第41話
目の前にしても、あの方がさくら様だとは思えなかった。真っ赤なドレスに尖らせたような目付き。これまでに見てきた姿からは全くの正反対。丁寧な口ぶりで棘のある言葉を放ち、まるで見下すように殿下と対峙する姿。あれだけ慕われていたというのに、女生徒が近寄らせないことが自分の意志だと全身で表していた。
きっとあの姿は一時的なもの。そう思っても一歩が踏み出せなかった。生徒会長のコーデリアさんを除けば、近寄れたのはミスティアさん、カリーナさん、カタリナさんの三人だけ。彼女達はさくら様には何も言わない。さくら様も侍ることを拒まなかった。その信頼の中に入れない自分が、ひどく劣って見えて悔しかった。
けれど、自分以下の人間がいる。情けないことに、その姿に安堵してしまった
「罪を認めるがいい。おまえはリアナに対して、貸与品の損壊、また紛失させ、その責を彼女に強いた。間違いないな?」
「いいえ、殿下。そのような事はしておりません。それに責と仰いましたが彼女が弁済したと言いましたか? その代金は私の私費で支払っております。その後、学園に備品の数が増えたこと、ご存知ありませんか?」
「それは賄賂だろう!」
「それのどこがいけないのです? 賄賂と寄付の違いなど、望むか自発的かの違いでしかないではありませんか。提供した物を使う必要があれば、叱責ではなく、始末書で済ませていただくよう、お願いしました。これまで感謝の言葉は受け取りましたが、批難の言葉はここに来て初めてのことです」
「ああ言えばこう言う……これほどの数の訴えがあるのだ。認めれば楽になるのだぞ!」
殿下の持つ紙には厚みがあり、しっかりと掴まなければ溢れそうなほど。彼等の相談はいつも生徒会室で行われ、遊び呆けていると思わせていたおかげで、深く関わっていない。反対にどのような内容が書かれているのか僕に知る由もなかった。
「…………なるほど、そういうことですか」
さくら様がぽつりと呟く。それを見た殿下は口角を上げた。
「認める気になったか?」
「いいえ。ひとつずつお答えするのが大変ですので、一度に全部仰ってください。それまで一言も口を挟みません。では……話しなさい」
そう言って、さくら様はゆっくりと来賓席に向かい、ひとつの椅子に腰掛けた。扇子を取り出して殿下に向けると、それは容易く激昂した。二人が対峙する姿はまるで女王と謁見する不敬な貴族のよう。さくら様は殿下が口を開き始めると扇子を開き、一つのことを聞き終えると理解したと言わんばかりに、パシリと閉じる。そして、殿下が口を開くたびに、扇子を開き、パシリと閉じる。それを繰り返した。
ひとつひとつなら時間をかけて言葉を増やしたのだろう。だけど数行しか書かれていない証拠では、次々に流れていき、罪を問うというのにはあまりにも軽かった。
『あの程度で罪だと言うのか』
ボソリと誰かの呟きを耳が拾う。
『老朽化を見過ごしたから怪我をした?』
『東屋の管理は生徒会だろう!』
初めは確かに持ち物の損壊や紛失、危害が加えられるといった個人的なものだった。それが水増しするように備品について、生徒会が管理すべき設備について話が及ぶと呟きは増えていくばかり。
元々生徒会の管理する設備は高価なものが多い。それは歴代の会長や役員達が高位貴族の自負から、調度品に高価なものを選んで据えたもの。そのため、学園では維持するかどうかを生徒会に委ねている。必要があれば手入れをし、不要であれば処分させる。そういった基本的なことさえ、蔑ろにした。
訴えが正当で、さくら様が非を認めていれば、あるいは誤魔化せたかもしれない。しかしどう見ても、自分達の不備を押し付けているようにしか見えなかった。
だと言うのに。
パシリと扇子が閉じられ、殿下の言葉が止まる。手に持っていた訴えは全て読み上げたのか、紙束だったものは布切れのように握り締められていた。
「いいでしょう。その全てに証拠があるのでしたら、もちろん学園に、学園長に話は通っているものとします」
「待て! これは生徒間での話だ。故に生徒会で話を止めている。学園を巻き込もうとするな!」
「ふふふ、おかしなことを仰るのですね。それもいいでしょう。では、証拠も報告もその手の中にしかない」
「そうだ! だが、お前に渡すことはない! その必要もないからな!」
「ええ、ええ。それはそうでしょう。私もそのようなものは必要ありません。そうですね、一つお尋ねしますが……」
雰囲気が変わった。開かれた扇子で口元が隠されたけれど、僅かに見えたそれは悪意のある笑みだった。
「そのすべては、私が学園で行ったこと。そう仰るのですね?」
「その通りだ! 学外の事は一切関係ない!」
わざわざ口したのは、女郎蜘蛛の会に乱入した事、盗賊の襲撃を先んじられた事を言われたくなかったからだろう。それをさくら様が促した理由はなんだ?
乱入したことは偵察に出ていて後で知らされた。追い返されたと不満気に言っていたけれど、当たり前だろう。僕でも参加を認められない、女性だけの会なんだから。エリ様ならともかく、男性に囲われているリアナさんが受け入れられるはずがない。
襲撃については、姉が張り切りすぎた。本人は隠しているつもりだろうけど、過保護だけじゃなく、家族愛も重い。僕としては盗賊の情報を王女殿下に知らせて、巡回を増やしてもらおうとしただけ。なのに、兵士と共に姉が討伐に来るとは思わなかった。結局、さくら様が指示した兵士が盗賊を抑え、それを殿下達が挟撃……いや横取りしようとした。成功しなかったのは、王都の兵士が間に合ったからだ。
パシリと扇子が閉じられ、女王の沙汰が下される。
「では、その証拠は虚偽で作られたことになります」
「なんだと!?」
「昨日、私は学園長に御挨拶をさせていただきました。その際、今後一切の問題を学園に持ち込ませないため、私に関する全てを抹消するようにお願いし、受理されました。これは貴族典範における未成年及び子女付帯条項に準じます。『学園を卒業しなかった者は、その過程を問わず同学園での実績を認めないものとする』、放蕩貴族に対して虚偽による欺瞞や買収などされないよう厳しく定められた一項目です。私は放蕩貴族であり、学園を卒業できなかった。それ故に私が提供したもの、支払ったもの、損害を与えたもの、その全てはなかったことになります。つまり、私はこの学園に存在しなかったのです。公式に残る事はありません」
まさか、自らそんな選択をするなんて!
貴族典範を熟知していなくとも、卒業できなければ誇れるものがなくなるのは周知の事実。それを逆手に、全てを抹消させてしまうなんて信じられない。学園全体の、特に女生徒の成績が伸びて評価された。各催しの手際が向上したのは交流を促したさくら様あってのこと。グレース様になってからも派閥による治安維持、別の派閥であった不正の告発、それにより癒着商人の脱税が暴かれた。そのどれもがなかったことになる。貴族にとって実績は何よりも得難いもの。それをどうでも良いと切り捨てる。
そんなことをすれば卒業出来なかったという悪名以外……まてよ、リトル・グレース様はどうしてこちらにいらっしゃらない? 留学生といえど、今はローゼンベルク家の養子。卒業パーティーに参加しないのはよほどの理由があってのこと。何より、彼女は本物のグレース様だ。その気になれば、さくら様以上に強権を発動させられる。何かあるはず。僕は何を見落としている?
さも愉しげに殿下を眺めているさくら様を見て、背中に流れる汗がひどく冷たいものに感じられる。
「さぁ、続けましょうか。エルドリア王国第三王子ニールセン・ヴァンデルベルク殿下。御身の発言は非公式とはされませんでした。誰かが記し、残してくださいます。仰りたいことがあれば、どうぞご自由に」
「ふざけるな! 俺を王子と知ってそのような口を聞くなど、あっていいものか!」
「おかしなことを仰いますのね。私、常日頃より殿下の身分を忘れた事なぞございません。忘れていたのは御身ではございませんか?」
さくら様がこうまで煽るのは失言を引き出すのが目的だとわかる。すでにどれほどの言葉を引き出しているかわからない。普通の子息なら取り押さえて閉じ込め、外出させないだろう。それが出来ないのは本人の言う通り、王子だからだ。誰も止められず、その身をボロボロと崩していく。
そして遂には口にしてはならない言葉を吐き出してしまう。
「もう我慢の限界だ! グレース! お前の顔など見たくもない! エルドリア王国第三王子ニールセン・ヴァンデルベルクの名において、お前との婚約は破棄する!」
ざわめいていた会場が一気にどよめきへと変わった。二人の不和はすでに周知の事実。それでも表面上は貴族としての義務を受け入れるものだと思われていた。そのようにさくら様が振る舞ってきたからだ。長らく耐え続け、婚約を断るなら彼女のほうだ。それがまさか、殿下が公の場で婚約破棄を口にするとは、想像に至らなかった。
少し考えれば、誰にでも分かる。婚約とは家同士の契約だ。単なる個人の問題ではない。このことはエルドリア王国の政治的安定を根底から揺るがす。
ローゼンベルク侯爵家は、これまで王国を支えてきた柱の一つ。特に、財政的に困難に陥った王国を支えてきたことは、貴族であれば知っていて当然だ。グレース様がニールセン殿下の婚約者であることは、ローゼンベルク家と王族との強固な関係を象徴していた。それが崩れるなら、王国の中で支持する貴族たちの間に不信感が広がり、最悪の場合、内紛すら起こりかねない。ニールセン殿下の一言には、それほどの重みが……いや、無責任さしかない。
ふと、殿下の言葉に怯えるリアナさんの姿が目に入った。彼女も――エリ様もこれは望んだことなのか?
誰もが戸惑いを隠せない中、唯一動じなかったのはグレース様——いや、さくら様だった。彼女はただ静かに殿下を見つめ、リアナさんには一瞥もない。まるでこのことを予見していたかのように、穏やかに微笑んでいた。
「大人しくしていれば、義姉として残してやろうと思ったが、同じ空気を吸っていると思うだけで不快だ! 早々に排除してやる!」
「ニールセン殿下! 義姉とはどう言う事でしょうか? まさかリトル・グレース様を——」
「ライトか。遊んでばかりだったおまえが知るはずはないな。安心しろ、あんな子供、相手にするはずがない」
良かった。あのグレース様に何かしようものなら、外交問題になる。なにより、さくら様も許そうとはしない。
そんな外野の思惑や心配はきっと届かないのだろう。舞台に上がった役者は自らを演じることしか考えていない。
このシナリオを描いた人物はどうしようもなく、悪意に満ちている。何故なら、最悪の決断はこれだけではなかったからだ。
「今日、この日よりリアナがローゼンベルク家の養子となった。侯爵家を継ぐのは俺とリアナだ。陛下からは正妻としてグレースを残すように言われたが、知ったことか!」
リアナさんの肩を強く抱き、口吻を交わすように顔を寄せる。彼女は戸惑い恥ずかしがるように顔を伏せるも、否定はしなかった。
「お待ち下さい! それは貴族院が、国王陛下が認められたと言うことですか!?」
「当然だろう。法に則らねば結婚もできないではないか。俺はリアナを愛している。その障害は何があろうと取り除く!」
コーデリアさんの焦りを全く意に介さないなんて、本当に滅茶苦茶だ。何が法に則らねばだ。当主が病床なのをいいことに、勝手に養子を決めるなんてあり得ない。当主代理としてグレース様がおられるのに、それを排除する? どんな理由があってそんなことができると言うんだ!
それを貴族典範を管理する貴族院が認め、国王陛下が許した。これは一人の令嬢を排除するだけじゃないこと、分かっているのか? それもこの場で、これから本当の貴族になる卒業生がいる目の前で口にする事か!
これは不正義だ。魔術を使ってでも殿下を拘束する。鳩尾に力を込めると、身体中に熱が伝わっていくのを自覚する。そうして、一歩を踏み出そうとした。
しかし、凛とした声が僕の、会場中の行動を止めた。
「お待ちなさい」
コツコツと階上から足音が伝う。その音を出した人物を見ようと顔を上げかけ、すぐ下に向けた。
貴賓席の二階、そこには高位貴族の個室がある。今日の来賓は身内ばかりで、二階は使われる事はないと思っていた。それなのにその人物はいた。利用できる人物など、僅かしかない。
「ニールセン王子。情熱的な訴えは陛下の前でなさい。このような場で声を張り上げることではないわ」
「義姉上、どうしてここに……」
「今日はあなたたちのお祝いの日でしょう。少しは落ち着いたらどうかしら?」
熱気が覆われていた講堂内が急激に温度が下がっていくようだった。
この国で殿下が義姉と呼べるのは王太子妃アリシア殿下しかいない。気づいた誰もが頭を下げていく。
「お義姉様!」
「リアナ、人前でその呼び方はやめなさいと言ったでしょう。話は後、今は大人しくしておきなさい」
「ごめんなさい、アリシア様」
なんだろう、この不自然さは。まるで甘やかせてるように見えて温度がない。どちらも表面を取り繕っているようにしか見えない。これが貴族女性の本当の付き合いというのなら、さくら様を慕う女性達が側にいたがる理由がわかるような気がする。
妃殿下は歩く足を止めず、椅子に座ったままのさくら様の前に向かう。そして、はっきりとこう言った。
「ごめんなさい、グレース。私では止められなかったわ」
再び大きなどよめきが起こる。まるで妃殿下はさくら様を護ろうと受け取れる言葉を発したからだ。だけど返される言葉はひどく落ち着いたものだった。
「そう。期待外れね」
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