筆頭聖女ステラの記憶



『ユフィはね、昔の私によく似ているの』


 鼓膜の奥深くから呼びかける小さな声に耳を傾ける。

 それはユフィリアがまだ幼い日の── 十歳でこの教会に連れられてすぐの頃の記憶であった。


『そうやって拗ねていても物事は少しも良くならない。あなただって、本当は笑顔でいたいのでしょう?』


 ステンドグラスから七色の光が堕ちる礼拝堂の一角で、十歳の少女ユフィリアの目の前に膝をついた美しい聖女は、白い花が溢れるように微笑んだ。


 銀糸の長い髪をまるで寝起きさながら乱したまま、不機嫌そうに突っ立っているのは少女の頃のユフィリアだ。

 ふたりの姿を遠巻きに眺めているような不思議な感覚。けれど観ている側のユフィリアは不思議と冷静なのだった。



 ──……ステラ、姉様……っ



 必死で唇を動かそうとするけれど、どうしても声が出せない。なのに記憶の中の少女ユフィリアはしっかりと口元を動かして、自分の主張を訴えている。


『……そうね、その通りよ。でもねユフィ、あなたはグラシアという聖なる力を授かった。あなたが思う以上にこれは素晴らしいことなの。あなたの力で誰かの苦しみを和らげたり、笑顔を取り戻してあげられるの……ねっ、すごく特別なことだと思わない?』


 記憶の中でぎゅっと引き結ばれていた少女ユフィリアの口元が僅かに緩んだ。

 それでもまだ納得がいかないようで、聖女の面差しから目を逸らせてそっぽを向いてしまう。


 美しい筆頭聖女──ステラは、そんなユフィリアの前髪を優しく指先で梳くと、鈴が鳴るような澄んだ声で言葉を繋げた。


『もちろん簡単なことばかりじゃないし、グラシアを使えば自分自身が苦しくなることもあるかもしれない。けれど救う側も救われる側も心が温かくなる瞬間があって、みんなで神様からの尊い贈り物を分け合っていると思うと優しい気持ちになれるの』


 聖都に来たばかりの頃は、自分に与えられた《聖女》たる役割を理解できなかった。わけもわからずグラシアを安定させるための鍛錬を強いられることに嫌気が差したユフィリアに、人を救うことの意味深さを教えてくれたのが彼女だった。


 白々とした眩しい光にまたたけば、そこはすでに礼拝堂ではなく聖女見習いの共同部屋で、鏡台の前に座ったユフィリアの髪をステラが櫛で梳かしている。


『ユフィの髪はたっぷりしていて綺麗だから。こうやって結べば……ほぅら。よく似合う……!』


 伸び切ってボサボサだった髪をツインテールに結えてもらったのに、少女は不機嫌そうに「ふい」と下を向いて左右に首を振っている。

 

『鏡を見て? ユフィ。顔を上げて、あなたの可愛い笑顔を見せて?』


 ステラを悲しませまいと無理からに作ったぎこちない微笑みだった。けれど『大好きよ』と優しく笑って、あたたかな胸の中に抱きとめてくれた。

 そっと髪をでてくれた手の感触は、八年という歳月を経るうちに薄れつつある。


 別れの時、野花が春風に揺れる教会の花畑でステラは最後の言葉を放った。

 美しい聖女が纏う可憐な純白の聖衣は、まるでひとひらの白い花びらが舞うように揺れていた。


『私はユフィの優しさを知っている。他の誰よりも困っている人たちを救いたいと願ってる。だからこそあなたはそうと知っていてわがままを言うのだし、駄々をこねて叱られてもお勤めを避けようとしている。とても勇気がいることを強い意志と信念で貫いている。私が中央大聖堂ここからいなくなっても、あなたの勇気と優しさを忘れないで……!』


 ユフィリアが聖女認定を受ける前年、心からの信頼を寄せ、敬愛していた筆頭聖女ステラはその強大なグラシアと治癒能力を買われ、ヴェルダール皇帝陛下の側近として帝国に召された。


『私たち聖女はある意味で奇跡を作り出している。その瞬間、その場所で、もし誰かが手を差し伸べなければ失われてしまったかもしれない命を守るって本当に尊いこと。けれど最後だから本音を言わせて……? 私は自由になりたかった。絵本に描かれた奇跡を信じていたの。ユフィ……お願い。私が叶えられなかったその夢を、あなたに託させて……?』


 あんなに悲しいステラの顔を見たのは初めてだった。

 いつだって太陽のように微笑んで、凛として誇り高く、神に与えられた聖女という宿命に矜持と気概を持っていたはずの筆頭聖女ステラが──あの日の彼女は、涙ぐみ、まるで世界の終わりを見るような悲壮に暮れた表情かおをしていた。



 ──どうかステラ様がお元気で、数多の人々を救っておられますように。荒んでいた幼い日の私を救ってくださったように。



 いつの間にかユフィリアの手には『絵本』が開かれていた。

 旅立ちの日にステラから託された、アン・ミカエル・ゴーン著の古びた絵本が。



 ──あの日から『ステラ姉様の願い』は『私の願い』になった。




「……ん……」


 浅いまどろみの中で、ふと頭を撫でられたような感覚があった。

 それはどこか懐かしいあたたかさを伴っていて……。


 ──……ステラ……姉様……?


 薄くまぶたを開けると、すぐ目の前を何かが慌てたようにサッと動くのが見えた。

 だんだんはっきりしてくる視界が捉えたのは、驚いたふうに目を丸くした黒騎士レオヴァルトの面輪と、そして今まさに引かれたばかりの彼の手のひら。


「……え……? ちょっ……」


 寝台の脇のスツールに腰掛けたレオヴァルトは黄金きんいろの瞳をすっと逸らし、行き場を失った宙ぶらりんの手をおもむろに引っ込める。

 

 ──……まさか、レオに頭を撫でられてた……?!


 引いた手を口元に持っていくと、レオヴァルトは視線をそらせたまま「こほん」とわざとらしく咳払った。


「……やっと起きた。このまま目覚めないのではと、心配したよ」


 ──最近やたら優しいのはどういう心境の変化?


 心配したなんて言って、また茶化したいのだろうと嘆息する。

 けれど沈黙を保つレオヴァルトの眼差しはどこか不安げで、見つめられたユフィリアが恐縮してしまうほど。


「熱も下がったようだな」


 ただでさえこの男は顔がいい。ましてや憂いを帯びた眼差しともなれば、ユフィリアとて気を抜けばときめいてしまいそうだ。


 ──こりゃぁ、免疫つけなきゃ身がもたん!


 不本意な気持ちを必死で揉み消しながら唇を窄める。

 この際だから、白黒はっきりさせておこう。


「エロ黒騎士」


 呟くようにぼそっと言うと、


「……はっ?」


 綺麗な黄金の眼差しが一瞬で翳りを見せた。


 ──しめしめ。

 あの顔でず〜っと見つめられたらたまったもんじゃない。


「さっき私の頭を触ったでしょ」

「触ってない」


「嘘」


 ジト目で睨めつければ、レオヴァルトの秀麗な面輪おもわはシラを切るように目を逸せる。


 ──怪しむまでもなく有罪確定。


「触ってない……と言うか。熱が下がったか確かめただけだ」

「ほら!」


 レオヴァルトは口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる。


「もっと触って欲しかった?」

「……はぁっ、ありえないんですけど!」


 このエロは! と悪態をきながら窓の外を見遣れば、見えるはずの景色が黒い闇に包まれている。

 レイモンド卿の部屋からレオヴァルトに救い出された。だがその後の記憶が無い。


 ──婚約者って言っても契約上のものだし、乙女の寝室に大の男が居座ってるのもどうかと思うけど……助けてもらったんだから仕方ないか。


「グレースは……。私の傷を治してくれたの、グレースなんでしょう?」

「ああ。部屋で休むと言って出て行ったよ」


 またグレースに余計なグラシアを使わせてしまった。疲労を滲ませた親友の背中が目に浮かぶようでいたたまれなくなる。


「黒騎士って案外暇なのね。レオはここにいて平気なの?」


 ──レオの魔力が《弱すぎて》、魔獣の討伐に呼んだって役に立たないのかも。レイモンドは《役立たず同士》をくっつけたって事か……。


 レオヴァルトへの待遇は酷いものだった。

 聖騎士以下のあの扱いはきっと、彼の魔力が微弱で黒騎士として役立たずなせいだとユフィリアは踏んでいる。


 起きあがろうとすると身体中がきしむように痛んだ。

「うっ」と声が漏れ、前屈みになってしまう。そんなユフィリアを気遣うようにレオヴァルトが支え、クッション代わりに枕を背中にそっと当てがってくれた。


「まだ無理をしない方がいい。酷い傷だったんだ」

「っ……平気よ、いつもの事だもの」

「駄目だ、安静にしておけ」


「ねぇ、今、何時なの……? 安静になんて、してる暇は無いの……っ」


 思わず口を突いて出た言葉を後悔する。

 何しろ自分はおサボりの我がまま聖女。安静にしていられない理由をレオヴァルトに勘繰られても面倒だ。


 ──もう何日ものところに行けてないんだもの。


 『月夜の女神』を待つ貧民街の人々の顔が浮かんだ。

 悪化した流行病を治癒した老人や子供の怪我の経過も気になる。新たに流行り病にかかった人たちや怪我人が治療を待ちわびているかもしれない。


「貧民街の病人が心配なのか?」


 唐突にレオヴァルトが発した言葉が何を意味するのか、すぐにはわからなかった。

 優しさを孕んだ黄金の瞳が穏やかにユフィリアを見下ろしている。


「え……」

「《月夜の女神》は、ユフィリア……君だろう」


 治っているはずの背中が、ずくりと痛んだ。





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