手を差しのべる者(1)



 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*




 ——暗闇に閉ざされた、何も無いひどく狭い部屋だ。

 自分の心臓の鼓動と呼吸音、耳鳴りのような不快な音しか聞こえてこない。

 更には目隠しと猿轡さるぐつわを噛まされ、両手首が背中で縛られている。


 ここは人々の罪を赦す教会ではあれど、同時に多くの聖女たちを預かる寄宿舎のような場所でもある。

 様々な出自事情を抱える少女たちを集団で生活させるなかで、規律を乱す者を更生するなどという大義名分のもとにこの部屋を生み出したのは、聖女たちの指導と監視を牛耳るレイモンド司祭だ。


 強気のユフィリアでさえも、幼い頃からこの懲罰室——という名の独房——には底知れぬ恐怖心を抱いていた。

 懲罰室に入れられるくらいなら、鞭で打たれるほうがよほどマシだとさえ思う。


 農村の親戚の家にいた頃、ユフィリアの寝床は物置の中にあった。

 狭くて散らかっていて、そして一つも窓がない。昼間でも扉を閉めてしまえば真っ暗で、その場所で眠る一人きりの夜が来るのが怖かった。


 この部屋は、残酷にもその頃の記憶を連れてくる。


 けれど入れられてしまったものは仕方がない。いつまで続くかわからぬ果てしない時間を、ただひたすらに耐え抜くだけだ。


 ユフィリアは、ありったけの想像力を働かせる。

 美しい楽曲を頭の中で奏でてみたり、月光の下に輝く柔らかな街の明かりを思い描いてみたり。ポメラの愛らしい顔を撫でる時の、なんとも幸福な感触を思い出してみたり——。


 ふと、かつて恋人だった聖騎士ルグランの優しい笑顔がよぎった。

 頭を振ってどうにかかき消そうとするけれど、忘れようとすればするほど美しい思い出が膨らんでしまう。

 彼は自分を簡単に捨てた男だ。

 けれど思い出はそう簡単に手放せはしない。


 ——助けて……


 唇を噛み締め、漏れそうになる嗚咽を堪える。こんなことで泣くような自分ではないはずだ。


 その時ガチャリと施錠が外され、ギギ……という不快な音とともに扉が薄く開かれた。

 光の直線が灰色の無機質な床に突き刺ささる。黒い布の目隠しごしに視界が急激に明るくなるのを感じたユフィリアは、眩しさに布の奥で目を閉じる——


 ——誰……っ


 いくらなんでもこんなに短い時間で解放されるはずがない。


 ——ルグラン……?


 なぜ彼だと思ったのだろう。

 けれどルグランとは気配が異なることに気づく。


 目隠しをされているので、部屋に立ち入りユフィリアのそばに膝をついた人物が誰なのかを知ることができない。衣擦れの音と、女性ではない体躯と気配を感じる。


 後ろ手に拘束された縄が解かれたとき、無骨な手がユフィリアの手に触れた。


 目隠しと猿轡さるぐつわが外され、目を細めたままの僅かな視界に入ったその人物は、表情を殺したレオヴァルトだった。


「教会に隠れて金銭を受け取ったのだから、自業自得だな」


 ユフィリアを見下ろしながら目をすがめ、レオヴァルトは少し呆れたふうに言う。


「それは、ちがっ……誤解よ……!」

「誤解とは?」

「うんと、その……」


 もしも「イザベラに嘘をでっち上げられた」と釈明すれば、レオヴァルトは信じるのだろうか。


「とにかく誤解は誤解なの。というか、なんで来たの……?」

「罪深い聖女が懲罰室で泣きわめいていると聞けば。仮にも私は婚約者だし、放っておけないだろう」

「泣きわめいてなんか……ないから。っていうか、どうやって入ったのよ、鍵、かかってたでしょう」


 確かに施錠が外されている。

 しかしレオヴァルトの手元や周囲を探っても、鍵らしきものはどこにも見当たらない。


「私が有能な《魔法》の使い手だからとでも言っておこうか」


 貴族出身の聖騎士でも魔力を持つ者は少ない。

 逆に没落貴族出身者でも魔力によって《魔術》を操る者だからこそ、希少な黒騎士としての生業を保っている。

 けれど魔術はあくまでも攻撃性を持つものであって、施錠された扉を開ける平和な魔術なんて聞いたことがない。


「理解が追いつかないんですけど。そういえば昨日は花とか出してたよね? てっきり手品かなんかだと……あれも魔術?」

「説明はあとで。誰かに見られると厄介だ、さっさとここを出よう」


 レオヴァルトは周囲に人気がないのを確認すると、懲罰室の扉にユフィリアを促した。

 ドアノブに掛かった頑丈そうな錠前にかざしたレオヴァルトの手のひらから、金色の光がほとばしる。見る間に扉が元通りに施錠されてしまったのには、さすがのユフィリアも驚いてしまう。


「これでしばらくは気付かれないだろう。騒ぎになった時は私にさらわれたとでも言えばいい」

「なんかすごいんだけどっ。それって……魔術?!」

「《魔法》だと言ったろう」

「魔法と魔術ってどう違うのよ」

「さぁな」

「さぁあなって、あんた魔術も使うんでしょう、知らないの?」


 話す間にも、レオヴァルトはユフィリアの手首をつかんで懲罰室がある地下の廊下をどんどん進んでいく。


「だから痛いってば」

「……うるさい女だな」

「どこに連れてくのよ」

「私の寝所だ」


 男が寝所に年頃の女を連れ込もうとする意図といえば、思い当たるのは一つしかない。


「……ねぇ、バカなの」

「は? 誰も来ない場所だからだ。おまえこそ、何かいかがわしい想像でもしたんじゃないのか」

「だっ、誰がいかがわしいのよ、あんたが乙女の私を寝所に連れて行くなんて言うからっ」

「もうすぐ夫婦になるのだからな。私の寝所に入れたって何の問題もなかろう、それとも」


 唐突にぐい、と手首が強く引かれ、身体ごとレオヴァルトに引き寄せられた。


「私とシたいのか?」

 言の葉の卑猥さとは裏腹に、才知さいちの輝きが宿る黄金きんの瞳が妖艶に細められる。


「あ、ありえない……っ! いかがわしいのは誰なのよ、このエロ黒騎士!」


 ユフィリアが赤くなって豪語するのを、レオヴァルトはまるで楽しんでいるかのように一瞥する。


「おまえは……噂に違わぬじゃじゃ馬で、おまけに口も悪いのだな」

「余計なお世話、あんたに言われたくないわよ。それよりっ……」


 私を寝所に連れてって何する気——。 

 口から出かかった愚問に慌てて蓋をする。重ねて聞いたりすれば、このエロ黒騎士と同列の下卑た女になってしまうような気がしたからだ。


 レオヴァルトはそれから無言のまま、注意深く周囲を気にしながら歩いた。

 人の気配が皆無なのはこの場所が普段使われることのない『別館』だからだろう。


 レオヴァルトの部屋というのは、こんな埃まみれの薄暗い場所にあるのか。これでは扱いが聖騎士と同等どころか、神官以下ではないか——。


「言い忘れてたけど、その……。助けてくれて、ありがと」


 ぼそぼそと尻すぼみに言う。

 返事をする代わりに、レオヴァルトが少しだけ口角を上げた気がした。



 *



 レオヴァルトの部屋は、やたら広いが薄暗く、埃っぽかった。


 部屋の隅っこにそっけないベッドとクローゼットが置かれているだけ。奥の扉の向こうはバスルームだろうか。

 あとは小さな文机と一脚の椅子。

 そんな簡素な部屋には、かろうじて顔が出せるほどの小さな窓ひとつしかない。


 ——こんなところで生活させられてるの……?


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