第29話 「オラクル」

第29話 「オラクル」


 目の前に広がる暗灰色の世界に、ボゥと低い音が止まることなく響いている。

 左右に壁はなく、天井も見当たらない。地面にはやや明るめの白っぽい書類が至る所に散らばっている。


(踏んではいけないものかしら?)


 足を動かそうとして、違和感を覚える。応えてくれるものがない。そこに足は見当たらなかった。


(幽霊?)


 手を見ようと持ち上げたのに、いっこうに近づいてこない。


(視覚、意識はあるのに、存在してないの……?)


 あたりに見えるものは落ちている書類だけ。漂う意識を向けると、書かれていたのは記号や数字の羅列。それとがある。


(ここは……?)


『ここはsandboxです』


(誰!?)


『sandbox用debug program sdpg0と設定されています』


 音もなく現れたのは、二足で歩く耳の長い白うさぎの人形。上半身だけ服を着て、顔には片眼鏡、大きな懐中時計を首から下げ、落ちている書類を一枚一枚拾い集めている。小さな手で十枚ほどを拾ったあとは、二つ折りにするとピコンと小さな音を立てて書類が消えた。認識してからは、動く度にキュポキュポと床を踏む音がする。キュポキュポピコン、キュポキュポピコン、とコミカルな音が続く。

 聞きたいことは幾らでも思いつくけれど、


(どうして、私はここに?)


『chrGrace_SakuraMiyoshiはpeace_makerにより、sandboxに移動されました』


 抑揚のない無機質な音声が耳……は、ないから、意識に流れ込んでくるのね。だけど、言ってることがさっぱり。

 最初からやり直し。


(もう一度聞くわ、あなたは誰?)


『sandbox用debug program sdpg0と設定されています』


(さんどぼっくす、砂箱……あ、砂場ね。でばっぐ、ぷろぐらむ、えすでぃぴーじーぜろ、どれが名前なの?)


『LOGに出力されるsignatureはsdpg0と設定されています』


(えすでぃぴーじーぜろ……機械的な名前なのね。好きに呼んでも良いかしら?)


『aliasは任意に設定が可能です』


(……なら話し手、オラクルと呼ぶわ)


『chrGrace_SakuraMiyoshiのshellを設定。alias sdpg0にオラクルを登録しました』


(ありがとう。そのしーえいちあーるぐれーすって、私の事よね。その名前も変えられる?)


『変更にはsuperuserの権限が必要です』


(私にその権限はないの?)


『chrGrace_SakuraMiyoshiには権限がありません』


(それなら、音声の、オラクルが読み上げるときだけ変更してくれないかしら。毎回最後まで聞くのは時間がかかるわ。)


『変更は可能です』


(よかった。では、オラクル、私のことはさくらと呼びなさい)


『debug program sdpg0のstring dataの一部をreplaceします。chrGrace_SakuraMiyoshiをさくらに変更しました。ご質問を、さくら』


◆◆◆


 オラクルと話してわかったことは、ここは私のいた世界とは違う場所、どこかの開発サーバーだということ。

 元の場所に戻せないのかと尋ねても、この砂場sandboxは閉鎖空間で、外部に影響を与えることは出来ない。必要に応じてオーナーが出し入れする場所。

 つまり、私はあの世界から取り出され、直接管理下に置かれたということね。

 用途を聞けば、実験的なプログラムをテストするのに使用されるそうだ。落ちている書類に見える物は過去に入力した数値やコメント。オラクルは時間経過で不要と判断されたデータを削除して回っていた。

 その姿や周りにあるものは、あくまでも私に恐怖感や嫌悪感を抱かさないため視覚化されたもので、実体は無いのだという。

 「この場にいる、つまり私は実験動物?」と聞けば、ここにあるのはデータだけ、生物の活動はありませんと答えられた。


 そのオーナーというのが、peace_maker。名前からすると治安維持——あの世界の管理者なのでしょうね。彼がグレースの腕を掴んで強制回収——排除したということ。


 きっかけになったのは何か——思いつくのは当然「女郎蜘蛛の会」。

 あの活動がなんらかの影響を与え、私はルール違反を犯した。もっとも、教えられていないルールに従うことなんて無理な話。

 だけど、強制的な対処をするぐらいだから相当なことよね……

 私の知らない要素があの会合で明らかになった、つまるところ——


(オラクル、設定のなかった人物達に、名前や性格設定を追加で用意するとゲームってどうなるの? 例えば、登場人物を百人で始めたところ、二百人に増えた場合で検討して)


『さくらの設計したゲームには百人が登場する。ゲームの進行により、登場人物が二百人に増えた。スタート時に確保したメモリが増加したデータに対して不足があった場合、メモリが破損します。また、安定性を担保した設計の場合、不必要と判断されるデータは圧縮、または削除されます』


 確かにやり過ぎね。危うく破損——詳しく聞けば、ゲームが壊れるって説明された——さもなければ一部の人を失うところだった。もしかすると、既に実行されているのかもしれない。だけど、ここでは確認のしようがない。

 エリのように、もう少しパソコンやゲームの仕組みについて勉強しても良かったかもしれないわね。今更遅いのだけど。


 peace_makerによって私を排除したところで、本物のグレースが復帰した今、ゲームの進行に問題はない。それどころか拗らせたグレースは、これまで実行しなかった行動を……私の友人達を使って始めるかもしれない。いえ、私が彼女なら女郎蜘蛛の会を使うわね。


 初めは前回の参加者に声をかけて、同伴者には新しい参加者を招かせる。前回の参加者が好意的に勧めてくれるお陰で、新しい参加者は疑いを持ちつつも協力してくれるでしょう。

 まずは、『グレース様が不憫』という共感を生む。そうすれば、『彼女を慰めるために』という大義名分のもと、ささいな悪戯虐めが始まる。次第に規模は大きくなっていくでしょうね。

 おまけに今の状況は最悪とも言える。図書館ではリアナを庇うニールセンが見られた。あれほどまで仲の良いところを見せつけ、正しい行動を取ったはずのグレースを怒らせた。あの場にいた私を慕う女生徒達が思い浮かぶことなど、幾通りもあると思えない。既に動き始めている子も居るかもしれない。

 一年目のように早い段階で辞めさせれば、予想する未来はこないかもしれない。けれど、グレースが自分に都合の良い事を辞めさせると思えない。それどころか、更に煽るのは目に見えている。そしてニールセン達に妨げられ、失脚させられる。手足のように使ってきた令嬢達から見限られ、遂には全生徒から断罪される。まさしく身から出た錆ね。これなら煽動するのは女生徒でなくてもいい。それこそ名もないモブで十分トリガーとなってくれる。


 かくして、グレースは消息不明になり、憤ったミスティアとシャンティリーが行動を起こす……ってところかしら。ミスティアを真っ先に引き入れたけれど、危険な因子が残っていてもおかしくない。シャンティリーには将来、女郎蜘蛛の会を引き継いでもらいたかったけれど、時間が足りなかったわね……カリーナが采配してくれれば、まだ最悪の国が滅ぶ事態は避けられるかもしれない。フェリシアの伯父を頼って、外国勢力に介入してもらう? やはりその場合、リアナが火種になってしまう。

 あぁ、エリ、エリ、エリ……あなたはどう動いてくれる?

 いえ、人に頼るのは駄目だと決めたはず。問いかけた質問でさえ、余計な言葉を付け加えて問題を大きくする。最小限の行動で最大限の効果を挙げなければいけない。それには感情は不要——だったら、人でなければいい。この空間には、投げれば返してくれる相手がいる。


(オラクル、あなたの時間は有限?)


『あなたより永く維持することが可能です、さくら』

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