第43話

「はははは! これが私の孫娘か!」


 気づいた時にはランデンベルク夫人は高らかに笑い、感極まったように両手を打ち合わせていた。それは耳を塞ぎたくなるほどの音の暴力。その笑い声と拍手がもたらしたのは静寂。誰かが一言でも発せば不興を買う、その恐怖と緊張感は会場中に拡がっていた。

 やがてそれは解放される。だが、それは彼らが最も恐れていた結果——オリヴィア夫人の怒りを招く声とともに——だった。


「聞け! ランデンベルク家は今この時をもって、ベルク侯国に属する事を誓い、女王陛下に忠誠を捧げる! ここに集まった全ての王族、貴族、そしてその子女達が証人となる! 私の名はランデンベルク当主オリヴィア——いや、こう伝えるが良い! 『これまでの献身を忘れた王国に、武神オリヴィアが鉄槌を下す』と、王国中に遍くあまねく伝えよ!」


 武神オリヴィア。その異名さえ忘れていた。

 ランデンベルク家は武の一族。その中でもオリヴィア・ランデンベルクの名は伝説だった。若い頃から敵国を斬り、魔物の領域を切り取ったその武名は誰でも知っている。

 目の前で睥睨するのは老夫人でありながら、弛んだ所のない、細身でもしっかりとした体格。その威圧を受ければ誰もが行動を躊躇う。

 それでも只事のように現れ、跪く人物がいる。


「オリヴィア様、グレース様。カタリナ・ランデンベルクは騎士として女王陛下に仕える事を望み、忠誠を捧げます!」


 カタリナさんはここぞとばかり自分の欲に従った。王国では認められなかった女性騎士になるという願い、それが目の前にある報われる

 ドレスが汚れるのも厭わず膝を折り、胸のコサージュをさくら様に捧げ、忠誠を口にする。


「陛下、カタリナは未だ任せるに足る技量はありませんが、身代わり程度は果たせましょう」


 祖母から未熟とされながらも、興奮した様子は口元に表れていた。さくら様は僅かに呆れたような表情を見せたものの、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「いいでしょう、カタリナ・ランデンベルクが側に就くことを認めます。今度は護ってくださいね、私の騎士様」

「はっ! この身に代えましても!」


 カタリナさんは誇らしげに応えたと言うのに、コサージュを授けるさくら様の手を離そうとしない。今度はさくら様も呆れ顔を隠さなかった。しかし、顔に浮かぶのは呆ればかりではなく、いつか見たあの優しげな笑みがあった。

 しかし、激昂した声があたりを張り詰めた空間に戻してしまう。


「ふざけるな! ローゼンベルクは俺のものだ!」

「残念ですが、この王国にローゼンベルク家は存在しません。今やベルク侯国として独立しました。王子、あなたの求めるものは何も手に入りません。人もお金も土地も全てを取り零したのです。結婚すると頭を下げていたなら、まだその手に触れることができたかもしれませんが……今となっては、その可能性すらないでしょう」

「どこまで愚弄するつもりだ! 国にも法にも従えない、人未満の存在が!」


 すっと目が細められる。あからさまに蔑まれる態度を見せられ、ニールセン殿下は更に声を上げようとする。しかし、先に口を開いたのはさくら様だった。


「ニールセン王子、エルドリア王国の成り立ちについて勉強しなさい。私は全ての手続きに於いて王国の法に則っております。国に背くことすらもです」


 再び会場中がざわめきだす。王国と貴族の関係、それは絶対ではなかったのか。法に従えなければ、人して扱われない。そのはずだった。


「大憲章第六十五条。『国王が独断で行った施政が承諾できない場合、教会に仲介を申し出て協議を求めることができるものとする。また、その権利を奪おうとせし者現れる場合、自らの保全を優先することが認められる』。これは王国民に与えられた正当な権利です。私には数百万人の命を預かり、守る義務がある。たとえ国が相手であっても、ローゼンベルクの名を汚すことは許されません!」


 大憲章を聞くのは久しぶりだ。

 自らの規範となる貴族典範と違って、大憲章は多くが国民の権利に関する法のため、政治に関わらない貴族は勉強する機会は多くない。広く知らしめるものでありながら、知らなければ教えようがないと暗黙の了解がまかり通っている。

 その大憲章を紐解けば、話し合いの場を用意することが定められている。これは国民だけでなく、貴族をも護るもの。しかし読み込んでいる者が少なく、さくら様の言葉を否定する者は現れない。よしんば出来る者が居たとしても、


「……伯父がいれば、馳せ参じたんだろうな」


 ふと、ひとり言が転び出た。さくら様の統治では法務官は仕事がしやすいことだろう。過去に国王が行った失政を繰り返さないため、記録を残すことが重視されている。他国も含め、文献は逐一調べることができないため、政務の場ですぐに受け答えできるよう用意されたのが法務官。彼等は執務が滞りなく進められる為に存在するが、往々にして王や宰相に従う傾向にある。そして、同僚の不甲斐なさを注進した伯父は官を追われる事になった。


「この国が話し合いもなくローゼンベルク家を奪おうとした。そのような横暴に対して、私は民と領地を、何より家を護るため侯国を興した。戦争の端緒を開いたのは、ニールセン王子、あなたです。衆目のある中、十分に言葉を交わしました。不服があると言うなら、どんな手でも使って従わせてごらんなさい」

「言われずとも、おまえぐらい——」

「リアナ、ローゼンベルクの名前を持たされたのなら、この国では反逆者。せいぜい生き残りなさい」

「嘘!? そんなの聞いてない!?」

「大きな邸宅が欲しかったのでしょう? 本邸は残してあげましょう。挙兵するもよし、独立するもよし、王国に与するも好きにしなさい。ここからが本当のゲームスタートよ」


 リアナさんの顔が真っ青になり、その場に崩れ落ちた。これは今までのような演技ではない。自信に満ちていた彼女の様子は消え、ただ打ち震えている。

 これまで難関とされたダンジョンの攻略や教会との軋轢を乗り越えられたのは、全てエリ様の知識というアドバンテージがあったから。しかし、ここにいるのは努力を怠った、力があるだけの令嬢にすぎなかった。


「ニールセン王子、私は駒を進めました。次の一手も譲ってくださるのかしら?」

「きさまっ! 卑怯だぞっ!」


 しゃがみ込んだリアナさんを見て、ニールセン殿下がすぐに抱き寄せ、取り巻きたちはその周りを囲んで動きを止めてしまった。

 リーダーが真っ先に戦闘放棄を選ぶだなんて、呆れて物が言えない。敵国と認めたさくら様が、そんな無様な光景を見逃すことはありえなかった。


「ルーカス! ここはもう私達の国ではない。血路を開きなさい!」

「はっ!」


 さくら様が歩みを始めると、まるで見えない力が働いたように、人々は一斉に道を開ける。周囲には鋭い視線を光らせる兵士たちがいるというのに、さくら様一人に目を奪われているみたいだ。

 その隙を縫うように、女性が前に現れる。


「待ちなさい、グレース!」


 貴族達によって一時は隠されていたアリシア妃殿下は、供回りもなしに面前に立つ。しかし、気丈に振る舞うには相手が悪かった。


「たかがきさき如きが、陛下を馴れ馴れしく呼ぶな」

「……っ!」


 オリヴィア様の声は然程大きいものではない。けれど、妃殿下の意気込みを挫くには十分だった。


「構いません、オリヴィア卿。彼女が亡国の妃となる前に言葉を交わしておきたい」

「はっ!」


 その場をカタリナさんに譲ると、途端に雰囲気が和らぐ。しかし、背後には武神の抑えきれない怒りが熱量で表れているようだった。

 飴と鞭、この場はもう外交なのだと知らしめる。そして、さくら様は手加減をしないと表明した。


「グレース……様、先ずは謝罪を——」

「ルーカス! これより、一歩でも動いたものが居れば、敵対と見做し手足を折りなさい! 貴族、子女、男女を問いません!」


 その一声で兵士の隊列が変わる。護衛はカタリナさんとオリヴィア様に任せ、兵士達は敵意を持って辺りを睨む。

 反対に、さくら様は柔らかな笑みを浮かべ「失礼しました」と軽く頭を下げた。


「言いたいことがあればお早めにされることをお勧めします。訓練していなければ、人は長く立っていられないでしょう?」

「なんということを……」


 わずかに声をかけただけで、時間稼ぎは意味を為さなくなった。たった十一人が、数百人いる会場中を人質にした。おそらく、一度に掛かれば制圧はできる。だが、相手には武神がいる。武器を持った兵士がいる。貴族の誰が自らを犠牲にしてまで他人を護ろうとするものか。見たところ、全員が剣を持ち、魔術を使うような兵士はいない。だからと言って、対策していないと考えるのは早計だ。相手はこの状況を作り出した張本人。しかし和やかに話しかける意図がわからない。


「エルドリア王国王太子妃アリシア殿下。私は宣戦布告をしているのです。敵国の姫を連れ去っても良いのですよ」

「……姫と呼んでくださるのは光栄です。それともシャンティリー王女のことを言われているのでしたら、少々残念ですね」


 違和感は妃殿下にもある。先ほどまでは確かに敵意を持っていた、なのに今度は合わせるように淑やかな対応をする。


「どのようにお取りいただいても。王城については把握しております。どこに身を隠されても無駄です。ですが、心配はしていません。王女殿下なら、喜んで国の礎になってくださるでしょう」

「なるほど……そういうことですか。噂は本当だったようですね。今のあなたなら、もっと早くお会いしたかったです」

「今からでも遅くはありませんよ。ベルク侯国に降るのであれば、王太子共々身の安全は保証しましょう」

「ありがたい申し出ですが、それはできません。私は国母となる身、この国の将来を見据え、護らなければなりません。あなた方のような、不埒な者達から」

「結構。もう満足されましたか、妃殿下?」

「はい、覚悟が決まりました。感謝します、女王陛下」


 そうして、今度はアリシア妃殿下が深々と頭を下げた。いったい、今の会話は何が遣り取りされたんだ?

 辛うじてわかったのは、妃殿下の知るグレース様ではなく、改めて敵対関係だと認めたこと。だと言うのに、ニールセン殿下のような激しい遣り取りでなかったのは不思議でならない。

 妃殿下はそれから口を開かない。動ける者をけしかける事も、制止する命令も出さず、ただ目だけでさくら様を追う。

 さくら様はもう一度兵士達に号令をかけ、足を進める。そして、目の前を通り過ぎようとする。いまや女王としての威厳をもつさくら様から、僕には一瞥も与えられなかった。これが言葉を交わす最後のチャンスになる、だけど行動にはできなかった。


「そうだ」


 諦めかけたとき、不意に立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


「言い忘れていたわ。リアナ、あなたのこと、あの子から『叱ってあげてほしい』と頼まれていたの」


 その笑みと言葉は、僕に向けられたものでなかった。けれど、ずっと抱いていた違和感の正体がようやくはっきりした。これまでの態度はあまりにもさくら様らしくない。周りの人々も同じように感じていたのだろう、彼らの安堵の息がかすかに聞こえた。やり過ぎたリアナさんとニールセン殿下に貴族らしく報復をした叱ってあげた。更には国王に協力し、止めなかった貴族達にも同時に制裁をする。大きな痛手だが、まだやり直しはできるはず。アリシア妃殿下とはあれほど穏やかに接していたのだから。

 だけど、それは僕達の勘違いだった。まだ何も終わってなんかいなかった。

 顔を上げたリアナさんにさくら様は言葉を続ける。


「私、人を叱るのが下手だって、怒られたことがあるの。だから、これからじっくり考えることにする……愉しみにしててね、リアナ」


 その微笑みは見惚れるほどの温かさを湛えていた。しかし、思惑は悪意の塊のようだった。

 さくら様はもう二度と振り返ることはなかった。残されたリアナさんは震える唇を噛み締め、両手で耳を塞ぎ、強く目を閉じる。それは嵐が過ぎ去るのを待つ幼子にしか見えなかった。


◇◇◇


 ベルク侯国を名乗った十一人が来賓を迎えた通路に消えると、場の緊張は一気に緩んだかのように、多くの貴族達が慌ただしくその場を去り始めた。衛兵を呼ぼうとする者、上位者に報告する者、そして子女を連れて領地に逃げ戻ろうとする者達が次々と動き出した。彼らはこの学園が取り囲まれている可能性を検討しなかったのだろうか。


 恐慌をきたしているリアナさんはニールセン殿下に抱き締められ、周りには近寄らせてもらえない。さくら様を追いかけるのは得策ではないと考え、落ち着いて見えるカリーナさんの隣に並んだ。


「追いかけないのですか?」

「ええ、足手纏いになりますから。それに、今後の交渉役として必要となるでしょう」


 カリーナさんはいつも通り、淡々と答えてくれる。さくら様と一緒にいる時の肩の力が抜けた姿とはまるで違い、学園で見かける冷静沈着なカリーナさんそのものだった。


「交渉役ですか? ベルク侯国との?」

「いいえ、交渉が必要なのはエルドリア王国です。シュトラウス家は既に王都を引き払っています。残っているのは女王陛下をお守りするための兵士達と、外交官としての私だけです」


 やはり状況を掌握するための手は打ってあった。

 ローゼンベルク家が王国を離反することは泊まりの会パジャマパーティーで聞いたそうだ。一ヶ月前のことらしいが、さくら様自身はもっと前から計画していたのだろう、と彼女は言った。

 借金まみれのシュトラウス家はローゼンベルク家に付いていくしかない。しかしそれは強制ではなく、自ら望んでのことだった。


「家族を、領地を護っていただきました。私の忠誠はずっと前からあの方に向けていたのだけど、今は親族全てが同じ気持ちを持っています」


 さくら様が去って行った方向に向けるカリーナさんの目は、どこか優しげだった。だからこそ、疑問に思った。


「だったら、どうして女郎蜘蛛の会の悪評を流させたんですか?」


 カリーナさんは驚いたように見えたが、同時に嬉しそうな表情も浮かべた。それが、僕にはますます意味がわからなかった。


「……気づいていたのね。さすがはフェリシア様の弟君」


 僕の役割はリアナさんを見張ること、そして学園でおかしな出来事があれば姉と共有することになっている。そのおかしな出来事の最たるものが女郎蜘蛛の会の悪評だった。発生源が子息というのはまだ理解できる。男子禁制の会合はどうしても妄想が先行し、いかがわしいものだと思う者もいるからだ。しかし、その彼がグレース様が作った派閥の一員だったことが腑に落ちなかった。そして、彼は頼まれたと言い、処罰を受けることもなく、口止めすらされていなかった。


「初めはリトル・グレース様をベルシア自治領へ送り返すための策略でした。でも、それは不要になった。あらかじめ指示を出していた子息を止めることもできたのだけど、あの方はすっかり忘れていたの。だから私は対象を女郎蜘蛛の会に変えた。もし調べるように訊ねてくだされば喜んで答え、誤った指示を出した私は叱責を待ったことでしょう。でも、あの方は女郎蜘蛛の会への攻撃を自分への攻撃だと受け取った。そして自分にはそれを受け止める責任があると思ったのね。不思議な方です。周りに何かあれば絶対に見逃さないのに、自分のことは後回し。その元凶が忠臣のような顔をしてあの方の側にいるのよ、酷いと思わない? だから私は、あの方に対する自らの背徳を忘れぬため、首輪を望んだのよ。二度と裏切らぬように」


 まるで本当に首輪があるかようにカリーナさんは自分の細い首に指を滑らせた。優しげな表情は消え、恍惚が浮かぶ顔には小さな唇が艶めかしく震えて見えた。

 本人から話を聞いてさえ、カリーナさんの気持ちがわからなかった。詳しく聞くべきだったかもしれない。だけど、どこか怖くてやめた。ただそれでも、こう聞いた。


「本当に束縛が欲しかったんですか?」

「ふふ、そうね」


 カリーナさんは笑みを戻して答えてくれた。次はもう言葉が見つからなかった。すると、周りで聞き耳を立てていた女生徒達が、小さく「いいなぁ」とささやく声が聞こえる。それが何を意味するのか、僕にはよくわからない。ただ、それ以上は深入りせず、報告すると言ってその場を離れることにした。

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