夫婦の隙間を埋めてくれた。


 

 実家に着くと、いつも私に不機嫌な義母たちの態度が珍しく良い。

 

 「十和子さんよく来たね? 阿部食堂からカツ丼を取ったから早く食べな」


 なんの風の吹き回しかと思った。贅沢を嫌う義母が出前をご馳走してくれるだなんて。

 だがその理由はすぐに判明した。



 「実はね? 養子の話があってね?」

 「養子って誰の?」

 

 カツ丼を食べながら夫が義母に訊いた。


 「アンタたちの子供に決まってんでねえの。十和子さんに孫を産むのが無理なら、将来この今野家のことも考えれば、それが一番いい方法だと父ちゃんとも話したんだ。

 ほら、お前の従兄弟の礼二、今度あそこに7人目が産まれんのは知ってんべ? その子供を養子にもらったらどうだべか?」

 「俺たちに養子はいらねえよ母ちゃん」

 「なして?」


 私はまるで他人の話でもするかのように義母たちにこう言った。


 「お義母さん、わざわざ養子なんかもらわなくてもいいですよ、ちゃんと赤ちゃんを産んでくれるお嫁さんをもらえばいいことですから。私は子供が産めないカラダですから離婚してもらっても構いませんから」

 「十和子さん・・・」

 「それに和也さんには既にそういう女性もいるようですから。ねえあなた?」

 「ホントなのかい? 和也」

 「俺は離婚なんかしねえ。絶対にだ。そして養子もいらねえ!」


 意外だった。


 (離婚はしないですって? 一体何を考えているのかしらこの人は?)


 「私と離婚して下さい。お願いします」

 

 私は箸を置き、夫に向き直ると頭を下げた。


 「駄目だ、離婚はしない。絶対にだ」

 「もう私たちは夫婦じゃないでしょう?」

 「俺は絶対に離婚はしない!」


 気まずい沈黙が続いた。どんどんカツ丼が冷めて行く。

 離婚は問題なく進むはずだった。なぜなら夫の両親は寧ろそれを望んでいたからだ。


 「子供を産めない嫁は嫁じゃねえ」


 田舎ではそれが暗黙の了解だった。

 私は夫の思いがけない反応に戸惑っていた。

 



第10話

 クルマを運転しながら夫が私に詫びた。


 「母ちゃんがあんなことを言って本当にすまなかった。

 田舎の女だ、許してやってくれ」

 「私と離婚して下さい、お願いします」

 「離婚はしないと言った筈だ」

 「どうして? あなたには若い女がいるでしょう?」

 「アイツとはただの遊びだ。それ以上の何ものでもない」

 「私は子供が産めない女なのよ。その娘に産んでもらえばいいじゃない。あなたもお義母さんたちも子供を望んでいるんだから」

 「俺はあの女を愛してはいない。向こうが勝手に俺に付き纏っているだけだ。愛していない女の子供は俺の子供じゃない」

 「私だって同じじゃないの、愛していないんだから」

 「お前は違う、お前は違うんだ」

 「どこが違うのよ? いつも私の事は放ったらかしで、私はあなたの家政婦じゃないわ」

 「愛しているんだ、十和子を」


 (この人は一体何を考えているの?)


 「私はもうあなたを愛してはいない」

 「子供が出来ないと知った時、お前は落胆した。俺はお前との子供が欲しかった。

 だがそれでお前を苦しめたのも事実だ。

 お前は笑わなくなってしまった。そしてそんな十和子から俺も次第に距離を置くようになった。お前にどう接していいのかわからなくなったからだ。

 だから寝室も別々にした。お前を抱くのが怖かった。

 子作りのためのセックスほど、虚しいものはない。

 「今度こそ、受精したか?」と期待する自分にも疲れた。

 そして悲しそうな顔で生理を迎え、落ち込む十和子を見るのが辛かった。

 みんな俺のせいだと自分を責めた。

 そしていつの間にか俺たち夫婦から会話も消えた。

 もう一度やり直せないか? 俺たち」

 「・・・もう遅いわよ、もう何もかも」

 「俺はやっと気付いたんだ。俺にとって十和子は掛け替えのない女房だということを。

 俺は十和子とやり直したい」


 どんな言葉も今の私には響かなかった。


 「お互いに別々の道を歩きましょう。私たちは縁がなかった、ただそれだけのこと。

 慰謝料も何もいらない、私は独りで生きて行きます」

 「有栖川、力也。アイツと一緒になるつもりなのか?」

 「どうしてそれを! 彼は関係ないわ!」

 「そうか、わかった。ならこうしないか? お前は有栖川と自由に付き合えばいい。俺は繭花まゆかと付き合う。お互いに干渉はしない。でも離婚もしない、それでどうだ?」

 「そうまでして夫婦に拘る必要がある? 親のため? 世間体? 会社での評判を落としたくないから? 離婚しない理由が私にはわからないわ。結婚は愛がなければ成り立たないのよ。私はもうあなたを愛せない」

 「結婚と恋愛は別だ。結婚とは紙切れの契約だ。だが愛は想いなんだ、心なんだよ」

 「あなたの言っていることがまるでわからない。それじゃあその繭花とかいう女はただのセフレなの?」

 「お前とは出来ないが、アイツとはヤレる。いうなれば繭花は俺のダッチワイフのような存在だからだ」


 狂っていると思った。

 確かに男の性欲は射精、溜まった精子の放出にある。

 だから射精を終えると男は急に大人しくなる。だが女の性は違う。

 大切にされているという実感が欲しいのだ。

 男は大きな勘違いをしている。ただ穴に入れさえすれば女は悦ぶと思っている。女はそれほど単純ではない。

 たとえ挿入がなくても十分にイクことは可能なのだ。

 そして女は相手のために感じているフリをすることも出来る。

 セックスは愛しているからこそ、もっと深く繋がりたい、一緒に溶けてしまいたいと女は願う生き物なのだ。出せばいいという男の性とは根本的に違うのだ。

 愛しているからこそ、この男の遺伝子を残したいと女は願う。

 その点、私と力也のカラダの相性はピッタリだった。彼は常に私を労り、大切にしてくれているのが行為の最中にもそれが全身に伝わる。

 足の爪先から髪の毛の先端に至るまで。

 


 私は話す気も失せ、流れる田園風景を眺めていた。

 そして夫も話を止めた。

 所々に梅の花が咲き始めていた。春は近い。


 私は力也のロンドン出張について行くことを決めた。



  


第11話

 私たちはロンドンに向け、機上の人となっていた。

 ビジネスクラスだったこともあり、私たちはずっと手を握り、ワインを飲みながら色んな話をした。

 それはまるで新婚旅行でもしているかのようだった。


 「十和子に無理させちゃったかな? でも良かった、君と一緒に旅が出来るなんて最高の気分だよ」

 「会社の方は有給扱いにしてもらったから大丈夫よ。久しぶりのロンドン、楽しみだなあ。

 それに今度は力也と一緒だしね? ワクワクしちゃう」

 「仕事はロンドン支店での会議と商談が三件だけだから二日で済む。ロンドンを満喫しようじゃないか? そうだ、ついでにパリにも足を伸ばそうか?」

 「今回は一週間の行程だからロンドンだけで十分。それに私、パリはあまり好きじゃないの」

 「めずらしいな? 女はみんなパリに憧れるものだと思っていたけど、どうして十和子はパリが嫌いなんだい?」

 「私、お買物にあまり興味がないから。それにパリは路地裏に入ると汚いし、カフェのトイレも旧式の物が多いでしょう? フランス至上主義の国だからアジア人をバカにするし。だからパリは嫌い」

 「確かに君の言う通りだね? パリには裏の顔がある。

 それに殆どの日本人団体観光客はあのコンコルド広場にギロチンが置かれ、フランス革命で多くの人間が処刑された場所であることも知らずに笑って記念写真を撮っている。馬鹿げた話だ」

 

 私はチーズとアーモンドを食べながらワインを楽しんでいた。


 「ヒースローまであと3時間はあるから少し眠るといい。僕は仕事をするから」

 「お仕事お疲れ様。それじゃあお言葉に甘えて少し寝るわね?」

 「ブランケット、貰おうか?」

 「ありがとう」


 力也がCAに膝掛けを頼んでくれた。

 力也はそんなさりげない気遣いが出来る男だった。




 早朝のヒースロー空港は春先とは言え、かなり冷えていた。

 私たちはホテルのチェックインが出来る時間までの間、荷物をフロントに預け、ロンドンの街を散策することにした。


 「ソーホーで朝食にしようか?」

 「朝食じゃなくて、朝酒がいいなあ」

 「パブはまだやっていないから、馴染のイタリアン・レストランがあるからそこに行こうか? 酒もあるし」

 「それならそこでいい」

 



 その店は力也が常連らしく、スタッフたちが笑顔で私たちを出迎えてくれた。


 「おはよう力也、この美しい女性は君のワイフかい?」

 「フィアンセなんだ。十和子、紹介するよ、ジョージとシンディーだ」

 「初めまして十和子。ようこそ我がロンドンへ」

 「力也はナイスガイよ。当たりを引いたわね? 十和子」


 そう言ってふたりは親しみを込めて笑った。


 「十和子です、よろしくね? シンディー、ジョージ」

 「ロンドンにはいつまでいられるの?」

 「一週間よ」

 「ロンドンはいい街だぜ、このまま力也とここに住んじまえよ」

 「ホント、もう日本に帰るのがイヤになっちゃうくらい、ロンドンは素敵な街よね?」


 それは本音だった。

 このままロンドンで力也と一緒に暮らせるなら、どんなにしあわせだろう。

 夫が待つあの家にはもう戻りたくはなかった。



 スコッチウイスキーを飲みながら、お決まりのフィッシュ&チップスを食べた。


 「時差ボケは大丈夫かい?」

 「私、時差ボケってなったことがないの」

 「それは特技だね?」

 「だから早くホテルのベッドであなたと「プロレスごっこ」がしたい」

 「それは僕も同じだよ」


 力也の前では素直になれる自分がいた。

 今まで私はいつも鎧を身に纏って生きて来た。

 人に弱みを見せたこともない。だが力也の前だと素直になれる自分がいた。

 「泣かない女」のこの私がだ。


 ここが日本から遠く離れたロンドンだとは思えないくらい、私たちには自然な時間が流れていた。

 

 


第12話

 ベッドの白いシーツが素肌に心地良い。


 「今日は疲れただろう? 俺、マッサージと指圧、得意なんだ」


 力也は私を俯せに寝かせると、首のあたりを揉みほぐし始めた。

 続いて肩、腕、そして背骨に沿って親指で指圧をしてくれた。

 男性にこんなことをしてもらったのは力也が初めてだった。

 臀部を手のひらでマッサージをして太腿、ふくらはぎを手刀で小刻みに叩いて行く。

 

 「今度は仰向けになってごらん」


 仰向けになると両手で私の手の親指と小指を挟み、手のひらのツボを押してくれた。


 「これ、気持ちいいだろう? 手のひらには色んな神経が集中しているからね?」


 何箇所か痛むところがあった。


 「痛っ」

 「ここは子宮のツボなんだよ」

 「力也はなんでも知っているのね?」

 

 両手が終わると今度は足元に移動し、足のツボを親指で押してくれた。


 (いい気持ち・・・)


 「痛いところはないかい?」

 「大丈夫。あっ、そこちょっと痛いかも」

 「ここは肝臓だな? やはり肝臓も弱っているかもしれない」

 「少しお酒は控えた方がいいかしら?」

 「健康診断でのガンマGTの値はどうなんだ?」

 「いつもは問題ないけど」

 「そうか? それなら一過性のものかもしれないね? でも帰国したら検査した方がいい。僕も付き添うよ」


 うれしかった。自分をこんなに心配してくれる男がいることに。

 私は力也に愛されていた。


 「最後に頭部のマッサージをして終了だ」


 力也は私をベッドに座らせると、丁寧に頭をマッサージをしてくれて、最後は肩、首筋をトントンしてくれた。


 「はい、おしまい」

 「あー、スッキリした。それじゃあ今度は私がしてあげる。十和子の特別性感マッサージ」


 私は力也をベッドに寝かせ、濃密なキスをして彼の乳首を舌で舐めながらペニスをしごいてあげた。


 「力也はタフね? もうこんなになってる」

 「そりゃあ十和子のヌードは刺激的だからね? それにそのテクも。うっ」


 男が快感に顔を歪めるのを見るのは好きだ。

 すると今度は力也の手が私の胸を揉みしだき始めた。


 「んっ あ あ ううーん あう あう」


 執拗に力也の攻撃が高まって来る。私のカラダがことごとくそれに反応し、翻弄ほんろうされた。 

 一本一本、足の指まで丁寧にしゃぶられた。頭の中が真っ白になり、私は何度も声をあげた。


 「力也、力也。愛しているわ、とても好きよ」

 「僕もだよ十和子。まるでミロのヴィーナスを抱いているようだ」 

 「あん 力也、そこはまだダメ」


 力也はいつも私を褒めてくれる。女はそれがうれしい。

 お世辞ではなく、本気でいつも私を褒めてくれる力也。

 女も男も褒められて伸びるものだ。


 「力也は褒め上手ね?」

 「そうかい? 僕はただ思ったことを口にしているだけだけどね?」


 力也は私の敏感な部分をチロチロと舌を使って舐め始め、そこが十分過ぎるほど濡れていることを確認すると、私の両膝を抱え、ゆっくりとインサートを開始した。

 長いストローク。私は快感に溺れまいと、必死に力也の腕を掴んだ。


 「もっと早い方がいいかい?」

 

 私はそれに答える代わりに、力也の腕を掴んでいる手にチカラを込めた。

 力也の動きが次第に早くなり、私たちはほぼ同時に果てた。

 そしていつの間にか私たちは深い眠りに落ちて行った。



 

 目が覚めると力也が出掛ける支度をしていた。


 「今何時?」

 「7時33分だよ、これからロンドン支店に出社して来る。夜は会社の連中との飲み会だから少し遅くなると思う」

 「気をつけてね?」

 「ああ、十和子もね? それじゃあ行ってくるよ」

 「忘れ物よ」


 私は力也を手招きして熱いキスを交わした。


 「おりこうさんにしているんだぞ」

 「力也もね? 支店の女の子にお持ち帰りされないようにね?」

 「あはははは 男ばっかりの飲み会だけどね? 行って来るよ」

 「行ってらっしゃい」


 部屋を出る時、彼がドアノブに「Don't Disturb」の札を掛けて出て行ってくれた。

 私は少し惰眠を貪ることにした。



 

 シャワーを浴びて少し遅めのランチに出掛けた。

 テラス席のある白いカフェで、BLTサンドとレモンソーダの朝食。

 食器やグラスの触れ合う音。聞こえて来る英語での会話。

 私は人妻であることも忘れ、ロンドンでのひとりの時間を満喫していた。


 養子を貰えと言われたあの時の、夫の言葉が蘇る。


 「離婚は絶対にしない」


 それは私を愛しているからだという。だが私には彼に対する愛情は微塵みじんも残ってはいなかった。

 結婚は修行であり、離婚は修行の終わりだと言う。

 私の修行はまだ終わりではないということなのだろうか?


 私は気泡が抜けていく、レモンソーダのグラスをじっと見詰めていた。

 

 



 


第13話

 有栖川はロンドンの現地妻、シーナとレストランで食事をしていた。

 シーナは現地採用のロンドン支店の社員で、今年で32歳になるブロンド美人だった。


 リブロースステーキとワインを楽しみながらシーナは言った。


 「すごく会いたかったわ、Rikiya。今夜は泊まっていけるんでしょう?」

 「シーナ、結婚することになったんだ。君とよく来たこの店で、食事をするのは今夜が最後だ。別れて欲しい」


 有栖川はまっすぐにシーナを見詰めてそう言った。


 「くだらないジョークならエイプリルフールで言って頂戴」


 シーナは有栖川から目を逸らし、リブロースにナイフとフォークを入れた。


 「本当なんだ」

 「相手は日本人なの?」

 「そうだ」

 「私を捨ててその女を選んだのね?」

 「すまないシーナ、君は美しく聡明な女だ。どんな男も君を放ってはおかない」

 「どんな男もですって? それならあなたも私を放って置かないでよ」


 シーナは切り取った肉を無表情のまま口にした。


 「ごめん、もう決めたことなんだ。今まで俺を愛してくれてありがとう」

 「私は何も決めてはいないわよ! それが日本のサムライのすることなの!」

 「俺はサムライじゃない、ただのロクデナシの商社マンだ。わかってくれ、シーナ」

 「商社マンなら何をしても許されると思っているの? 私がどれだけRikiyaがロンドンに来ることを待ち望んでいたか? あなたにはわからないのね! 私があなたをこんなに愛しているのも知らずに!」


 シーナは悲しみと怒りに耐えきれず、遂に泣き出してしまった。


 「シーナ、君はまだ若い。これからは君の人生を歩いて欲しい。Good Luck」


 有栖川はテーブルに手切れ金の入った封筒を置いて席を立った。


 「Rikiyaの嘘つき! 愛していると毎日言ってくれたのは嘘だったのね!」


 シーナは有栖川の頬を強く打った。有栖川はその痛みに少しホッとした。

 この痛みを決して忘れないようにしようと誓った。

 有栖川は何も言わず、シーナの元を去って行った。

 シーナはその後姿を黙って見送った。


 「Farewell , Rikiya」




 有栖川はそのまま十和子の待っているホテルに帰る気にはなれず、スコッチ・パブでひとり反省をすることにした。

 

 「ごめんシーナ。俺は掛け替えのない女に出会ってしまったんだ。

 運命の女に」


 有栖川はBallantineの19年をオーダーした。

 それをストレートで呷る有栖川。

 バランタインはスコッチ・ウイスキーである。「マジカル・セブン・ピラー」と呼ばれる「魔法の7つの柱」と言われる7つのシングル・モルトをベースに、40種類の原酒を絶妙なバランスで調合したウイスキーだ。

 有栖川はこの酒が好きだった。

 喉を焼く心地良い刺激と、鼻から抜ける芳醇で複雑なモルトの香り。


 有栖川は十和子と出会うまではシーナと結婚するつもりだった。

 彼女はケンブリッジを卒業した才媛であり、仕事もよく出来た。ベッドでは白人らしい奔放な女でもあった。

 だがそんなシーナを忘れさせてしまうほど、十和子は魅力的な女だった。

 もちろんシーナもいい女だったが、十和子が時折見せる、悲しげな横顔が有栖川を彼女のとりこにした。


 (十和子をいつも笑顔にしてやりたい)


 有栖川は彼女に運命を感じた。

 



 深夜遅く、有栖川はホテルに帰った。

 十和子は有栖川の帰りを寝ないで待っていた。


 「お帰りなさい力也。どうだった? 支店の飲み会は?」

 「おかげさまでかなり盛り上がったよ。今夜はだいぶ飲んだ」

 「その割にはなんだか寂しそうね? 何かあったの?」

 「ちょっと疲れただけだよ。俺ももう歳かな?」

 「それじゃあ今夜のベッドでのプロレスはおあずけね? 残念だわ」

 「ごめん、シャワーを浴びて来る」

 「酔っているから気をつけてね? 介添えしてあげましょうか?」

 「そこまで酔っていないから大丈夫だよ」


 そう言って力也はバスルームへと消えた。

 私は感じていた。


 (女と会っていた?)


 それは女の勘だった。明らかにいつもの力也とは違っていた。




 力也がバスローブを着てパウダールームから出て来た。


 「本当は女と会ってたんでしょう?」


 驚く力也。そして観念したかのように力也が口を開いた。


 「君に嘘は吐けないな? 前の女と別れて来たんだ、君と付き合うために。

 でも安心してくれ、彼女とはただ食事をして別れただけだ」

 

 力也の思い遣りと誠実さを感じた。

 「英雄色を好む」とは言うが、力也ほどの男が駐在していたロンドンで女がいないはずはない。

 なんとなくそれは予感していた。


 「信じているわ、あなたのことは」

 「君には正直に打ち明けるつもりだった。君にだけは嘘は吐きたくないから。

 彼女とは2年付き合った。ウチの現地採用のイギリス人だ。僕は二股が出来るほど器用な男ではないからね?

 だから彼女とは別れた。社員と飲み会だなんて嘘を吐いてごめん」


 (嘘は吐きたくない・・・)


 彼らしいと思った。だがその言葉が私の心に大きな波紋を広げた。

 私は意を決して彼に告白した。


 「実は私、結婚しているの」


 だが意外にも力也は冷静だった。


 「君がいつそれを言ってくれるか待っていたよ。

 それでも僕は十和子が好きだ、君を愛している。

 僕は君の旦那さんから君を奪うつもりだ。そのためなら何を失っても構わない」

 「力也・・・」


 うれしかった。今まで私の中に重くのしかかっていた岩が、ようやく取り除かれた気分だった。

 私は力也に強く抱きついた。


 「ごめんなさい、今まで言い出せなくて・・・」

 「わかっているよ、わかっている、君の気持ちは。

 もう何も言わなくていい、もう何も」


 力也も私を強く抱き締めてくれた。

 

 その日の夜は、今までに経験したことのないエクスタシーに私は溺れた。




第14話

 翌朝、私たちはウエストミンスター寺院に出掛けた。


 「こんな素敵な教会で結婚式を挙げてみたいわ」

 「ディアナとチャールズはここではなく、セント・ポール大聖堂での挙式だったけどね?」

 「でもそっちはいいわ。だってあの人たちの末路は悲惨だから」

 「そうだな? それにチャールズは国王の器ではないしね?」

 「それに私、あのカミラが大っ嫌い。チャールズのことを色仕掛けでたらし込んで、あのダイアナを英国王室から意図的に葬った女だから」

 「男はそんな野心のある女に惹かれるものさ」

 「私にだって野心はあるわよ」

 「どんな野心だい?」

 「今の夫と別れてあなたの奥さんになる野心」

 「それは大歓迎な野心だね?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。



 ウエストミンスターを散策して、ウエストミンスター駅から地下鉄に乗ってピカデリー・サーカスへと向かった。  

 私たちは手を繋いだまま、エロス像を見上げていた。


 正式名称はシャフツ・ベリー記念噴水と言うらしいが、今は噴水はない。みんなこのモニュメントのことを単に「エロス」と呼ぶ。

 シャフツ・ベリー伯爵の慈善事業に対する称賛記念の像だった。


 「このエロス像はね? アルフレッド・ギルバートが作った物なんだが、本当はエロスの弟、「アンテロス」を作ったと言われている。

 弓は持ってはいるが矢がない。おそらくそれは僕の胸に突き刺さっているからなのかもしれないよ。あはははは」

 「あなたが私を愛してくれているのはその矢のお陰なのね?」


 私たちはそっと口づけを交わした。


 


 リージェント・ストリートで食事をして、スコッチとおつまみを買ってピカデリー・サーカス駅からホテルへ帰った。



 フロントに寄り、挨拶を交わしてエレベーターに乗ろうとした時、日本語で声を掛けられた。

 それは聞き覚えのある声だった。夫の和也がそこに立っていた。


 「今お帰りかい? 不倫カップルさん? 腕なんか組んでいい気なもんだ。

 これから部屋に戻ってお楽しみという訳だ」


 私たちはすこぶる冷静だった。なぜなら今の私たちには怖いものなど何もなかったからだ。

 たとえ今、宇宙人が攻めて来ても驚きはしないだろう。

 愛はすべてを超越する。


 「わざわざロンドンまで何しに来たの? ご苦労様ね? 会社はどうしたの?」

 「有給休暇とリフレッシュ休暇を併用させてもらったよ。ロンドンはお前とのハネムーン以来だな? 驚いたよ、この街はあまり変わっていなくて」

 

 力也が夫に挨拶をしようとした。


 「初めまして、有栖川と申し・・・」


 挨拶の途中で夫はいきなり力也を殴りつけた。

 夫は彼に馬乗りになり、何度も彼の頬を殴った。


 「ヤメて!」


 すぐに夫はホテルの警備員たちに取り押さえられた。

 力也は夫に殴られたまま抵抗はしなかった。


 「離せ! コイツは俺の女房を寝取ったんだ! 気が済むまで殴らせろ!」


 夫は流暢なクイーンズ・イングリッシュでそう叫んだ。


 「決闘ならこのホテルではなく、テムズ川の畔でおやり下さい。ここでは他のお客様のご迷惑になります」


 力也はゆっくりと立ち上がり、夫に言った。


 「どうです? お近づきの印に一杯奢らせて頂けませんか? 少しお話もありますので」



 私たちはホテルのバー・ラウンジへと移動した。

 



第15話

 力也はニコラシカを注文した。そのカクテルには「決心・覚悟」と言った意味がある。

 そして夫は「嫉妬」という意味のカクテル、ギブソンをオーダーした。

 私は「棘のある美しさ」、マティーニを選んだ。


 

 「俺にぶん殴られて、口の中が切れたから酒が沁みるだろう?」

 「傷の消毒には丁度いいですよ」


 力也は酒を一気に呷ると夫に土下座をした。


 「十和子さんを私に下さい。お願いします!」

 「アンタも面白い男だな? それが女房の旦那に言う言葉か? それは女の親に言うセリフだぜ? 「お嬢さんを私に下さい」とな?」


 夫はそれを嘲笑うかのようにギブソンを口にした。


 「愛しているんです! 十和子さんのことを!」


 私も力也と同じように並んで土下座をした。


 「お願いあなた、私と離婚して下さい」

 「それじゃあ舐めろよ、俺の靴を」

 

 私が夫の靴を舐めようとした時、力也が私を制し、躊躇うことなく夫の革靴を舐め始めた。

 そしてもう片方の靴を私も一緒になって舐めた。

 夫は何も言わず、ただ黙ってそれを見ていた。

 夫は私と力也の髪の毛を鷲掴みにすると、


 「もういい、お前たちはどうかしている。

 前にも言ったように俺は離婚はしない。お前たちは今まで通り、好きなように付き合って、好きなようにセックスをすればいい」

 「だったら離婚して下さい」

 「十和子さんと結婚させて下さい! お願いします!」

 「だからそれは駄目だと言っているだろう」

 「あなたの言っていることがわっからないわ、私は彼と一緒に暮らしたいの!」

 「それはさせないと言っているだろう! 俺はお前を愛しているんだ! だからロンドンまで来た!

 お前とその男にそれを伝えるためにだ!」

 「意味がわからないわ! 今まで私のことをただの家政婦のように扱って来たくせに!

 仕方がないわ、日本に帰国したら裁判で決着をつけましょう。

 私は彼と結婚します!」

 「それは許さない! 俺は絶対に離婚はしないからな!」


 夫は席を立った。


 「ここはアンタの奢りだったよな?」


 夫はホテルのBARラウンジを出て行った。




第16話

 「ごめんなさいね? 酷い目に遭わせてしまって」

 「あの時、チャップリンの映画、『黄金狂時代』の靴を食べるシーンを思い出していたよ。

 靴ってあんな味がするんだね? あはははは

 でもこうなる予感がしていたんだ。十和子が気にすることはないよ。想定内の出来事だから。

 君のためなら僕は何でも出来る。

 旦那さんは本当に君を愛しているようだね? 驚いたよ、あの執念。ロンドンまで追いかけて来るわけだから」」

 「私は愛されてなんかいないわ。ただのホームヘルパーよ」

 「「離婚はしない」か? 分かる気もする。

 僕が君の夫なら同じことを言う筈だから」

 「力也は違うわ、力也は私を大切にしてくれているもの」

 「それはもちろんだよ。十和子のような素敵な女性はいないからね?」

 「私も力也が大好きよ。夫婦って結局「縁」なんだと思う。

 私と夫は縁がなかった。ただそれだけのことよ」

 「縁かあ。そうかもしれないね? 僕たちには縁がある、赤い絆が」

 「そうよ、私たちは運命、いえ、宿命で結ばれていたのよ」


 力也は私の手にそっと自分の手を重ねた。

 結局、本当のしあわせとは誰と一緒に人生を過ごすかなのだ。

 私たちのしあわせは既に眼の前にあった。

 

 「明日、またウエストミンスターに行ってみないか?」

 「ウエストミンスターに?」

 「ああ、十和子とまた訪れてみたくなったんだ、あの教会を」

 「素敵。好きよ、あの教会」


 私たちは部屋に戻り、さっきまでの出来事が刺激となり、朝方まで熱い夜を過ごした。




 朝のウエストミンスターは絹のベールのような、厳かな朝日に包まれていた。

 私たちは腕を組んで教会の中へと入って行った。

 建物に染み付いた人々の息遣いが聴こえて来るようだった。


 アイザック・ニュートン、シェイクスピア、チャールズ・ダーウィン・・・。そして歴代の王や政治家たちが大理石の床の下に埋葬され、その彼らの名盤の上を私たちは歩いて行った。

 

 「教科書に載っていた偉人たちがこの下に眠っているのね?」

 「シェイクスピアとかニュートンは他に墓があるようだけどね? そしてここにはもう埋葬出来るスペースはないらしい」

 「こんな狭いところに立てて葬っているのかしら?」

 「おそらくそうだろうね? ずっと立って人に踏まれる偉人も大変だな?」

 「そうね?」

 「ウエストミンスターには以前、『スクーンの石』という大きな石があってね? それが王の戴冠式の時に使う玉座の下に置かれていたんだ。今はスコットランドに戻され、戴冠式の時にだけ借り受けているそうだ。

 チャールズの戴冠式にはその玉座の下にあったようだ。

 『運命の石』とも呼ばれている不思議なチカラを持つ石らしい。

 戴冠式にはアイルランド王だったエドワード王の木製の椅子が使用されるんだ。

 スクーンの石を下に敷いてイギリス国王であることを宣言することは、スコットランドを尻に敷いていることになるからテロにもあったんだ」

 「ヨーロッパにありそうなお話ね?」


 私たちが教会の中央に来た時、


 「十和子、日本に帰ったら結婚しよう」


 力也がコートのポケットから指輪の入った小箱を開けて私に跪いた。


 「僕と結婚して下さい」


 私は左手薬指から結婚指輪を外し、左手を力也に差し出した。

 力也は指輪を薬指にはめてくれて、私たちは口づけを交わした。


 「必ず君をしあわせにしてみせる」

 「私もあなたをしあわせにするわ」


 思いがけない彼のプロポーズに、私は泣いた。


 

 


第17話

 「あん いい、すごくいい。和也がいなくてずっと寂しかったんだから」

 

 和也は繭花のクリトリスを触りながら耳元で囁いた。


 「俺がいない時、どうしていたんだ?」

 「内緒」


 和也は繭花を四つん這いにさせると、尻を鷲掴みにしていきなり挿入を始めた。


 「はうっ」


 繭花はより深くペニスを咥え込もうと尻を突き出した。


 「奥まで突いて」

 

 和也は根元までインサートし、激しく腰を打ち付けた。


 「あ あっ・・・」


 繭花は歓喜し、シーツを掴んだ。

 その時和也は想像していた。十和子が力也に抱かれて喘いでいる様を。

 和也はより凶暴になり、繭花の髪を後ろから掴んで強く引っ張った。


 「どうだ? いいのか? もっと欲しいか?」

 「ほ、欲しい・・・、もっと下さい!」


 繭花は痴女のように和也を求めた。


 「お願い課長、中に下さい! 私の中に! 課長の赤ちゃんが欲しい!」


 和也はコンドームを外してそのまま行為を続け、繭花の中に射精した。


 (この女に俺の子供を産ませよう)


 それは繭花にではなく、十和子の中へ放出した気分だった。


 ほどなくして繭花は妊娠した。



 「出来ちゃったみたい、赤ちゃん」

 「そうか」

 「産んでもいいよね?」

 「勝手にしろ」

 「産むわよ私」

 「認知はするが結婚はしない」

 「わかってるわよ、そんなこと」


 繭花は自分のお腹を愛おしそうに撫でた。

 そんな繭花を見て和也は目を細めた。




 「有栖川部長、3番にお電話です」

 「誰からだ?」

 「繋げば分かると言われました」


 十和子の旦那だとすぐに分かった。


 「有栖川です」

 「俺だ、十和子の旦那だ」

 「ご要件は?」

 「今日は俺が奢ってやるから新橋まで出て来い。十和子のことで話がある」

 「わかりました」


 私はそれを承諾した。




 そこは小さな小料理屋だった。

 今野は私に酌をした。


 「十和子はいい女だろう?」

 「彼女と離婚してやって下さい、お願いします」

 「アイツは俺の宝石なんだよ。宝石は自分の手元に置いて見ているだけでいい。だから手放すつもりはない」

 「宝石ですか?」

 「そうだ、十和子は俺にとってダイヤでありサファイアなんだ。アイツは美しく輝く宝石なんだよ」


 今野はそう言うと酒を呷った。


 「だったら私にその宝石を譲って下さい」

 「お前は何のために働く? 何のために戦う? それは世界一の女を手に入れるためだよな?

 十和子は俺の宝だ。俺は宝を手に入れたんだ。

 十和子の所有者はこの俺だ」

 「あなたはどうかしている。愛されてもいない女を檻に閉じ込めてどうするんだ!」

 「眺めていたい。ただそれだけだ。

 女にガキが出来た。俺はその女と子供と同居するつもりだ。

 だから十和子に伝えろ、もう家に戻って来なくてもいいとな」

 「子供が出来たんですか?」

 「ああ、そうらしい。認知はするが結婚はしない。というよりも出来ない。

 俺は離婚していないのだからな? 残念だが日本では重婚は認められていない。

 つまりこういうことだ。お前たちは今まで通り一緒に暮らせばいい。

 俺も女とガキと暮らす。それでどうだ?」

 「それじゃあ意味がないじゃないですか! 十和子さんと離婚して下さい、お願いします!」

 「なぜ結婚に拘る?」

 「拘っているのはあなたの方だ!」

 「結婚とは契約であり所有だ。

 だが恋愛は自由意志だ。それだけの話しだ」


 私は席を立って今野を殴りつけた。


 「アンタは最低の男だ!」

 「褒めてくれてありがとう。女房を寝取ったお前は悪くない。妻を寝取られる俺が間抜けなだけだ。

 これで愛顧だな?」

 「失礼する」


 私は釈然としないまま店を出た。

 外は雨が降っていた。

 私は雨の中を最寄りの駅を探して歩いた。

 

 

 


第18話

 有栖川は十和子に今野と会ったことを告げた。


 「今日、君の元旦那に呼び出されて話しをして来たんだ」

 「そう」

 「付き合っている女性に子供が出来たと言っていた。とてもうれしそうだったよ。

 それなら十和子と離婚してくれと言ったんだが断られた。

 もう家には戻って来なくていいそうだ。その女と子供と一緒に暮らすらしい。子供は認知するそうだが結婚はしないと言っていた。

 結婚とは所有権の公認だと言われた。十和子は宝石なんだそうだ、ただ眺めているだけの宝石でいいと。

 だから絶対に手放したくないと言っていた。

 そして俺達が愛し合うことは自由だとも言われたよ」

 「その宝石に愛されてもいないのにね? 頭がおかしいんじゃないかしら? あの人」

 「僕はそんな君の元夫を殴りつけてやった。 

 彼はこうも言っていた。「お前は何のために働く? 何のために戦う? それは世界一の女を手に入れるためだよな? 十和子は俺の宝だ。俺は宝を手に入れたんだ。十和子の所有者はこの俺だ」とね?

 それには僕も共感出来る。俺は世界一の女、十和子を手に入れたのだから」

 「あなたの世界一になれるように努力するわ」

 「そこでどうだろう? 今野さんが離婚に応じないのならこのままで。僕は十和子と一緒に暮らせればそれでもいいと思うんだ。もちろん、俺の財産は遺言として君に残す手続きはする」

 「それは事実婚ということ?」

 「それが嫌ならやはり裁判ということになるね?」 


 どうしても夫が離婚に同意しないというのであれば、私はそれでもいいと思った。

 夫の元にもう帰る義務はない。力也と今まで通りに暮らすことが出来るなら、私も結婚には拘らない。


 (私が宝石? だったらどうしてもっと私のことを大事に磨いてくれなかったのよ)


 「今の生活と変わらないのなら私もそれでもいいわよ。別に有栖川の苗字には拘らないし。

 苗字なんてどうでもいい、私は十和子に変わりはないんだから」

 「十和子」

 「力也」


 私たちは抱き合い、熱い口づけを交わした。

 

 


第19話

 女の子が産まれ、今野は変わった。

 授乳にオムツ交換、沐浴など、今野は積極的に育児に関わった。


 繭花はそんな今野を見て、今野に相応しい女になろうと努力した。

 苦手だった料理や洗濯、掃除をこなし、服装も髪型も今野の好みであるエレガントに変えた。


 今野はそんな繭花と娘の花音かのんがとても愛おしく思えて来た。

 それは今野にとって新たな宝石となった。

 今野は決心した。十和子という宝石を手放すことにしたのである。


 「繭花、俺達家族になろう。俺の女房になってくれ」


 繭花は泣きながら何度も頷いた。




 今野が有栖川の会社にやって来たのはその翌日のことだった。

 近くの喫茶店でふたりの男は話をした。


 「お前に宝石を譲ることにしたよ」


 今野は内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。


 「離婚届だ。俺のサインはしてあるからこれを十和子に渡してやってくれ」

 「慰謝料はいくら支払えばいい?」

 「慰謝料なんていらない。アンタに女房を寝取られた俺が間抜けだっただけだからな?

 大切にしてやってくれ、俺の宝石、十和子を」


 青天の霹靂のような話に有須川は戸惑っていた。


 「結婚するのか? その女性と?」

 「ああ、やっと俺も自分を取り戻すことが出来た。

 俺と十和子は縁がなかったんだと思う。十和子はお前に渡すよ」

 「しあわせになれよ」

 「お前もな? ここはお前の奢りだ。慰謝料として」


 そう言って今野は冷めた珈琲を残して去って行った。




 帰宅した力也は十和子に封筒を渡した。


 「何? この封筒?」

 「今日、今野さんと会った。それは離婚届だそうだ」


 離婚届には夫のサインと捺印がしてあった。

 私は一抹の寂しさを感じた。

 あんなに離婚したかったのに、現実として眼の前に突きつけられ得た離婚届に、結婚の軽さを感じたからだ。

 紙切れ一枚で夫婦になり、紙切れ一枚で夫婦に終わりを告げる。

 結婚とは何てあっけないことなのだろうと感じた。

 

 「どうした? うれしくないのか?」

 「うれしいというより、紙切れ一枚のことなのかと思うとね?」

 「俺にも経験があるから分かるよ。所詮夫婦というのは紙切れ一枚の契約なんだよ」

 「でもこれでスッキリしたわ。これで私、有栖川十和子になるのね?」

 「明日、区役所に行って届けを出して来よう。そしてその後、ロブションでふたりだけのウエディングパーティを開こうじゃないか?」

 「うん、ありがとう、

 「十和子、愛しているよ」


 翌日、私達は品川区役所に婚姻届を提出した。






最終話

 社長の三上が秘書に対するセクハラで失脚し、社長派だった有栖川たちは対立していた専務の石田に粛清人事を受けた。


 「有栖川部長、ベトナムの低迷が続いているのはわかっているな? 社長としてベトナムを立て直して来て欲しい。栄転だよ君。期待しているよ」

 「・・・分かりました。ご期待に添えるよう礼威いたします」


 石田専務は薄ら笑いを浮かべていた。たとえそれが降格人事だとしても、転勤はサラリーマンの宿命だった。

 後は単身で行くべきかどうかだ。欧米なら十和子も一緒に連れて行きたいが、近代化されたとはいえ、ホーチミンは旧サイゴンである、それゆえ抵抗があった。




 有栖川は十和子に転勤の話をした。


 「ベトナムに行くことになった」

 「フランスの面影があるところよね? 焼きたてのバゲットが美味しそう。なんだっけ? バインミー? 食べてみたいなあ」

 「単身で行こうと思っている」

 「そんなの駄目に決まっているじゃない。単身赴任なんて許さないわよ。あなたと私は一心同体なんだから」

 「会社はどうするんだ?」

 「現地で探すわ、ベトナム語は出来ないけど、大学での第二外国語はフランス語だったからやり直してみる」

 「十和子・・・」


 


 有栖川夫婦はベトナムで生活することになった。


 「信号もほとんどなくてバイクが多く、交通渋滞もあるが、意外といいところだね? 当初、ベトナムというとどうしてもクメール・ルージュのポルポトの印象が強かったから心配したが、同じようにフランスの植民地だったモロッコのカサブランカに似ているかもしれない。まさに「東洋のパリ」だな?」

 「食事も美味しいし、日本の食材も豊富で日本食のお店もたくさんあるしね? まさかベトナムで『吉野家』が食べられるとは思わなかったわ」

 「ここも住めば都かもしれないな?」

 「私はあなたがいればどこでも都よ」

 「それは俺も同じだよ。ベトナムには雨季と乾季があり雨が多いのが難点だけどね?」

 「日本の梅雨が続くわけね?」



 私はベトナムから2年で本社に戻り、常務に昇格した。




 20年が過ぎた。

 私は東京の系列会社の社長になり、充実した日々を過ごしていた。

 

 

 十和子と東京駅の大丸のデパ地下を回っていると、あの鯖寿司を見つけた。


 「鯖寿司、買って帰ろうか?」

 「私たちの縁結びだもんね? この鯖寿司は」


 私は鯖寿司を手にした。


 「これ下さい」

 「ありがとうございます」


 十和子は車椅子生活になっていた。私は車椅子を押しながら至福の中にいた。


 「ありがとうあなた」

 「ありがとう十和子」


 夫婦とはこういうことなのだと思う。人生はいいことばかりではないが、悪いことばかりでもない。足りないところはお互いに補い合っていけばよいのだ。それが夫婦なのだ。

 人生は長い旅であり、決められた宿命という名の列車の旅なのだ。

 様々な駅に立ち寄り、色んな人が乗り、そして去っていく。

 人が悦びや苦しみを運んで来る。「死」という終着駅に向かい、それを繰り返して列車は進んでゆくのだ。


 吟醸酒を飲みながら、私達は鯖寿司を食べた。


 「やっぱり美味しいわね? 鯖寿司」

 「十和子と食べるとなお旨いよ」


 その鯖寿司には人生の味がした。


                   『愛の時』完





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【完結】愛の時(作品241001) 菊池昭仁 @landfall0810

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