第29.3話:末路☑

翠影の谷の静かな衰退は、短調の交響曲のように、緩やかに、しかし確実に進行していった。かつては活気に満ちていた碧玉の広場も、今では人影が疎らになり、サイレンティアの柔らかな光に照らされた石畳には、落ち葉が寂しく舞っていた。


エイドリアン・モスは、「エメラルド・ブリーズ」の窓辺に立ち、物思いに沈んでいた。彼の喫茶店も、かつての賑わいを失っていた。常連客だったリリアン・フェルンも、最近では姿を見せなくなっていた。植物研究所の予算が削減され、彼女は別のサテライトへ転職を余儀なくされたのだ。


エイドリアンは、深いため息をつきながら、店内を見渡した。テーブルの上には、「翠の息吹」を淹れるのに使っていたサイレンティアの粉末の瓶が、半分以上残ったまま置かれている。かつては人気を博したこのブレンドも、今では注文する客はほとんどいなかった。


窓の外では、時計塔の針がさび付いたかのように同じ位置で振動を続け、周りを歩く人々の表情は暗かった。エイドリアンは、アステールからの警告を思い出した。サイレンティアの使用を控えるよう、幾度となく通達が来ていたのだ。しかし、翠影の谷の指導者たちは、それを深刻に受け止めることはなかった。


我々の文化の根幹だ、と彼らは主張した。


「サイレンティアなしでは、翠影の谷の独自性が失われてしまう」


しかし、その判断の代償は重かった。エメラルドヘイヴンからの経済制裁は、最初は気づかないほど微細なものだった。魔鉱石の供給上限量がわずかに減少し、取引条件が少しずつ厳しくなっていった。サテライトのミリスリア濃度低下に比例して、サイレンティア関連の装置も若干動作がぎこちなくなった。それでも、翠影の谷の人々は楽観的だった。一時的なものだ、と彼らは言い聞かせた。


だが、制裁は徐々に強化されていった。エメラルドヘイヴンとの貿易が制限され、他のサテライトとの取引も困難になっていった。翠影の谷の特産品である希少植物の輸出が激減し、経済は急速に悪化していった。


中央市場も、かつての活気を失っていた。エイドリアンは、市場の様子を見に行くたびに胸が痛んだ。空き店舗が増え、残った店も品揃えが乏しくなっていた。特に、他のサテライトから輸入していた品々は、ほとんど姿を消していた。


最も深刻だったのは、若者たちの流出だった。仕事を求めて、多くの若者たちが翠影の谷を後にしていった。彼らの多くは、皮肉にもエメラルドヘイヴンへと向かっていった。サイレンティアの利用を控えるという条件付きで、彼らは受け入れられたのだ。


エイドリアンは、翠影学園の前を通りかかった。かつては生徒たちの笑い声で賑わっていたこの学校も、今では閑散としていた。サイレンティアを活用した先進的な教育プログラムは中止され、多くの教師たちも去っていった。


翠影の泉と呼ばれる、サテライトの中心にある噴水も、今では水が涸れていた。サイレンティアの力で水を循環させていたこの噴水は、翠影の谷の象徴的存在だった。その姿は、サテライト全体の衰退を体現しているかのようだった。


エイドリアンは、自分の店に戻りながら考えた。アステールの警告を無視したことの代償は、想像以上に大きかった。サイレンティアへの依存が、翠影の谷の繁栄と没落の両方の原因となったのだ。


店に戻ったエイドリアンは、カウンターの下に隠してあった「翠影の谷・鉱物誌」を取り出した。その最後のページには、彼自身が書き加えた一文があった。


「サイレンティアは我々に繁栄をもたらしたが、同時に我々の盲点ともなった。変化を恐れず、新たな道を模索する勇気が必要だった」


エイドリアンは、静かにその本を閉じた。翠影の谷の未来は不透明だったが、彼はまだ希望を捨てていなかった。サイレンティアに頼らない新たな道を見つけることができれば、きっと再び谷は繁栄するはずだ。そう信じて、彼は明日への一歩を踏み出す準備を始めた。

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