ケージ
森野ふうら
ケージ
Aさんは、小学生の娘さんがいる主婦だ。
数年前、娘さんがまだ保育園に通っていたころのこと。
Aさんは、娘さんの交友関係を通して、数人のママと仲良くなった。いわゆるママ友だ。情報交換をしたり、愚痴を聞き合ったり、同じ境遇の仲間との交流は大いに励みになったという。
そんななかで、自然とみんなのまとめ役になったのが、Rさんだった。Rさんは明るくおおらかな性格で、Aさんたちをよく自宅に招いてくれた。新築一戸建ての自宅は広く、日当たりのよいリビングは、親たちがお茶をするかたわらで子供たちが走り回っても十分な余裕があった。
Aさんたちは、Rさんのおかげで楽しい毎日を過ごした。
そんなある日のこと。いつものようにRさんの家を訪れると、リビングの端に、見慣れないペットケージが置いてあるのが目に入った。
Rさんの家は犬を飼っている。ケージを置くこと自体に疑問はない。ただ、Rさんの家の犬は小型犬だ。そのケージは、小型犬を入れるにしてはかなり違和感のあるものだった。
まず、そのケージは巨大だった。大型犬が二匹入っても、まだ余裕のある広さ。高さもかなりあり、屈めば人間の大人でも入れそうだ。黒光りするメタル製の格子は太く、獰猛な犬が暴れてもびくともしなさそうに見える。また、二箇所ある扉には大きな鍵がついていて、さらに後付で無骨な南京錠まで数個ずつ、ぶら下がっていた。まるで猛獣でも飼うかのような物々しいケージ。
「このケージ、どうしたの?」
ママ友の一人が聞くと、お茶を運んでいたRさんは、ああと笑った。
「ネットで見つけたの。オーダーメイドの中古品だって。見た瞬間に娘が気に入っちゃって」
本当は小型犬用のサークルを探していたのだけれど、娘がどうしてもこれがいいと言うので、つい買ってしまったのだという。
Aさんは内心、ついで買ってしまうには随分と不釣合な代物だ、と思った。犬に対してはもちろん、部屋に対してもそのケージは極めて不自然だった。白が基調の洒落たレイアウトをぶち壊す、大きさと重厚感。重厚感といえば聞こえがいいが、それはどこか異様な重々しさをまとっていた。威圧感というのだろうか。ケージのある一角だけ、空気が重く張り詰めている気がする。
正直、Aさんはあまりいい気がしなかった。しかし、家主であるRさんや、他のママ友は素直にケージを褒めている。Aさんは自分の感覚がおかしいのかもと、努めて気にしないことにした。
しかし、それから何度訪問しても、そのケージに慣れるということはなかった。
むしろ訪れるたびに嫌悪感は増していった。
明るい陽光の満ちるリビングの中で、そのケージのある一角だけが影に沈んでいるような気がする。常にうっすらとした暗闇が、ケージを包んでいるように見える。黒く太い格子の中に、重く陰鬱な空気が澱んでいる。まるで、何かの気配のように。
Aさんは極力、そのケージを視界に入れないようにした。
そのうちAさんと同様に、ケージを避けている人間がいるのに気付いた。Sさんだ。それとなく探りを入れてみると、Sさんもあのケージに異様なものを感じているらしい。
二人は密かにケージの気味悪さを共有した。
はっきりと異変が表れたのは、いくらもしないうちだった。
その日、遅れていったAさんがリビングに入るなり、Sさんが視線を送ってきた。心なしか顔が青白い。
嫌な予感を覚えつつケージに目をやり、Aさんは、はっと息をのんだ。
ケージの中に、黒い人影が座っていた。手前の右端、太い格子のすぐ向こうに、真っ黒な子供が膝を抱えて座っている。全てが黒く塗りつぶされた人影は、目鼻の位置もわからない。ただ、その小さな体格は、確かに子供だった。
Aさんは、ざっと血の気が下がるのを感じた。気分が悪くなる。今すぐにでも帰りたかった。
しかし、来たばかりで帰るわけにもいかない。なんとか繕い、その後の時間をやり過ごした。
その間、ケージの中の子供はぴくりとも動かなかった。
AさんとSさんは話し合った。自分たち二人以外はケージに違和感をもっていない。今のところ特に実害もない。しかし、あれを見過ごしておいてもいいのだろうか。
二人は、それとなくRさんにケージの廃棄を勧めてみることにした。
「え? ケージを? うーん、手放すのはちょっと難しいかなあ」
Rさんは、のんびりと笑った。
「確かに使ってはいないのよ。理由はわからないけど、犬が入りたがらたくてねー。何度か入れてみようとしたんだけど、普段は穏やかな犬なのに、すごく怒るの。だから、使ってはいないんだけど」
でも、と続ける。
「娘がね、どうしてもこれがいいって。ここに置いておきたいって言うの。だから、手放すことはしないかな。うん、無理だね」
普段、皆のまとめ役として柔軟に意見を受け入れるRさんにしては、きっぱりとした拒絶だった。言葉は柔らかいが、態度や表情に断固としたものが感じられる。
AさんとSさんは説得を諦めざるを得なかった。
とはいえ、特に何か害があるわけでもない。
あれからずっと、黒い子供はケージの中にいる。よく見ると痩せこけた異様な体つきをしていて、なおさら不気味だ。
だが、動くところは見たことがなかった。常に膝を抱いて、同じ場所に座っているだけ。微動だにしない様子は、まるで置物のようだ。むしろ動くことがあるのか疑わしい。
それならば、気味は悪いが、自分たちが見ないふりをすれば済むことだ。
AさんとSさんは、そう結論づけた。
数ヶ月経った夏の終わり頃。
リビングではホームパーティーが開かれていた。誰かのちょっとした祝い事にかこつけた、いつもより少し豪華な食事会というだけだったが、テーブルの上には皆が持ち寄った料理が並べられ、この日のためにRさんが注文してくれたという有名店のケーキも切り分けられ、場は多いに盛り上がった。
ひとしきり食べ終わると、ママたちは食後のコーヒーを飲みながら話に興じ、子供たちは思い思いに遊び始めた。
話に夢中になったママたちの目が離れているのをいいことに、子供たちは広いリビングを好き放題に走り回った。なかには菓子を持ったまま、走る子もいた。
「ちゃんと座って食べなさい」
「はーい」
時折、注意されると、その時ばかりはいい返事をするものの、鬼ごっこは一向に終わる気配がない。
Aさんも話の合間合間に子供たちに声をかけた。やはり何度言っても効果はなかった。
コーヒーカップをテーブルに置くか置かないかの瞬間、また一人が脇を駆け抜け、何度目かの注意をしようと振り返った時だった。
クッキーを持ったままの子が壁際を駆けていった。Rさんの娘さんだ。彼女は、あのケージのほうへ向かっている。スカートを翻しながら、どんどん近付いていく。ケージの場所に差し掛かり、すぐ横を走り抜ける。
その際、手にあるクッキーが割れ、大きめの欠片がぽろりと零れた。欠片は床に落ちる。しかし、Rさんの娘さんは気付かない。振り向くことなく走り去った。
その時だった。ケージの中から黒い手が伸びた。黒く痩せ細った手が、素早く床の欠片に伸びた。太い格子の間から出た枯れ枝のような腕は、クッキーの欠片を引っ掴むと、驚くべき速さで引っ込む。
Aさんは唖然とした。その先で、黒い子供は口と思われる場所にクッキーを押し込む。一瞬のうちに噛み砕き、忙しなく飲み込んだ。その一連の動作は、ひどく荒々しく、獣じみていた。
Aさんは呆然と黒い子供を見つめた。子供は元の通りに膝を抱え、動かなくなった。置物のように停止する。
と、そこへまたRさんの娘さんが走ってきた。さっきとは別のお菓子を手に握っているようだ。ケージに近付く娘さん。
黒い子供が動いた。にゅ、と格子から腕を出す。危ない、と言うに言えず、Aさんは躊躇った。黒い子供は手を娘さんに向かって伸ばす。
しかし、引っ張ったりなどはしなかった。子供は両手を揃え、椀のような形にして前に差し出した。そのまま、目の前を通り過ぎる娘さんの動きに合わせ、手を移動させる。娘さんが走る足元に、仰向けた両手がついていく。
まるで、さっきの食べ物をまた頂戴と言っているよう……。
背筋に今までとはまた違う、嫌な寒気が走り抜けた。ゾワゾワとした不快さが、恐怖に混じる。
ぽろり。またRさんの娘さんがお菓子を落とした。黒い子供はすかさず拾い、口に押し込む。ろくに噛まずに飲み下す。
Rさんの娘さんは黒い子供が見えているようではない。全くケージに視線をやらないし、そもそもケージの存在を意識すらしていないようだ。お菓子を落とすのは全くの偶然。そう見える。
ただ、そのやり取りは、AさんとSさんが見ているだけで、パーティーの間に3回は繰り返された。
「ねえ、やっぱり」
「無駄だよ」
パーティー終了後。やはりRさんにケージの破棄を強く勧めるべきでは、といいかけたAさんを遮り、Sさんは首を振った。
「あれからまた話してみたこともあるの。やっぱり気になったから。でも、聞く耳を持たない……どころか、すごく怒っちゃって」
「Rさんが?」
いつもにこにことして、不機嫌になることすら想像できない。
しかし、Sさんは頷いた。
「一瞬で顔が歪んで、鬼みたいな目で睨みつけてきて、二度とそんなこと言ったら許さない。二度と言えなくしてやるから、絶対にって。それが本気なの。本気で何かする気なのよ。咄嗟に謝っちゃったのね。もう言わないって。そしたら、一瞬でいつもと同じ笑顔になって、何もなかったみたいにお茶しようって。……もう怖くて」
Sさんの話を聞き、Aさんも青褪めた。
普段の穏やかなRさんからはとても考えられない。それほど今のRさんにとって、ケージの廃棄は有り得ないことなのだろう。もうあのケージについては触れないほうがいい。
それでもひとつだけ、気になることがあった。
「あのケージの子供、痩せてたよね」
「うん」
「すごく痩せてた」
「そうだね」
「お菓子を欲しがってた」
「うん」
「欲しがってたけど、奪ったりはしなかった。ただ欲しいとアピールしたり、床に落ちたものを拾ったりしただけ」
「……」
「お腹が空いてるけど、強くは言えない。毎日、同じ場所に動かずに座っている。動けるけど、動かない。そもそもケージの中にいる。あのケージ、オーダーメイドの中古品だって言ってたよね。大型犬でも余る大きさで、異様に頑丈な作りで、鍵も後から足してあって。あのケージ、本当に犬用なのかな? ねえ、もしかして、あの子、昔……」
「やめよう」
Sさんは静かに言った。
「考えても仕方ないよ。私達にはどうしようもないんだから。そういうことは、もう放っておくしかないんだよ」
それから少しずつ、二人はRさんたちと距離をおくようになった。完全に関係を経つわけにいかなかったので友人の範疇にはいたが、家を訪問する回数はだいぶ減らした。
そして春、Aさんは夫の転勤のため引っ越しをした。これによりRさんたちとの付き合いは完全になくなった。SさんとだけはLINEや電話で繋がっていたが、それもごくたまにだった。あのケージの話をすることはなかった。
それから数年経った現在。娘さんは保育園を卒園し、小学生になっている。なんのかのと忙しい毎日が続く。数年前のことはすっかり忘れ去っていた。
しかし先日。Sさんから電話があり、なんの拍子か、あのケージの話題になった。
最近、SさんはRさんの家を訪問したという。今では滅多に交流はないそうだが、家が近いこともあり、ごくまれに用事で訪ねたりもするらしい。
Rさんは相変わらず朗らかで元気だったそうだ。距離をとったあとも、いつも変わらず穏やかで明るい笑顔で迎えてくれる。屈託のない、いい人だ。
しかし、数年越しに入った明るいリビングで、Sさんは硬直した。
ケージの中に子供がいた。右端の格子のすぐ向こう、子供が膝を抱えて座っている。
しかし、それはあの黒い子供ではなかった。座っていたのは、Rさんの娘さんだった。成長して小学生になった娘さんが、ケージの中で膝を抱え、にこにこと笑っている。
「あ、この子? 最近、すっかりこの中がお気に入りなの」
立ち尽くして絶句しているSさんの背後から、Rさんが朗らかに声をかけてくる。なんの曇りもない明るい調子だ。
「ちょっと待っててね」
そう言うと、Rさんはキッチンに行き、スナック菓子の袋を手に戻ってきた。
「新しい遊びを覚えたのよ。見てて」
言いながら袋を開け、中身をひとつ取り出すRさん。それを、はい、とケージの方に軽く投げる。
ケージの中から手が伸びた。太い格子の間から、娘さんが手を伸ばし、空中で器用にお菓子をキャッチする。するや否や、お菓子を口に運び、獣のように貪ったかと思うと、味わう間もなく飲み込んだ。歯をむき出して、ニッと笑う。
Sさんはゾッと背筋が冷えた。
「ね、すごいでしょ? ちゃんと芸が出来るのよ」
Rさんが楽しげに笑う。
ケージの向こうで、娘さんは膝を抱えている。丸くなり、動かずに座りながら、何故かニヤニヤと笑顔を浮かべている。
Sさんは、異様な雰囲気に何を言うことも出来なかった。ただ辞去の挨拶を述べる。それが精一杯だったという。
「心配とか不安とか、気にならないと言ったら嘘になるけど」
Sさんはごく静かに言った。
「どうしようもないからね。放っておくしかないのよ。もう仕方がないの」
そこからは一転、AさんとSさんは互いの子供の近況で盛り上がり、楽しく会話して、電話を終えた。Rさんの話は、もう出なかったという。
ケージ 森野ふうら @morinof
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