第4話
ここで冷静さを欠いてはいけない。体を丸めるように着地して衝撃を体全体で吸収する。そのまま衛兵に気づかれることなく開いた窓から建物に戻る。
階段を一気に駆け上がる。目指すのは茶会の間だ。全てを振り切って走る。誰かに見られたところで俺の顔を捉えられるはずがない。
ドンッ!
勢いよく扉を開けた。
そこには――
「マリアンヌ皇女殿下! お気を確かに!」
「おい。さっさと医者を呼べ!」
「衛兵に伝達しろ! 蝿一匹たりともここから逃がすな!」
「マリアンヌ様……」
混乱。怒号。そして、鮮血。
バルコニーに従者と思わしき者達が集まっている。そして、広間まで流れる深紅の水溜り。何人も殺してきた俺は知っている。よほど派手に胸を抉り取らないとああはならない。
そして、こうなって生き延びた人間を俺は知らない。待っているのは確実な死。
「今医者が参ります。大丈夫、助かりますよ」
マリアンヌ殿下の直属だろうか、必死に呼びかけているが無駄だ。良くてあと一分だろう。
少女がマリーの死体に駆け寄っていく。人垣で何も見えなくなった。
「手遅れです。お亡くなりになられました……」
誰かが感情を押し殺した声でそう言った。広間全体に重々しい空気が漂う。
(マリー、何で!)
どうしようもないやるせなさがこみ上げてくる。しかし、事実は変わらない。
俺は純紅の血に染まった白い布を見送ることしかできなかった。
◇ ◆ ◇
マリアンヌ=ラ=グラーツ暗殺事件。現場の状況から真相が自殺だと気がつく者はいなかった。帝国随一とも謳われる人徳と美貌を兼ね備えた彼女の死は西方諸国に驚きを与えた。
が、それだけだった。
彼女の死によって戦乱が起こることはなかったし、強いて言うなら彼女を慕う者によって暗殺者探しが苛烈を極めたくらいだった。結局、暗殺者は分からず仕舞いだった。所詮は民から人気があったとはいえ皇位継承権も持たぬ側室の娘。王家としても特に追及するほどのことではなかった。ありふれた悲しい事件の一つに過ぎなかった。
それから半年後、グラーツ帝国第一皇子が崩御した。次期皇帝の地位を約束された彼の死は西方諸国を震撼させた。彼の死が何をもたらすかなど明らかだった。
第二皇子と第三皇子の権力闘争。先に生まれたという点で皇位継承権を主張する第二皇子に対し第三皇子は彼が側室の子である点、自分が正室の子である点を強調して対抗した。属国も巻き込む形で抗争は激化し、苛烈な外交戦や暗殺の応酬が起こった。
第二皇子派は備えていた。家柄で劣る自分達は弱いと分かっていた。故に、彼らは貴族でなく民の支持を狙った。計画は完璧なはずだった。そう、第二皇子と母を同じくするマリアンヌ=ラ=グラーツが生きていれば。
第二皇子派の計画はマリアンヌの『人望』を軸にしていた。しかし彼女が死んだことで計画は瓦解した。
マリアンヌの死は、結果論としては正しかったのかもしれない。
第三皇子派は徹底的な民衆弾圧に乗り出した。第二皇子を支持する者にあらぬ罪を被せ、一方的に断罪した。
もしマリアンヌ=ラ=グラーツが生きていたら?
もっと多くの民が第二皇子に与して、もっと多くの民が殺されていただろう。さらに、彼女を深く知る者は言う。
マリアンヌ=ラ=グラーツはそれを是としない、と。
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