第28話 「消失」

第28話 「消失」


 久しぶりにリアナと対決するイベントがある日、私は学園内の図書館で幾人もの女生徒に囲まれていた。

 優雅な午後のひととき。久しぶりの学園での時間に、心が少し浮き立っているのがわかる。

 ちらりと視線を巡らせると、こちらを気にしながらも勉強をしている生徒が目に入った。

 集まっていた令嬢たちに「騒がないようにね」と静かに注意すると、きゃあと可愛らしい小さな悲鳴があがる。思わぬ反応にわざとらしく困り顔を浮かべ、そっと唇に人差し指を当てて見せると、コクリコクリと伝播する。

 私を慕う彼女たちの反応が、やけに微笑ましく感じる。

 ──そう、今日の私はとても機嫌が良いのねと、自覚できるほどに。


 二冊目の本を開き、少し読み進めたころ、不意に騒々しい音が耳に届く。

 予定通りの時間。

 図書館の入り口から、リアナと談笑するニールセンとカルフェスが姿を現す。

 その後ろにはシルヴィス、アインザック──そして。

 ──

 そこにいるはずのない、私の記憶にない「誰か」。

 瞬間、肌が粟立つ。喉の奥がざらつくような不快感が込み上げる。

 私の記憶には、そんな人物は存在しないはずだった。


 ——これは、誰?

 これが三年目であれば、ライテリックということもありえた。

 フラグを立てていれば、少年はリアナに懐き、ハーレム要員の一人となる──。


 ──だが、違う。

 このは、少年じゃない。


 背筋に嫌な汗が滲む。

 何かが、おかしい。何かが──間違っている。

 視線を向ける。

 その顔が認識できない。

 まるでピントが合わない映像を見せられているかのように、焦点が定まらない。


 ──これは、誰?


 次の瞬間、濁流のような感情が、私の中を押し流す。

 身体の裡から湧き上がる、強烈な憎しみ、妬み、怒り。

 赤黒い影が、視界を染め上げる。


 ——いけない。私が、彼女に、塗り替わっていく。

 状況を把握できないまま、主導権を渡すのは駄目——


 ──なぜ、そこにいるのは私ではない?

 ──なぜ、殿下はそれを許している?

 ──なぜ、私は追いやられる?


 立ちあがろうとする。だが、身体が動かない。

 押し戻そうとしても、びくりとも動かない。

 そして、静かに──意識が沈んでいく。

 引きずり込まれるような感覚。

 その奥から、私と同じ声音の別の声が聞こえた。


「図書館では静かになさい」



 グレースが目覚めた。



「え……あっ! ご、ごめんなさい!」


 怯えたようなリアナの声。

 ──グレースは、それすら許さない。


「グレース。久しぶりだな。蟄居させられたと聞いていたが、元気な様子で安心した」

「殿下……ありがとう、存じます。ですが、ここは図書館。皆様静かに学ぶ場所。お控えいただけますよう、伏してお願い、申し上げます」

「そうか、それは迷惑をかけたようだな」


 殿下、そのような言葉遣い、まるで平民ではないですか。

 それに──何故、を庇うのです。

 本当なら、そこに居たのは、私だったはずなのに──。


「グレース様、私も──」

「黙りなさい」


 一瞬、空気が凍りついた。

 そうだ。静寂こそ、常であるべき。

 しかし、無作法者がそれを邪魔する。


「あなたは殿下よりも後に謝罪するつもりですか。この場において、最上位の方よりも、自分の謝罪が必要だと? どれほど傲慢で……見苦しいにもほどがあります」


 ああ、憎い。どうして、私がこのような感情を持たねばならない。一度は手に入ったもの、なのにどうして離れる。どうして、どうして——

 裡なる異物の声が疎ましい。私にとっておまえこそ異物だ。代われだと言うのか? この身体は私のもの。よくもこれまで勝手をしてくれたものよ。

 だが、これまでのお膳立てには感謝しよう。


「殿下、私は用事ができましたので、これにて、御前を失礼したく存じます」

「まて、グレース! リアナに……っ!?」


 久方ぶりに直視すると、戸惑いの顔が目に入る。

 殿下が言葉を止めた……?

 私程度で怯んだというの?

 ——本当に、許しがたい。


 沈黙を諾と受け取り、図書館を後にしようとする。


 その瞬間だった。

 ──足元の感覚が、奇妙なものへと変わる。

 硬質な床を踏んだはずの足が、まるで踏み抜いたように感触がない。

 足先からずぶりとまるで世界が、ゆっくりと傾いていくような錯覚。


 そう、これは錯覚だ。

 人前で無様を見せられれるわけがない。

 顔を上げ、一歩を踏み出せば、途端に元に戻る。


「──グレース様」


 すれ違いざま、扉の前で異物が嫌悪した男が腕を掴む。

 ──アレに同意したくはないが、不快である。


「腕を放しなさい、無礼者」


 だが、聞こえてくるのは謝罪ではなかった——


「——接触成功——管理者モード——アクセス:SAKURA_MIYOSHI——確認:強制回収、実行」


 ……何?


 瞬間、世界が暗転する。

 足元が僅かに光るのみで、掴まれていた腕の感覚さえない。

 背筋が凍りつくような、ただならぬ違和感。


「──っ!?」


 思考を巡らせる間もなく、体の芯に何かが触れる。

 冷たい手が背後からすべり込むように、私の中にある何かを引きずり出そうとする。

 ──誰?  何が、私に触れている?


『ダメ……まだ……!』


 声が、どこか遠くから響いた。


 誰かの叫び。

 その声は、次第に掠れ、霧のようにほどけていく。


『エリ——』


 暗転した世界に光が戻る。

 それは私が足を踏み出した位置と何も変わることはなく、ただあの不快な男の姿も消え失せた。

 しかし、決定的に違うものがある。

 それを口の端にのみ表すことを許すと、図書館を後にする。


 これほどまでに声を上げて笑いたいことがあっただろうか。


 私の中から美良さくらの意識が完全に消えた!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る