酷い夢

路地表

酷い夢

 やっと起き上がれたのは、正午に差し掛かる頃だった。昨夜閉じ忘れたカーテンの向こうからは、擦り硝子によってぼやかされた太陽が、不気味にその縁を広げながらこちらを覗いていた。


 酷い夢を見た。舞台は、少年時代を過ごした新潟の旧白根市。私はかつて過ごした中学校の校舎三階にいた。放課後を告げる吹奏楽部の遠吠えを聞きながら、無機質な校舎を一人堪能していた。オレンジ色の廊下は行き止まりの理科室まで続いており、その奥から覗く西日が廊下を一直線に照らしていた。暫く歩いてはみたものの、校舎に人影は無かった。途中で肝心の音楽室も在ったが、日が優しくピアノを照らすばかりで、中はしんとしていた。しかし相変わらず、トランペットの音はどこからか鳴り続けていた。それでも、当然夢とは気が付いていなかった。違和感と言えば、心地の悪い空気の膜が、私を逃がさない様に体に纏わりついていた。また、四方八方から太陽が差していたが、そんなものかと思い、気にも留めなかった。夢が覚めるまで、これらは夏のせいだと思っていた。

 しばらく廊下を歩くと、一つだけガラス戸の開かれた窓が在った。そこから入って来たであろう涼しい空気が、申し訳程度に私の体を撫でた。そのせいで、無性に風を浴びたくなった。足早に開かれた窓の方へと向かう。目を閉じて窓の前に立つと、体を覆っていたぬめり気のある空気が、外の風によって何処かへ攫われた。久々に入った風呂の様に、体はその爽やかさを取り戻した。夏の匂いのする風を暫く堪能し、目を開ける。目の前には無限に青い田園が広がっていた。窓枠が額縁の働きをしており、郷愁を呼び覚ます写実画の様だった。それは私の原風景だ。青い稲の一本々が、母なる大地を賛歌するように踊っていた。窓枠に肘をつき、思考を放棄して遠くを眺める。丁寧に区画整理された田圃たんぼの向こうには、空気色の山が在った。その様な風景を眺めていると、一抹の不安を覚えることがある。美しいものの背後には、常に恐怖が宿っている様な気がするのだ。例えば、あの山の向こうから、何か巨大な恐ろしい怪物が私を殺しにやって来るような──そんな幻想。山脈を軽く跨ぎ、校舎へは十歩も掛からずに来るだろう。注意して山を眺めていると、その内に透視することが出来そうに感じた。

「注意深く眺めろ」

 山がそう告げる。そうか、彼自身が怪物だったのか。

 その時、誰かに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには白石がいた。驚いて呆然としていると、彼女は踵を返しながら弾けた声を上げた。

「タッチ! 木村が鬼ね!」

 白石が20m程走ったところで、言葉の意味を理解した。急いで彼女を追いかける。オレンジ色の校舎には、二つの足音だけが響いていた。

 白石は逃げるのが非常に上手かった。一直線の廊下では、男の私が断然有利だ。ぐんぐん距離を縮めて、遂に白石の肩に手が届く時──彼女は切り返して教室に逃げ込む。教室には多くの机が正しく並べられており、到底鬼ごっこには向かない場所だった。今思えば、机がずれることなど気にせずに走れば良かっただけだ。しかしあの時は、きちんと整理されているものを壊すことが、なんだか悪いことの様な気がして、注意を払って彼女を追いかけていた。白石はその小さな体を上手く操り、私との距離を広げていく。きっと、本気を出せばすぐに捕まえられた。ただ、この愛おしい時間が終わらない様に──いや、終わらせない様に、調整していたのだ。

 成り行きで始まった鬼ごっこは意外にも長く続き、私たちはいつの間にか校舎一階まで降りて来ていた。未だ響く吹奏楽部の演奏はいよいよクライマックスを迎え、競う様に管楽器は奏でられていた。途轍もなく美しいエンディングを予感させるそれは、私に一種のエクスタシーを感じさせた。彼らの音は、校舎のどこに居ても鳴り止まなかった。そうして白石を、正面玄関へと追い込んだ。ツンと鼻を抜ける下駄箱の湿った臭いは、何故だか対極にある爽やかな青春を想起させた。事前に取り決めが合った訳では無いが、校舎から出たら負けという空気感が私たちの間には在った。追い詰められた白石は、遂に暗黙の了解を破った。勢いよく彼女は玄関扉を開け、この遊びを校舎外で延長させようとした。私もそれに続こうとしたが、緩やかに足が止まってしまった。足を掴まれた訳でも無く、体力の限界だった訳でも無い。楽しい休日を過ごしている際にふと訪れる、客観性を持った寂しさ、それに近いものだったと、今は思う。そうしている内にも、白石はぐんぐん遠ざかる。まるでそれが正しかったことのように、彼女との距離に比例して安心感が募る。こちらを一度も振り向かず、白石は走り続けていた。それはまるで、何かに怯えて逃げている様にも思えた。遂に山の麓まで辿り着いた白石は、そこで立ち止まった。顔を見ずとも分かる、白石は安堵の表情を浮かべていた。必然かのように、山は大きく口を開いた。木々に掴まり休んでいた鳥たちは驚き、鳴きながら空へ逃げる。その間も、私の足は動かない。白石は、結局こちらを一度も見ることなく、山に喰われてしまった。その咀嚼音は木々がざわめく音に似ていた。そうか、山のあの音は、人を喰う音だったのか。きっと、山はいつも誰かを喰っていたのだろうと思った。それでも、足が動くことは無かった。


 これはまさしく悪夢だった。静かな絶望だった。灼熱の夏を迎えてもなお、正面から迎えることを避けて、日陰で怯えていた。一歩踏み出せば、全身を焼く様な激しい恋が私を熱く熱く燃やしたのに。ただ、あの頃の私は臆病だった。心地の良い日常に頭までどっぷりと浸かり、そのぬるさを全身で享受していた。どれ程に湯が熱くても、いつかは冷める。徐々に下がっていく温度を感じながら、頑なに嘘だと信じて、さらに深く潜っていた。

 恋慕はついに羞恥心を超えられなかったのだ。それだけのことだ。私は未だに、あの校舎に取り残されている。惨めな思い出を少しずつ、無くならない様に齧り続けている。


 数日後の或る朝、用事など忘れたが、最寄り駅にて電車を待っていた。テレビなど見てはいないが、今日が酷暑日であることは明白であった。呆然と向かいのホームを眺めていると、見覚えのある女が現れた。目を凝らして、視界を狭くする。女を中心に据えている内に気が付いた。確かにあれは白石だった。中坊の面影を纏わせて、すっかり小奇麗になったかつての少女が、そこにはいた。視力が未だに高いことを、これほど幸福に感じたことは無い。既に私は走り出していた。向かいのホーム目掛けて、階段を飛ばしながら走った。怪訝そうに見つめる通行人には目もくれず、確かな場所へと向かっていた。話題は何も無かったが、ただ会って私を認識してほしかった。あの頃と変わらぬ思いを胸に、あの頃とは違う体に無理をさせながら走った。彼女のいるホームへの階段を下っている時、電車の接近を知らせるアナウンスが構内に響いた。その無機質なアナウンスが、RPGのボス戦前の様な、妙な高揚感を私にもたらした。

 遂に白石のいるホームへ着いた。途端に走った為、肺が乱れて呼吸が荒くなった。息を休ませて顔を上げると、後ろ姿の彼女が数メートル先に居た。顔を見ずとも、それが白石だとはっきり分かった。胸に手を当て、静かに深呼吸する。息を整え、汗を拭う。それでも、額からは延々と汗が流れ出る。発汗の治まりを待つ時間は無い。差し足で、一歩目を踏み出す。その時、白石が歩き出した。デジャブだった。夢の続きの様に、後ろ姿のまま私から遠ざかり始めた。その行動に、私だけが気が付いていた。周囲の人々は、熱心にスマートフォンだけを見ていた。そして、電車の入駅を知らせる警笛がホームに鳴り響いた。

 警笛の内側で、酷く鈍い破裂音がした。刹那、蛙を地面に叩きつけて殺す遊びをしていた少年時代を思い出した。あれはきっと、蛙の絶命の音だった。数秒後、人々の悲鳴がそれを搔き消す様にホームを支配した。赤黒い液体が、電車の脇腹を雑に濡らしていた。私は耳鳴りのせいで、何が起きてるのか理解出来ていなかった。目の前の世界は白飛びしていた。私は頭を整理させずに、その場を後にした。階段を登っている時、周章狼狽しゅうしょうろうばいする人々の恐怖と苛立ち、そして、を背中に感じた。

 白石は、電車に飛び込んだのだ。

 世間の気色の悪さに反吐が出る。悪酔いした時の様に、悪寒と冷や汗が全身を覆う。それは体を縁取る様に、世界から私をくっきりと際立たせていた。

 これは悪夢だ。結局、私たちは交わらなかった。その美しい面影は、目の前でかち割れた。頭が酷く痛む。それでも日は止まなかった。もしかすると、夏のせいなのかもしれない。こんなにも暑いから、白石はおかしくなったんだ。しかし、いくらそう思い込んでみても、彼女の内側を計ることなど出来ない。手の届かない太陽を憎み、それでも仕方が無く日差しを浴びるしかなかった。


 帰路の記憶は無かったが、いつの間にかアパートに着いていた。未だに頭痛と吐き気は治まらない。とりあえず、部屋に戻って休もう。階段を登り、二階自室へ向かう。登る度に音を鳴らす階段すら、今は憎悪の対象であった。階段を登り、自室の扉に手を掛ける。鍵を取り出すために、ポケットを探る。……鍵が見当たらない。焦りは冷や汗に変わり、背中をじっとり湿らせる。急いで廊下で鞄をひっくり返す。空になった鞄を何度探ってみても、見つかったのは白石の部屋の鍵だけだった。苛立ちが募る。きっと、ホームで走った時に落としてしまったのだろう。今からあの駅に戻る気になんてなれない。あんな惨劇があったのに、きっと今頃は平常通りに電車は働いているだろう。それが怖いのだ。白石の死が、日常に溶けてしまった様で、酷く恐ろしいのだ。情けない私を嘲笑い狙い撃ちする様に、太陽は今朝よりも強く照り付けている。ああ、今はそんな気分じゃないのに……。それでも、仕方が無い。今はこの暑さから、ただゝ逃げたかった。自室前から離れ、隣の部屋の前に立つ。白石の部屋の鍵を差し、ゆっくりと回して、部屋に入る。

 エアコンは付けっぱなしだった様で、体は途端に冷やされた。体は心地良いが、心は酷く辛かった。目の前には、何度も見たいつもの白石の部屋が在った。それが、まだ白石が生きているかの様な幻想を抱かせる。ああ、もう今では、休日の昼間から堂々と君の部屋に入れてしまうよ。なんで、死んじゃったんだ。ずっと見ていたのに、そんなこと全く気が付かなかった。そんな自分が情けなくて仕方が無かった。

 暫く体を冷やすと、頭も少しずつ冷えて来た。警察や遺族が来る前に、盗聴器を回収することにした。居間や脱衣所のコンセントから、淡々と盗聴器を回収しながら、それでも大きな悲しみに包まれていた。一体、僕は何の為に生きていたのだろう。君の為に、職場も家も特定して、隣の部屋に住んで、ゴミを漁って、盗撮もして、童貞も貫いたのに。星すら眠る夜に、寝ている君の唇にキスをして、僕の愛を君に伝えたのに。どうせ死んでしまうのなら、勇気を出して話しかけるべきだった。こんな結末を迎えるのならば、私は何の為にあそこまでリスクを犯したんだ。あんなに時間を掛けて、注意を払って、やっと君の部屋に辿り着いたのに。怒りがこみ上げてくる。しかし直ぐに、大いなる悲しみが怒りを喰い切ってしまう。感情の波が、体をまた熱くさせる。夏はクーラーの内側でも生きていた。体を縁取る悲しみの膜は、窓を開けてみても逃げることは無く、ただそこに在った。

 出来るだけ無意識を保って、作業を続ける。もうこうなってしまったのならば、後は捕まらない様に、ひたすらに後処理をするのみであった。棚の横にあるコンセントから盗聴器を外す。ふと横を見ると、棚と壁の隙間に、何か薄い紙が在った。手を伸ばしてそれを取る──白石の写真だった。それは、男女で旅行に行った時の写真の様だった。恐らく、数年前の大学生の頃の思い出だろう。かつての恋人を懐かしむ心地で、白石の顔を覗く。途端に強烈な記憶との違和に気が付く。

「……あれ? 白石って、こんな顔だったっけ……」

 そこには、知らない女が映っていた。確かめる様に何度も見つめている内に、どんどんと遥かに見知らぬ女になっていく。ふと自らの腕を見ると、老いた罰の如く、無数の皺が刻まれていた。もう一度写真を見る。嘗て白石と呼んでいた女は残酷な程に若く、私より三十は下に思えた。そうして、気が付いた。私には、白石なんていう知り合いはいなかった。それは、夏が作り出した幽霊だ。夢に火照ほてった私の勘違いだ。恐ろしくなった。自分が信じられなくなった。途端に夏が過ぎ去ってしまったかの様だった。この部屋は、あの夢は、電車で自殺した人は、一体誰なんだ?

 ガチャ

 玄関扉の開く音がした。ここが二階ということも忘れて、窓から飛び降りた。


 やけに暑い日だった。その日差しに耐え切れず、路地裏の日陰に逃げ込む。影の奥から、尻尾が3本生えた野良猫が現れた。不思議そうに私の顔を覗き込む。うっとおしかった為、足で向こうへ蹴散らす。空を見上げると、日は一つでは無かった。あらゆる方向に太陽が在ることに気が付いたが、そんなものかと思い、気にも留めなかった。少し休んで、歩き出す。

 渋谷の大通りで信号待ちをしていた。目的地は何処か覚えていなかった。向こうで信号を待つ群衆の中に、見覚えのある風貌をした女がいた。

 「あれは……田中じゃないか!」

 私はまだ、夢とは気が付いていなかった。

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