第9話

 久しぶりにリアナと対決するイベントがある日、私は学園内の図書館で幾人もの女生徒に囲まれていた。勉強をしている生徒も目に入る。「騒がないようにね」と静かに注意すると、きゃぁと可愛らしい小さな悲鳴があがる。そっと唇に人差し指を当てて見せると、コクリコクリと伝播する。その姿がやけに微笑ましく感じる。今日の私はとても機嫌が良いのねと自覚できるほどだった。


 二冊目の本を開き、少し読み進めたころ、騒々しい音を耳にする。それは予定通りの時間。図書館に入ってきたのは、リアナと談笑するニールセンとカルフェス、その後ろからシルヴィス、そしてアインザックが姿を現した。シナリオ通りのイベント……ではない。異物がある。設定資料には存在しない人物が一人付き従っている。

 三年目であれば、ライテリックが入学してくる。フラグを立てていれば、少年は見知った顔としてリアナに懐き、彼女を取り巻く男性グループの一員となる。ハーレム要員としてはそれで全員。この異物について、私は全く存在を把握していない。それどころか、なぜこんなに不快に感じるのかわからない。


 そして、突然、自分でも悍ましいと思う気持ちが身体の裡から湧き上がる。酷く濁った感情、憎み、妬み、怒り、赤黒い闇が私を染めていく。立ちあがろうとして身体が動かなかった。振り払おうとしても、びくりとも動かない。どう足掻こうと私に抵抗などできなかった。やがて体が重くなる、その脱力感のあと、意識は残ったまま——彼女グレースが目覚めた。


「図書館では静かになさい」

「え……あっ! ご、ごめんなさい!」


 そうではないだろう。礼儀を、受け答えもまともにできないのか。ここで、おまえは何のために学んでいる。その態度、誰の傍に居て、許されると思っているのか。私が——


「グレース。久しぶりだな。蟄居させられたと聞いて心配していたんだ。元気な様子で安心したよ」

「殿下……ありがとう、存じます。ですが、ここは図書館。皆様静かに学ぶ場所。お控えいただけますよう、伏してお願い、申し上げます」

「そうだな。騒々しくして悪かった。大人しくしておくよ」


 殿下、そのような言葉遣い、まるで平民ではないですか。それに、何故、それを庇うのです。本当なら、そこに居たのは、私だったはずなのに——


「グレース様、私も——」

「黙——りなさい。あなたは殿下よりも後に謝罪するつもりですか。この場に置いて、最上位の方よりも、自分の謝罪が必要だと? どれほど傲慢で……見苦しいにもほどがあります」


 ああ、憎い。どうして、私がこのような感情を持たねばならない。一度は手に入ったもの、なのにどうして離れる。どうして、どうして——

 裡なる異物の声が疎ましい。私にとっておまえこそ異物だ。立ち去れだと? この身体は私のもの。よくもこれまで勝手をしてくれたものよ。

 だが、お膳立てには感謝しよう。


「殿下、私は用事ができましたので、これにて、御前を失礼したく存じます」

「まて、グレース! リアナに……っ!?」


 久方ぶりに直視すると、戸惑いの顔が目に入る。

 殿下、私程度で怯むなど、本当に——

 離席を認めさせると、扉の前で異物が嫌悪した男に腕を掴まれる。同意したくはないが、不快である。


「グレース様」

「腕を放しなさい、無礼者」


 見たことのない従者か。だが、この感じは——


グレース・ローゼンベルクSAKURA_MIYOSHI、あなたはやり過ぎた。しばらく休みなさい」


 まるで蝋燭の火を吹き消すように、胸の奥に僅かに残っていた意識が消え失せた。


◆◆◆


 目の前に広がる暗灰色の世界に、ボゥと低い音が止まることなく響いている。

 左右に壁はなく、天井も見当たらない。地面にはやや明るめの白っぽい書類が至る所に散らばっている。


(踏んではいけないものかしら?)


 足を動かそうとして、違和感を覚える。応えてくれるものがない。そこに足は見当たらなかった。


(幽霊?)


 手を見ようと持ち上げたのに、いっこうに近づいてこない。


(視覚、意識はあるのに、存在してないの……?)


 あたりに見えるものは落ちている書類だけ。漂う意識を向けると、書かれていたのは記号や数字の羅列。それと日本語がある。


(ここは……?)


『ここはsandboxです』


(誰!?)


『sandbox用debug program sdpg0と設定されています』


 音もなく現れたのは、二足で歩く耳の長い白うさぎの人形。上半身だけ服を着て、顔には片眼鏡、大きな懐中時計を首から下げ、落ちている書類を一枚一枚拾い集めている。小さな手で十枚ほどを拾ったあとは、二つ折りにするとピコンと小さな音を立てて書類が消えた。認識してからは、動く度にキュポキュポと床を踏む音がする。キュポキュポピコン、キュポキュポピコン、とコミカルな音が続く。

 聞きたいことは幾らでも思いつくけれど、


(どうして、私はここに?)


『chrGrace_SakuraMiyoshiはpeace_makerにより、sandboxに移動されました』


 抑揚のない無機質な音声が耳……は、ないから、意識に流れ込んでくるのね。だけど、言ってることがさっぱり。

 最初からやり直し。


(もう一度聞くわ、あなたは誰?)


『sandbox用debug program sdpg0と設定されています』


(さんどぼっくす、砂箱……あ、砂場ね。でばっぐ、ぷろぐらむ、えすでぃぴーじーぜろ、どれが名前なの?)


『LOGに出力されるsignatureはsdpg0と設定されています』


(えすでぃぴーじーぜろ……機械的な名前なのね。好きに呼んでも良いかしら?)


『aliasは任意に設定が可能です』


(……なら話し手、オラクルと呼ぶわ)


『chrGrace_SakuraMiyoshiのshellを設定。alias sdpg0にオラクルを登録しました』


(ありがとう。そのしーえいちあーるぐれーすって、私の事よね。その名前も変えられる?)


『変更にはsuperuserの権限が必要です』


(私にその権限はないの?)


『chrGrace_SakuraMiyoshiには権限がありません』


(それなら、音声の、オラクルが読み上げるときだけ変更してくれないかしら。毎回最後まで聞くのは時間がかかるわ)


『変更は可能です』


(よかった。では、オラクル、私のことはさくらと呼びなさい)


『debug program sdpg0のstring dataの一部をreplaceします。chrGrace_SakuraMiyoshiをさくらに変更しました。ご質問を、さくら』


◆◆◆


 オラクルと話してわかったことは、ここは私のいたゲーム世界とは違う場所、どこかの開発サーバーだということ。

 元の場所に戻せないのかと尋ねても、この砂場sandboxは閉鎖空間で、外部に影響を与えることは出来ない。必要に応じてオーナーが出し入れする場所。実験的なプログラムをテストするのに使用されるそうだ。落ちている書類に見えるのは過去に入力した数値やコメント。オラクルは時間経過で不要と判断されたデータを削除して回っていた。「この場にいること、つまり私は実験動物?」と聞けば、ここにあるのはデータだけ、生物の活動はありませんと答えられた。

 そのオーナーというのが、peace_maker。名前からすると治安維持、ゲームの管理者の一人なのでしょうね。あの異物peace_makerがグレースの腕を掴んで最後に告げたのは、恐らく私に対しての言葉。


グレース・ローゼンベルクSAKURA_MIYOSHI、あなたはやり過ぎた。しばらく休みなさい』


 何をやり過ぎたのか、思いつくところは多かったけれど、私が表に現れたのを見計らったのだとしたら、きっとあのこと。


(オラクル、設定のなかった人物達に、名前や性格設定を追加で用意するとゲームってどうなるの? 例えば、登場人物を百人で始めたところ、二百人に増えた場合で検討して)


『さくらの生み出したゲームを基本に設定。その条件下で百人の登場人物データが、経過により二百人の登場人物データに増えた場合、確保領域が足りずメモリが破損します。また、安定性を担保した設計の場合、不必要と判断されるデータは圧縮、または削除されます』


 確かにやり過ぎね。危うく破損——ゲームが壊れるって説明された——さもなければ一部の人を失うところだった。もしかすると、既に実行されているのかもしれない。ここでは確認のしようがないわ。


 peace_makerによって私を排除したところで、本物のグレースが復帰した今、ゲームの進行に問題はない。それどころか拗らせたグレースは、これまで実行しなかった虐めを……私の友人達を使って始めるかもしれない。いえ、私が彼女なら女郎蜘蛛の会を使うわね。

 初めは前回の参加者に声をかけて、同伴者には新しい参加者を招かせる。前回の参加者が好意的に勧めてくれるお陰で、新しい参加者は疑いを持ちつつも協力してくれるでしょう。ささいな悪戯虐めから始めれば、抵抗感は薄い。次第に規模は大きくなっていくでしょうね。おまけに今の状況は最悪とも言える。図書館ではリアナを庇うニールセンが見られた。あれほどまで仲の良いところを見せつけ、正しい行動を取ったはずのグレースを怒らせた。あの場にいた女生徒達が思い浮かぶことなど、幾通りもあると思えない。既に動き始めている子も居るかもしれない。

 一年目のように早い段階で辞めさせれば、予想する未来はこないかもしれない。けれど、グレースが自分に都合の良い事を辞めさせると思えない。それどころか、更に煽るのは目に見えている。そしてニールセン達に妨げられ、失脚させられる。手足のように使ってきた令嬢達から見限られ、遂には全生徒から断罪される。まさしく身から出た錆ね。これなら煽動するのは女生徒でなくてもいい。それこそ名もないモブで十分トリガーとなってくれる。


 かくして、グレースは消息不明になり、憤ったミスティアとシャンティリーが行動を起こす……ってところかしら。ミスティアを真っ先に引き入れたけれど、執着するのは変わらなかった。シャンティリーには将来、女郎蜘蛛の会を引き継いでもらいたかったけれど、時間が足りなかったわね……カリーナが采配してくれれば、まだ最悪の国が滅ぶ事態は避けられるかもしれない。フェリシアの伯父を頼って、外国勢力に介入してもらう? やはりその場合、リアナが火種になってしまう。

 あぁ、エリ、エリ、エリ……あなたはどう動いてくれる?

 いえ、人に頼るのは駄目だと決めたはず。だったら、人でなければいい。この空間には、投げれば返してくれる相手がいる。


(オラクル、あなたの時間は有限?)


『あなたより永く維持することが可能です、さくら』


△△△


「なんとかエラー発生前に止められたな」

「……」

「だが、あれは強引すぎないか?」

「ゲーム内から確実にリジェクトさせるにはあれしかなかった」


「リジェクトじゃなく、保護しろよ。SAKURA_MIYOSHIを破損させたら意味がないんだぞ」

「……」

「クライアントにどう言い訳を用意する?」

「知らん。俺は保守に戻る。説得は任せた」


「ログはきっちり残ってるからなぁ。まぁフォローはなんとかしよう。それで今後の事だが……」

「彼女と話がしたい。どうしてあそこまで献身に到れるのか興味がある」

「そりゃまずいな。興味がある時点で負けだよ。彼女、少しでも興味を持った人物は間違いなく口説く。女郎蜘蛛の会は正しく蜘蛛の巣だったよ。シナリオに手を加えられる権限者は避けたほうがいい」


「だったら、俺かお前か? ティアちゃんとシャルちゃんを抱き合わせたことは礼を言いたいぐらいだが、行ってもいいか?」

「人、それを自爆という」

「俺が行こう。俺なら取り込まれても見てるだけだしな」

「おい、行くなら早くしろ。sandboxのログがやばい。テスト環境にどれだけ負荷かけてるんだ、あの女傑」


「sandboxのログなんて、勝手に消えるし、たいしたことないだろ。それにあそこゴミ置き場だしな。お前が書いて捨てたスクリプトと雑なメモ、どれだけあったよ?」

「シナリオのコピーは消去済みよね?」

「多分大丈夫じゃないか? 残ってるのデバッグ用のAIぐらいだろ」

「そのAIを使って、シミュレーションしてる! ログが滝のように流れてんだよ! キャラだけでどれだけ記憶容量割いてるんだ。おい、まさか、手当たり次第検証するつもりか!?」

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