第13話:スパイの決断☑

黄金の平原サテライトの中心部に位置する高級レストラン「ゴールデン・ハーベスト」。その最上階にある特別会食室は、サテライト全体を見渡せる絶景と、極上の料理で知られている。しかし、この日、その豪奢な空間は異様な緊張感に包まれていた。


窓際のテーブルでは、黄金の平原のサテライトリーダー、オルフィウスと、エメラルドヘイヴンの参謀セレフィナが向かい合って座っていた。二人の間には、最高級の食器に盛られた料理が並んでいたが、それらにはほとんど手がつけられていなかった。


オルフィウスは、豊かな金髪と深い青い目を持つ中年の男性で、普段は穏やかな物腰で知られていた。しかし今、その表情には深い憂いの色が浮かんでいた。一方のセレフィナは、銀髪を厳しく後ろで束ね、鋭い緑の瞳を持つ女性だった。その冷徹な眼差しは、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。


部屋の隅で警備役として立っていたリリアは、この重要な会談に立ち会える幸運に、内心で高鳴る鼓動を抑えきれずにいた。彼女は、オルドサーヴィスの秘密潜入捜査員として黄金の平原に潜入していたが、この任務は彼女にとって重大な転機となるものだった。


リリアは、黒髪を纏め、鋭い茶色の瞳を持つ若い女性だった。彼女の体には、長年の訓練で培われた引き締まった筋肉が宿っていた。普段は冷静沈着な彼女だが、今日の会談の重要性を考えると、緊張を抑えきれずにいた。統治機構において警備部門の新人に過ぎない彼女が、この重要な会合の警備役に抜擢された経緯は不透明であった。恐らくオルドサーヴィス別働隊による何らかの工作が行われたのだろうとリリアは推測していた。


セレフィナが口を開いた。その声は柔らかいが、その眼には一切の温もりがなかった。「オルフィウス、直近の納税遅延について詳細を教えていただけますか?」


オルフィウスは一瞬の沈黙の後、慎重に言葉を選んだ。「セレフィナ様、黄金の平原の経済状況が厳しいことは、ご承知の通りです。しかし、我々は新たな産業計画を推進し、この難局を打開しようとしています。具体的には—」


「具体的には何ですか?」セレフィナは彼の言葉を遮った。「その計画がどのように現状を改善し、いつ成果が現れるのでしょうか?」


オルフィウスは一瞬たじろいだが、すぐに態勢を立て直した。「新しい農業技術の導入や、魔鉱石の効率的な活用により、収益向上を図っています。黄金の平原での特産物、例えば'ゴールデン・ウィート'と呼ばれる高栄養価の小麦や、'サンシャイン・フルーツ'と呼ばれる希少な果実に、付加価値を産むためのイメージ戦略も実行段階にあります。即効性はないかもしれませんが、確実に改善の兆しは見えています。」


セレフィナの目が鋭く光った。「エメラルドヘイヴンはもう十分に待ちました。黄金の平原サテライトによる納税が滞り始めてもう数年になります。ここに至っては即座の成果が必要であるということ、オルフィウス、あなたは理解していますか?」


オルフィウスの表情に焦りが滲んだが、彼は冷静さを保とうと努めた。「セレフィナ様、この問題の重大さは十分理解しています。だからこそ、全力で解決に取り組んでいるのです。」


リリアは、オルフィウスの窮地に同情を覚えずにはいられなかった。彼の言葉には誠実さが感じられたが、セレフィナの追及は容赦なかった。


会食は続き、セレフィナの質問はますます厳しさを増していった。統治機構のコストカットやサテライト内経済における増税など、痛みを伴う議論が次々となされる。しかし、オルフィウスはいずれの提案に対しても歯切れの悪い態度を示し、それに伴い彼へ向けられるセレフィナの視線は益々冷たくなる。


セレフィナは、時計を気にしつつ席を立った。彼女の表情には、この会談に割くことのできる時間的余裕が尽きつつあることへの諦観が垣間見えた。オルフィウスとの議論は、彼女の予想を超えて難航していた。しかし、エメラルドヘイヴンの代表としての責務が、これ以上の時間の浪費を許さなかった。


「オルフィウス」セレフィナの声は、氷のように冷たく、かつ鋭利な刃物のように明瞭だった。「現状を鑑みるに、一定期間の納税猶予を設けることは避けられないでしょう。しかし、それには条件があります」


オルフィウスは身を乗り出した。その瞳には、希望と警戒が混在していた。セレフィナの言葉の裏に隠された意図を読み取ろうとするかのように、彼女の表情を注視していた。


「シルバーホライゾンによる経営改革コンサルティングを導入することを条件に、納税猶予を認めます」セレフィナは、冷静かつ明確に条件を提示した。「黄金の平原サテライト内部の取り組みだけでは不十分です。第三者の専門家による客観的な分析と改善策の提案が不可欠だと判断しました」


オルフィウスの表情が一瞬にして曇った。シルバーホライゾンの名は、サテライト経営に関する卓越したコンサルティング能力で知られていた。しかし同時に、その高額な報酬体系でも悪名高かった。現在の黄金の平原サテライトの財政状況では、そのコストを賄うことは至難の業だった。


「しかし、セレフィナ様」オルフィウスは慎重に言葉を選びながら反論を試みた。「我々の現在の財政状況では、シルバーホライゾンのサービスを利用することは極めて困難です。それどころか、納税さえ...」


セレフィナは、オルフィウスの言葉を遮るように手を上げた。「それは理解しています。しかし、この提案は交渉の余地のないものです。エメラルドヘイヴンとしては、黄金の平原サテライトの再建に全面的に協力する用意があります。ただし、その過程の透明性と効果的な実行を確保するために、シルバーホライゾンの関与は必須条件となります」


オルフィウスは、深いため息をついた。彼の表情には、諦めと受容が入り混じっていた。セレフィナの提案を拒否すれば、納税猶予は得られず、サテライトの存続そのものが危ぶまれる。一方で、提案を受け入れれば、莫大なコンサルティング料という新たな財政負担を背負うことになる。どちらを選んでも、前途は多難だった。


「わかりました」オルフィウスは、重々しい口調で答えた。「セレフィナ様のご提案を受け入れます。シルバーホライゾンのコンサルティングを導入し、サテライトの再建に全力を尽くします」


セレフィナは満足げに頷いた。「賢明な判断です、オルフィウス。詳細な契約条件については、後ほど書面にてお知らせします。それでは、これにて会談を終了とさせていただきます」


リリアはこの一連の会話を聞きながら、心の中で複雑な思いを抱いていた。オルフィウスがどれほどの苦境に立たされているかを理解しながらも、セレフィナの冷徹な判断が、エメラルドヘイヴンが統べる全サテライトの安定にとって不可欠であることも理解していた。


会談は緊張感を残しつつ終わりを迎え、オルフィウスとセレフィナは互いに形式的な礼を交わした。セレフィナが退室すると、オルフィウスは深い疲労を見せ、椅子に深く腰を沈めた。その姿は、彼の抱える重責と苦悩を如実に物語っていた。


会談の終了と同時に、リリアは心の中で湧き上がる疑問を抑えきれずにいた。彼女は、オルフィウスの表情に浮かぶ疲労の色を見逃さなかった。その瞬間、彼女の中で何かが決断を促すように動いた。そして、静かにオルフィウスに近づき、声をかけた。「オルフィウス様、少しお話しさせていただけますか?」


疲れ切った目でリリアを見上げ、オルフィウスは「何かご用ですか?」と尋ねた。


「シルバーホライゾンの件、費用の負担には問題ないのですか?」と彼女は率直に尋ねた。


オルフィウスの顔に一瞬、苦笑が浮かんだが、それはすぐに真剣な表情に変わった。オルフィウスは、その質問に対して即座に答えることを避けた。代わりに、彼は複数の論点を提示し始めた。費用負担がもたらす経済的影響、コンサルティングによる社会的変化、そして長期的な政治的帰結について、彼は滔々と語った。しかし、その言葉の裏には具体的な解決策が見えなかった。


リリアは、オルフィウスの言葉を注意深く聞きながら、その内容を分析していった。彼の話す論点は確かに重要であったが、どれも表面的な観察に留まっており、直接的かつ実行可能な解決像には至っていないことに気づいた。


「オルフィウス様」リリアは再び口を開いた。「それらの論点は確かに重要です。しかし、費用の問題が具体的にどう解決されるとお考えでしょうか?」


オルフィウスは一瞬言葉に詰まった。彼の目に浮かぶ疲労の色が濃くなり、リリアはそこに無力感の影を見た。その瞬間、リリアは確信した。オルフィウスには、この危機を打開する有効な策がないのだと。


オルフィウスはしばらく沈黙し、遠くを見つめるようにして答えた。「セレフィナ様も、どういうおつもりで提案したのでしょうね。納税もまともにできない今の状況で、シルバーホライゾンのコンサル費用を払えるわけがありません。彼らには出世払いを飲んでもらうか、あるいは踏み倒すしかないでしょう」


リリアはその答えに驚きを隠せなかった。「そんなことをすれば…」


「しかし、我々には選択の余地がありません。エメラルドヘイヴンの怒りを買うよりは、まだマシです。終わった後のことは生き延びてから考えるものです」とオルフィウスは力強く言った。


黄金の平原サテライトが窮地に立たされている現実を目の前にすると、自らがここにいる理由や、オルドサーヴィスが気に掛けていることがちっぽけなものだとリリアは感じる。内部で小競り合いをしている場合ではないのだ。リリアは、沈黙の中で揺れ動く心の波を感じていた。


彼女の視界にオルフィウスの姿が映り込んだ。憔悴しきった顔をしている。しかしその瞳には深い思索の影が確かに宿っていた。


自分には一枚手札がある。ここで打ち明けなければ、サテライトは本当に危機に瀕してしまう。彼女の決断は、彼女自身だけでなく、数多くの人々の運命に関わるものだった。オルドサーヴィスへの忠誠と、サテライトの危機への対処。二つの義務の間で、彼女の心は揺れ動いた。しかし、その揺らぎは長くは続かなかった。彼女の内なる信念が、明確な選択を促したのだ。


「オルフィウス様」リリアは決意を固めて言った。「実は、私には打ち明けるべきことがあります」


オルフィウスは、リリアの口調の変化に気づき、身を乗り出した。


リリアは深く息を吐き、言葉を続けた。「私は、オルドサーヴィスに所属するスパイです」


その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が凍りついたかのようだった。オルフィウスの目が見開かれ、彼の表情には驚愕と警戒が交錯した。


「オルドサーヴィスはあなたの動向についての情報を得たいのです。しかし、私は、このサテライトの危機を看過することはできません。オルドサーヴィスには恩義がありますが、今はサテライト内部で争っている場合ではないとも思います。オルドサーヴィスへの報告内容を操作し、またオルドサーヴィス内部の情報をお伝えすることで、この状況を少しでも改善できるのではないでしょうか」


オルフィウスはすぐに冷静さを取り戻した。「君の提案は、非常に危険なものだ。かつて表立って衝突を繰り返してきた時期と比べれば、我々とオルドサーヴィスとの関係は良くも悪くも凪の状態にある。一歩間違えればその安定すら失われ、このサテライトは本格的に崩壊の一途を辿ることになるだろう」


リリアは毅然と答えた。「他に手段があるのなら、却下いただいても構いません。もとよりリスクは承知の上です。」


オルフィウスは再び深いため息をつき、彼女の決意に感銘を受けた様子だった。「分かった、リリア。君の協力を受け入れよう。だが、難しいプロジェクトとなる。我々には時間がないが、慎重に行動せねばならない。」


こうして、リリアは二重スパイとしての新たな役割を担うこととなった。オルドサーヴィスの影響力と闘いながら、サテライトに光明をもたらすための戦いが、始まろうとしていた。


窓の外では、黄金の平原の広大な麦畑が夕日に輝いていた。レストランの灯りは徐々に明るくなり、新たな章の幕開けを告げる。

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