幸せに……

 


 ふと眼前の聖ルグリエット様と目が合って、はっと息をのむ。

 蒼白の顔で言葉を失っているユフィリアに、大司教様はゆっくりと御言葉を放たれた。


「聖女ユフィリア。幸せにおなりなさい」


 深い皺が刻まれた、よわい八十を越される大司教様のお顔が、蕩けるように微笑んでいる。

 ユフィリアの胸がどくりと脈打った。


 幸せ、なんていうものを求める気持ちは、遙か昔に捨ててしまった。


 幼い頃に両親を流行病で亡くしてから、貧民街で暮らす親戚の元で《そこにいない者》として扱われてきた。


 成長過程の身体には乞食同然の不潔なボロ布が張り付いていた。雪降る極寒の夜は筵を被って火が消えた灰の上で眠る。暑い夏の日は脱水を起こして何度も死にかけたが、それでも死なずに生きのびたユフィリアを見て、大人たちは苦々しげに舌を鳴らした。


 食べるものなど殆ど与えられず、草でも虫でも食べられそうなものは何でも口に入れて飲み込んだ。痩せ細った身体は骨が浮き、成長不良の薄っぺらい大根のようであった。


 その頃にはもう、《幸せ》という言葉がこの世にあることすら忘れていた気がする。


『この役立たずの穀潰しが——』


 レイモンド卿に閉じ込められた、教会という名の『鳥籠』。

 そして今、ユフィリアに浴びせられる罵声はあの頃とさほど変わらない。


『その腐った自我をまだ通すつもりか!?』


 レイモンド卿は、機嫌が悪いと苛立ちをぶつけるように暴挙に出る。傷が治るのを良いことに、体罰はいつも力任せだ。

 罵声を浴びせられながら鞭を打たれるユフィリアは、ただひたすら痛みに耐え続ける。ぶたれる辛さなど貧民街で暮らしていた頃を思えばずっとマシだ。


 聖女の力・グラシアの加護によって傷は治るが、受けた痛みはそのまま感じでしまう。そして鞭を振るうレイモンド卿——聖職者の仮面を被った悪魔——の手は、ユフィリアが気を失う寸前になってようやく止まるのだった。



 ——見習いの頃の私は、未熟さゆえに何も知らなかった。

 認められたくて、必死で貴族の頭痛を治している間に、ひとつの尊い命が失われていた。

 捨て置かれたのは、幼い子どもだった。

 あのとき初めて、グラシアを本当に必要としていた人びとのしかばねを、知らずに積み上げていた自分の罪深さを呪ったのだ。



『死に損ないのおまえをスラム街から拾ってやったのを忘れたか。クズのおまえが治すのは心の病だけだからな。人の三倍働け。金を稼げ。拒めば懲罰室行きだと思え。』



 ——レイモンドは弱者を切り捨てる。

 金貨を受け取るために。



 背中の傷が、またズクリと疼いた。


「…………聖女ユフィリア?」


 はっ、と顔を上げると、心配をまとった聖ルグリエット様の顔がぼやけて見える。

 短い間だがぼうっとしていたようだ。


 あおい瞳をしばたたかせて周囲を見れば——見知らぬ者たちの好奇の眼の渦に放り込まれたような感覚に陥った。

 目の前が真っ白になって、眩暈がする。

 あろうことか、自分はこの神聖な場所で気を失ってしまうのだろうか。ユフィリアが心からの畏敬と信頼を寄せる、聖ルグリエット様の目の前で。


『幸せにおなりなさい』


 遠くなりつつある意識のなか、柔らかく穏やかな声がする。朝の礼拝でのみふれることができる、すさんだ心を癒やしてくれる声。

 それが初めて、ユフィリアのためだけに放たれたのだ。



 ——私……しあわせに………なれるの、かな………。



 視界が狭まりかけたとき、

「ユフィリア、平気か?」


『ユフィリア、ユフィリア…………』


 低いがよく通る艶のある声が、どこからか鼓膜に響いてくる。

 ユフィリアを呼ぶ、人の優しい声を聴いた気がした。


 ——陛、下…………?


 重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、黄金色きんいろの双眸が見下ろしている。

 たった今、正式に婚約者となった黒騎士のたくましい腕が、くずおれかけたユフィリアの身体を支えていた。




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