第42話
「アリシア妃殿下。リアナを侯爵家の養子にしたこと、私との婚約を破棄すること、これらは王家の名乗りで口にされました。正式なものと受け取っても宜しいのですね?」
おそらく、さくら様はこうなることを予想していたのだろう。どのような結果を望んでいたのかはわからない。
返事はすぐになされず、その綺麗な横顔には躊躇いがあった。それでも視線は外さず、妃殿下は一呼吸置き、静かに口を開いた。
「グレース」
妃殿下はそれまでの寄り添う姿勢を改め、王太子妃の発言であるよう振る舞いを変えた。
「王家は常に国全体の利益を優先します。それがどれほど厳しい決断でも、あなたも受け入れるべきです。今回の決定があなたにとって不利益なのは理解していますが、国と国民の安定が最優先です。貴族として、あなたの協力が必要です」
さくら様の顔に冷笑が浮かぶ。けれどすぐにそれは消え、再び無機質な表情に戻った。
「つまり、王家のために犠牲を強いられるのが、当家の役割だと仰るのですね」
「王家と貴族が共に歩むためには、時に苦渋の決断が必要です。それが私の立場です。あなたにとって厳しい現実であることは理解していますが、私はできる限りあなたを支えるよう、陛下に働きかけてきました。しかし、あなたの行動次第では、王家の信頼を失うことになりかねません」
目を細め、扇子の先だけを唇に重ねる。いくら小柄だからと言って、それだけで隠せるはずはない。声もなく『つまらない』と動くのが見えた。
いったいさくら様が何を考えているのかわからなかった。その瞳の奥には何の感情も見えない。せめて激昂でもあればまだ同情が引けたかもしれない。しかし、終始冷静な様子に、向けられる目は冷ややかなものだった。
そして、飽いたように表情は冷たさを増し、言葉は抑揚を失っていく。
「ありがたいお言葉ですこと。さて、答えを頂いておりません。これらの決定は、ローゼンベルク侯爵家の当主、そして私に一度も確認されず、王家によってすでに決められたもの——間違いありませんか?」
次の言葉までは少しの時間待たされた。周りの沈黙が、どうか違ったものであって欲しいと願うようだった。だが、その願いも叶うことはなかった。
「ええ、陛下はお認めになられました。特に実績のない子爵家に、王族を降下させることは認められません。リアナの養子については、爵位の付け替えが適しているとの仰せでした。婚約についても見直し、恐らく差し替えが行われるでしょう」
「ふふふ、国は正式な婚約者である私には全く触れもしませんでしたのに、リアナになると態度が変わるのですね。婚約の解消には公式な記録に残す必要があります。事由書にはどのように書かれたのでしょうね。知らぬ間に増えた義妹、付けられたであろう悪評、そして婚約者と家まで奪われる。華やかな立身出世の裏にはこのような根回しがあったのですね。それほどまでに私は、いえ当家は悪役として仕立て上げられた。まるで、出来の悪い戯曲を見せつけられているかのよう。御存知ですか? グレース・ラヴァレンを養子に迎え入れるには、随分と厳しい手続きを踏まされ、貴族院からは多額の寄付さえ要求されました。今回はそうした手続きや読み聞かされる説明、人を集めた調印の場は一切ありません。不思議ですね、同じ義妹を迎えるというのに、何が違ったのでしょう。これが、前もって周到に計画された結果なのでしょうか。それがここにきて明るみに出た理由とは……例えば、間もなく教会から発表される、流行病の寛解——」
「グレース! あなたがもう少し和をもって——っ!?」
饒舌な口を遮るように割り込んだ声を、今度はさくら様の扇子が鋭く妃殿下の喉元に突きつけ、止めさせる。それはあまりに突然で、予想外だった。会話の途中で言葉を遮るのが礼を失するのなら、道具を使って相手を黙らせるのは、さらに不敬に当たる。けれど、この場で不快な視線を向ける者はいなかった。
なぜなら、妃殿下が止めても知る人はすでに知っている。グレース様の研究によって流行病の原因は既に明らかにされている。『神の悪戯で眠らされ、自然に
だが、この出来事を知る者はまだ少ない。それなのに、妃殿下が意図的に言葉を遮ったことで、向けられる視線は冷たかった。
「私に対する陰口や悪意ある言葉は、すでに十分に聞かせていただきました。これ以上、意味のない言葉は不要です。アリシア妃殿下、他に言っておくべきことはありますか?」
「ごめんなさい、私にもう少し力があれば……」
それこそ意味のない謝罪だった。この場に現れたアリシア妃殿下は、ただ形式的に述べるだけ、何一つ誠意が感じられない。誰の協力者とも味方とも言わず、彼女の言葉はすべて空回りしていた。
僕は、彼女のことを過大評価していたのだろうか——そもそも、妃殿下はグレース様を庇うほど親しかったのだろうか?
お二人の将来は、王妃と王弟の妃という立場にあった。全く交流がなかったとは思えない。だけど、グレース様が簡単には人を信用しないという噂は聞いている。姉によれば、相手の表裏を見抜くのが得意で、弱者にしか働きかけをしない。そして、対等以上の相手には敵意を抱くのだという。
実際、本物のグレース様とシャンティリー王女殿下とは犬猿の仲だと聞く。もし、妃殿下が今の状況、彼女の正体を知らないとすれば……これらは全て即興の演技——
さくら様の手の中で扇子が再び広げられ、彼女の瞳がゆっくりと細められた。
「お祖母様、話はお聞きになられましたね」
その言葉に応じるように、彼女の背後に控えていた女性が、ゆっくりと一歩前に進み出てくる。
「ああ、聞いていたよ。十分にね」
その声がアリシア妃殿下の瞳を見開かせた。ランデンベルク夫人が一歩前に進むたび、その顔色は青ざめていく。
「……まさか、オリヴィア・ランデンベルクッ!?」
気付かなかったのは無理もない。さくら様が身に纏う赤い豪奢なドレスが否応なく目を引き、これまでの狼藉とも言える振る舞いがランデンベルク夫人の気配を薄れさせていた。けれど、夫人が声を発しただけで、立場は入れ替わった。その存在感は一気に膨れ上がり、会場全体が獰猛な獣の狩り場を思わせた。
背中を這う冷たいものが火傷したようにヒリと痛みに変わる。
「では——」
「好きにしなさい。ランデンベルク家はベルク三家の剣にして盾。誓いを忘れたヴァンデルベルク家に忠義は必要ない」
見慣れた呼び鈴が指先に差し出され、彼女はそれを迷うことなく一振りした。その音は、この場にそぐわないほど心地よく、リリンと会場に響き渡る。
「誓い? グレース、あなたは今、何を——」
「アリシア。私ね、監獄の塔に閉じ込められたこと、今となっては貴重な経験だったと思っているわ。けれど、自由を奪われたことだけは、許すつもりはない。『これは王家の過失にするといい。うまく取引に使いなさい』——あなたはそう言ったわね。誰に言わされたかは聞かない。でも、その言葉、覚えておきなさい」
これを口にしたのは誰だ?
僕の知るさくら様は冷淡に振る舞うことはあっても、本音は優しい人だった。怒りを滲ませても、切り捨て、距離を置く、リアナさんに対してしてきたのはそれぐらいのはずだった。
アリシア妃殿下は言葉を失い、ただ立ち尽くしている。そして、それこそが目的だったように、グレース様の顔をしたまま蠱惑な笑みを浮かべた。
ゴクリと唾を飲む音がした。それは誰でもない、自分自身の喉からだった。
……僕は誰に恐怖した?
さくら様がゆっくりと立ち上がる。それだけで空気が変わった。ぐるりと周りに目を向けるだけで人々は後退り、まるで彼女の周りに見えない壁ができたかのようだった。人に囲われた輪の中には、妃殿下を除けばリアナとニールセン殿下の取り巻きだけが残っている。ほんの少し前まで近くにいたカリーナさんやミスティアさん、そしてコーデリアさんの姿も見当たらない。
その内に居なければならない僕は、どうかこのまま何も起こらないでくれと願うばかりだった。
だけど、現実は非情だった。
「皆様、私はローゼンベルク侯爵家の長子にして、当主代行を務めるグレース・ローゼンベルク。この場で目の当たりにした所業、そしてこれまで当家が受けてきた仕打ちを、一人の令嬢として、また貴族の一員として、黙って受け入れることなど到底許すことはできません」
さくら様は折り畳まれた扇子を手のひらに強く打ちつけ、小さくない音が場に響く。
「よって、私はここに新たな道を歩む決意を示します。ローゼンベルク侯爵家及びその領地は、エルドリア王国から離反し、その名を変え、以後ベルク侯国とする」
会場全体の空気が凍りつく。僅かながらにあった、王家に配慮する気配は霧散した。
……当然だ。ローゼンベルク家の領地は、王国最大の耕作地を有し、食糧庫とも呼ばれるほど。交易も盛んで、貴族たちは何らかの形でその利益に頼っている。それだけに、彼らはさくら様の発言の意図を正確に理解し、顔を青ざめさせた。民に重い税を課し、悪徳貴族と囁かれていてさえ無言を貫いていたローゼンベルク家が、ついに腰を上げた。
ざわめきが広がり、貴族達が互いに耳打ちを始める。中には黙ったまま眉をひそめ、次の手を考え始める者もいた。会場全体が動揺に包まれる中、僕はただ、さくら様を茫然と見ているしかなかった。卒業パーティーの参加が、まさか国を揺るがす事態を目撃するとは思わなかった。
人々の思惑など構うことなく、再び口が開かれる。視線が一斉に集中する様は、さながら主人から下される言葉を待つ従者を思わせた。
やがて、彼女は一段と高い声で言葉を紡ぎ始める。
「侯国は、国民と共に、秩序と躍進を築き上げる。共にこの未来を歩む者には、安寧と繁栄を約束しよう。異を唱える者があれば、その覚悟を問う。私はベルク侯国、初代女王、グレース・ローゼンベルク。侯国の未来を守るためならば、私はいかなる戦いにも臆することなく立ち向かう」
『これは建国宣言だ』——誰かの声が耳に届いた。だが、その言葉が広がることはなかった。なぜなら、発言を待っていたかのように、二階から兵士が飛び降り、貴賓席を護るように八方を睨み渡したからだ。兵士達の装備が擦れて不快な音を立てる。それは通常の護衛任務ではなく、戦闘を前提とした装備を重ねている証。ここにいる貴族、子女達の誰一人として、その意味を理解しない者はいなかった。
なぜ、どうして、と頭の中で木霊する。この場で宣言したのは貴族を味方に引き入れるつもりではなかったのか。利益を得ようとする者はすぐにでも傅く選択をしたはずだ。それが必要もないとばかりに周りを敵視する……グレース様は貴族そのものを許さなかった。だから安易に行動する者を拒んだ。そして関係性を壊した。ベルク侯国は自立した国家だと知らしめるためだ。
一人の女性を八人の兵士が護る。それは正しく王族を守護する近衛に見えた。そして頭に浮かぶのは、いつ、どこから新たな兵士が到着するのかという不安だった。
次に起こったのは、恐慌だった。兵士の近くにいた令嬢だけでなく、令息までもが青ざめ、離れようとして悲鳴と怒声を上げる。我先に逃げ出そうとする者もいれば、かろうじて子女達を庇おうとする大人たちもいた。しかし、その混乱も長くは続くことはなかった。
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