第47話:静かなる葛藤☑

アステールは、エメラルドヘイヴンの最高階に位置する執務室の窓辺に立っていた。その姿は、まるで彫刻のように静謐で、夕陽に照らされて長い影を落としていた。アステールは深々と溜息をついた。その息は、まるで彼の胸の内に渦巻く複雑な感情を象徴するかのように、重く湿っていた。


彼の目は、机上に広げられた分析結果へと向けられた。その冷徹な数字の羅列は、彼の数か月にわたる努力への無言の批評のように思えた。 幾重にも重ねてきたミリスリア擬製生物の競争力弱体化施策にもかかわらず、擬製生物が依然として人間の労働者を凌駕する生産性を示していることを、アステールはその数字から読み取っていた。白熱灯の下で冷たく光るデータの文字列は、まるで彼の理想を嘲笑うかのようだった。


窓の外に目を向ければ彼の瞳に映るのは、幾何学的な精度で区画された街路、均一な高さと形状を保つ建物群、そして計算された間隔で点在する人工的な緑地だった。かつて彼が夢見た楽園の姿とは似ても似つかぬ光景が、目の前に広がっていた。


アステールの視線は、街の隅々まで行き渡るミリスリア擬製生物の動きを追った。これらの人工生命体は、まるで見えない糸で操られるかのように、完璧な同期性をもって活動していた。交通管制、環境維持、治安維持—―あらゆる機能が、これらの存在によって担われていた。その姿は、確かに効率的で秩序立っていたが、同時に冷たく無機質な印象を与えるものでもあった。


「秩序と効率」。その言葉が、アステールの脳裏に浮かんだ。彼は深い溜息をつき、額を窓ガラスに押し付けた。その冷たさが、彼の心の内にある空虚さと呼応するかのようだった。


記憶が、まるで古い映画のフィルムのように、アステールの意識の中で巻き戻され始めた。玄武との日々、生命の楽園での温かな調和。それは遠い過去のことのようでありながら、今も鮮明に彼の心に刻まれていた。


深い森の奥深く、緑が溢れ、生命のエネルギーが満ち溢れる楽園。そこには、巨大な亀の姿をした神獣、玄武が静かに横たわっていた。玄武は、この世界に四柱しか存在しないミリスリアの源泉の一つであり、アステールはその力を授かったのだ。


玄武の姿が、アステールの脳裏に鮮明に浮かび上がる。巨大でありながら優雅な動き、力強くも慈愛に満ちた眼差し。その存在だけで、周囲の生命を活性化させ、同時に危険な要素を寄せ付けない不思議な能力。アステールは、その記憶に浸りながら、自分の試みを振り返った。


彼もまた、玄武のように楽園を創造しようとした。しかし、彼から放たれるミリスリアは、制御不能な奔流でしかなく、それは玄武の繊細な力の使い方とは対極的なものだった。過剰なミリスリアは調和の破壊と野放図な生態系の拡大をもたらし、安定した楽園でなく、むしろ危険な存在にとっての絶好の狩り場に終わる結果となった。


アステールは、自分の両手を見つめた。その手のひらには、無数の失敗の痕跡が刻まれているかのようだった。幾度もの試行錯誤、深い絶望、そして新たな希望の芽生え。何度も猛獣に追われ、生態系の秩序が崩れる苦い経験を繰り返す中で、アステールは苦悩の末にサテライトシステムを発案した。


サテライトシステムは、アステール自身の方法で秩序を作り出す試みだった。高ミリスリア濃度環境下で発展する各生態系は、独自のルールと秩序を持つ自立した世界となり、互いに競争しながらも、アステールの独占を牽制するという共通の目的で結ばれていた。理論上は、完璧な調和と均衡をもたらすはずだった。


しかし、現実は理論とは異なっていた。アステールは、窓の向こうに広がる街並みを再び見つめた。ミリスリア擬製生物がもたらした変化は、彼の予想を遥かに超えていた。確かにある種の均衡はもたらされた。徹底的な合理化、人間の要素の排除、生命の温もりの喪失。それは、アステールが思い描いていた楽園とは、正反対の姿だった。


無力感が、重い鉛のようにアステールの心に沈み込んだ。玄武のような完璧な調和は、彼には作り出せなかった。そして、彼が生み出したサテライトシステムは、皮肉にも彼自身の理想を裏切るものとなってしまった。


「俺のやり方では、楽園は作れないのか…」


その言葉は、執務室の静寂な空気に吸い込まれるように消えていった。アステールの瞳に映るエメラルドヘイヴンの景色は、冷たく、そしてどこか寂しげだった。それはまるで、アステールの心の中の迷いと後悔を映し出す鏡のようだった。


窓に映る自身の姿を見つめながら、アステールは自問自答を続けた。この先、彼は何をすべきなのか。エメラルドヘイヴンを本当の意味での楽園に戻すことは可能なのか。それとも、これが彼の能力の限界なのか。


そんな思索に浸っていたアステールの耳に、突如として軽やかな足音が響いた。振り返ると、そこにはセレフィナの姿があった。彼女の顔には明るい笑顔が浮かんでおり、その表情はアステールの暗い心模様とは対照的だった。


「アステール、これを見てください!」


セレフィナは興奮を抑えきれない様子で、自身のデータパッドを彼に差し出した。


「ミリスリア擬製生物の生産性がどれだけ高いか、そしてその将来的な可能性を示すデータよ。驚くべき結果ですよね?」


アステールは彼女の熱意に対して微笑みを浮かべようと努めたが、その表情には僅かな歪みが生じていた。彼の理想は、自然の生態系と人間や異種族の協働が調和する世界。しかし、目の前に広がるデータは、その理想を根底から覆すものだった。それでも、彼はその感情を押し殺し、冷静さを装って応じた。


「確かに、セレフィナ」


アステールは慎重に言葉を選びながら話し始めた。


「彼らの性能は予想以上だ」


セレフィナは興奮を抑えきれない様子で頷きながら続けた。


「そうね。このデータを見る限り、ミリスリア擬製生物の可能性は無限大だと思います。労働市場急変の防止とサテライトシステムの安定性を維持するために今の施策は必要なものですが、将来的には、この擬製生物が私たちの社会をさらに良くするための鍵になるに違いありません」


アステールは彼女の言葉に形式的に頷いたが、その瞳の奥には深い葛藤の色が宿っていた。彼の理想と目の前の現実との間には、埋めがたい溝が横たわっていた。しかし、長年の経験から培われた自制心により、彼はその葛藤を表に出すことなく、冷静さを保ち続けた。


「確かに、その可能性は否定できない」


アステールは静かに、しかし確固とした口調で答えた。


「だが、我々はその影響を慎重に見極めなければならない」


セレフィナは希望に満ちた笑顔を浮かべ、彼の言葉に賛同するように頷いた。


「もちろん、その通りです。でも、私は未来に希望を持っています。ミリスリア擬製生物は、私たちの社会を進化させるための重要な一歩だと思います」


アステールはその言葉に対して微笑みを返したが、その表情の裏には依然として理想と現実の狭間で揺れる複雑な感情が隠されていた。それでも、彼はその感情を抑え込み、セレフィナの熱意に応えるべく努めた。


セレフィナが再び自身のデータパッドに熱中する中、アステールは再び窓の外を見つめた。夕暮れの光がエメラルドヘイヴンの建物群を赤く染め始めていた。その光景は美しくもあり、同時に何か悲しげでもあった。


アステールの心の中では、理想と現実の狭間で激しい葛藤が続いていた。彼の理想とする生態系への欲求と、目の前に広がる現実との矛盾。その姿は、未来への希望と不安を同時に抱える人類の象徴のようでもあった。


答えは見つからないまま、夜の帳が静かにエメラルドヘイヴンを包み込んでいった。この理想と現実の狭間で新たな道を見出さなければならないのだとアステールは悟った。その決意が、彼の瞳に静かな光を宿らせていた。

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