第49話:繁栄の裏側☑

エメラルドヘイヴンの空は、今日も変わらぬ青さで街を包み込んでいた。その澄み切った空の下、都市の中心に聳え立つ「翠玉の塔」と呼ばれる巨大な建造物が、朝日を浴びて眩い輝きを放っていた。翠玉の塔は、エメラルドヘイヴンの繁栄と技術力の象徴として、サテライト群の中でも特に目を引く存在だった。その高さは1000メートルを超え、外壁は特殊な翠玉鉱石で覆われており、太陽光を受けて様々な色彩に変化する様は圧巻の一言だった。


アルバート・クレインは、いつものように「翠の広場」と呼ばれる公共スペースのベンチに腰を下ろし、古典文学の書物を開いた。翠の広場は、翠玉の塔の麓に位置する円形の広大な空間で、中央には美しい噴水があり、周囲には様々な花々が咲き誇っていた。この広場は、エメラルドヘイヴンの市民たちにとって憩いの場であり、日々多くの人々が訪れては思い思いの時間を過ごしていた。


アルバートの周りでは、同じように余暇を楽しむ市民たちの姿が見られた。読書に耽る者、友人と語らう者、そして単に陽光を浴びながらぼんやりと過ごす者。かつての喧騒とは無縁の、穏やかな光景が広がっていた。この平和な風景は、まるで絵画のようで、エメラルドヘイヴンの理想郷としての姿を如実に表していた。


「まさに理想郷だ」


とアルバートは呟いた。彼の言葉には、この豊かな生活への感謝と、どこか言いようのない不安が混ざっていた。アルバートは50代半ばの歴史学者で、エメラルドヘイヴンの過去と現在を研究する中で、この都市の繁栄の裏側に潜む脆弱性を感じ取っていた。


エメラルドヘイヴンは、周囲のサテライトとは一線を画す独自の経済システムを構築していた。その中核を成すのが、アステールが巧妙に導入した「ミリスリア充填税」だった。ミリスリア充填税は、魔鉱石にミリスリアを充填する際に課される税金で、その税収は主にエメラルドヘイヴンの市民たちの生活を支えるベーシックインカム制度の財源となっていた。


この制度により、多くの市民は労働の必要性から解放され、自由な時間を享受できるようになった。しかし、この豊かさは他のサテライトの労働に支えられており、その構造的な不均衡にアルバートは常々疑問を感じていた。


アルバートは目を上げ、広場の向こうに広がる「エメラルドマーケット」を眺めた。エメラルドマーケットは、エメラルドヘイヴンの中心的な商業地区で、様々なサテライトから集められた商品が並ぶ巨大な市場だった。そこには、サテライトのミリスリア擬製生物が製造した高品質な製品が所狭しと並んでいた。食料、衣服、娯楽品、そして最新の便利グッズ。どれも手頃な価格で、ベーシックインカムのみで暮らす市民たちにも十分に手が届いた。


しかし、アルバートの胸には、かすかな罪悪感が芽生えていた。この豊かさの陰には、サテライトの擬製生物たちや、それらと過酷な労働力競争を繰り広げる人間労働者たちの絶え間ない労働があることを、彼は知っていたからだ。多くの市民たちが、自分たちの生活を支える存在に目を向けることなく、享楽的な日々を過ごしていることに、彼は違和感を覚えていた。


さらに、アルバートには別の不安があった。ベーシックインカム制度が開始されてから五年余り、この繁栄が、アステールの政策による脆い均衡の上に成り立っていることを、彼は薄々感じ取っていたのだ。魔鉱石が枯渇したり、税収が減少したりすれば、瞬く間にその均衡は崩れ去る危険性があった。


彼は書物を閉じ、深いため息をついた。エメラルドヘイヴンの未来は、常に不安を抱えていた。表面上は平和で豊かな都市の姿を保っていたが、その背後には脆弱な均衡が存在していた。一度崩れれば、取り返しのつかない事態に陥る可能性が常に潜んでいたのだ。


アルバートは立ち上がり、ゆっくりと家路につきながら考えた。彼の住まいは、翠玉の塔から程近い「エメラルドテラス」と呼ばれる高級住宅街にあった。エメラルドテラスは、美しい庭園と洗練された建築が調和した静かな住宅地で、多くのエメラルドヘイヴンの知識人や芸術家が住んでいた。


道中、アルバートは市民たちの様子を観察した。彼らは皆、幸せそうに見えた。しかし、その幸せは脆いものではないか。市民たちは、目の前の豊かさに酔いしれ、その現実から目を背けていた。彼らの目には、自分たちの生活を支える構造の脆さは見えていなかった。


翠玉の楽園は、華やかな表面の下に、深い影を宿していた。その影が光を飲み込む日が来るまで、市民たちは気づかないまま、豊かな生活を続けていくのだろう。


アルバートは、自宅のバルコニーに立ち、エメラルドヘイヴンの街並みを見下ろした。繁栄の象徴である翠玉の塔が、夕日に照らされて輝いている。その光景は美しくも、どこか儚さを感じさせた。


エメラルドヘイヴンの繁栄は、まるで綱渡りのような危うさを秘めている。アステールと一部の統治者たちは、この状況を憂慮しながらも、現状を維持することに全力を注いでいる。彼らは、市民たちの幸福と安定した生活を守るため、密かに様々な策を講じているのだ。


アルバートは、アステールの側近の一人から聞いた話を思い出していた。アステールは、魔鉱石の新たな供給源を探索するため、秘密裏に大規模な「探査隊」を組織していたという。探査隊は、エメラルドヘイヴンの周辺の未開の地域を調査し、新たな魔鉱石の鉱脈を発見することを使命としていた。しかし、その成果はまだ上がっていないようだった。


この楽園がいつまで続くのか、誰にも分からなかった。エメラルドヘイヴンの未来は、魔鉱石の供給と、サテライトの擬製生物たちの労働に依存していた。その繊細な均衡が崩れる日が来れば、翠玉の楽園は一夜にして崩壊するかもしれない。


アルバートは、もう一度深いため息をついた。それでも、今日もまたエメラルドヘイヴンの市民たちは、豊かな生活を楽しんでいた。彼らの笑顔の裏に潜む危うさに、気づく者はほとんどいなかったのである。


夜の帳が降り、エメラルドライトと呼ばれる街灯が翠玉の楽園を柔らかく照らし始めた。エメラルドライトは、ミリスリアの力を利用した特殊な照明で、その柔らかな光は街全体を幻想的な雰囲気で包み込んだ。アルバートは、この美しくも脆い都市の未来を想像しながら、静かに目を閉じた。明日もまた、エメラルドヘイヴンは平穏な一日を迎えるのだろう。しかし、その平穏がいつまで続くのか―――それは誰にも分からなかった。

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