幸せに……
ふと眼前の聖ルグリエット様と目が合って、はっと息をのむ。
蒼白の顔で言葉を失っているユフィリアに、大司教様はゆっくりと御言葉を放たれた。
「聖女ユフィリア。幸せにおなりなさい」
深い皺が刻まれた、
ユフィリアの胸がどくりと脈打った。
幸せ、なんていうものを求める気持ちは、遙か昔に捨ててしまった。
幼い頃に両親を流行病で亡くしてから、貧民街で暮らす親戚の元で《そこにいない者》として扱われてきた。
成長過程の身体には乞食同然の不潔なボロ布が張り付いていた。雪降る極寒の夜は筵を被って火が消えた灰の上で眠る。暑い夏の日は脱水を起こして何度も死にかけたが、それでも死なずに生きのびたユフィリアを見て、大人たちは苦々しげに舌を鳴らした。
食べるものなど殆ど与えられず、草でも虫でも食べられそうなものは何でも口に入れて飲み込んだ。痩せ細った身体は骨が浮き、成長不良の薄っぺらい大根のようであった。
その頃にはもう、《幸せ》という言葉がこの世にあることすら忘れていた気がする。
『この役立たずの穀潰しが——』
レイモンド卿に閉じ込められた、教会という名の『鳥籠』。
そして今、ユフィリアに浴びせられる罵声はあの頃とさほど変わらない。
『その腐った自我をまだ通すつもりか!?』
レイモンド卿は、機嫌が悪いと苛立ちをぶつけるように暴挙に出る。傷が治るのを良いことに、体罰はいつも力任せだ。
罵声を浴びせられながら鞭を打たれるユフィリアは、ただひたすら痛みに耐え続ける。ぶたれる辛さなど貧民街で暮らしていた頃を思えばずっとマシだ。
聖女の力・グラシアの加護によって傷は治るが、受けた痛みはそのまま感じでしまう。そして鞭を振るうレイモンド卿——聖職者の仮面を被った悪魔——の手は、ユフィリアが気を失う寸前になってようやく止まるのだった。
——見習いの頃の私は、未熟さゆえに何も知らなかった。
認められたくて、必死で貴族の頭痛を治している間に、ひとつの尊い命が失われていた。
捨て置かれたのは、幼い子どもだった。
あのとき初めて、グラシアを本当に必要としていた人びとの
『死に損ないのおまえをスラム街から拾ってやったのを忘れたか。クズのおまえが治すのは心の病だけだからな。人の三倍働け。金を稼げ。拒めば懲罰室行きだと思え。』
——レイモンドは弱者を切り捨てる。
金貨を受け取るために。
背中の傷が、またズクリと疼いた。
「…………聖女ユフィリア?」
はっ、と顔を上げると、心配をまとった聖ルグリエット様の顔がぼやけて見える。
短い間だがぼうっとしていたようだ。
目の前が真っ白になって、眩暈がする。
あろうことか、自分はこの神聖な場所で気を失ってしまうのだろうか。ユフィリアが心からの畏敬と信頼を寄せる、聖ルグリエット様の目の前で。
『幸せにおなりなさい』
遠くなりつつある意識のなか、柔らかく穏やかな声がする。朝の礼拝でのみふれることができる、すさんだ心を癒やしてくれる声。
それが初めて、ユフィリアのためだけに放たれたのだ。
——私……しあわせに………なれるの、かな………。
視界が狭まりかけたとき、
「ユフィリア、平気か?」
『ユフィリア、ユフィリア…………』
低いがよく通る艶のある声が、どこからか鼓膜に響いてくる。
ユフィリアを呼ぶ、かつて愛した人の優しい声を聴いた気がした。
——陛、下…………?
重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、
たった今、正式に婚約者となった黒騎士の
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