第2話 死後の世界

 目が覚めると、私はどこかの家の床の上にうつ伏せに横たわっていた。水が滲んだような木目が私の視界の中でぐるぐる回り、恐ろしく気分が悪くなる。

 軽くむせると、頭上で女の声がした。

「気がついた?」

 先ほど出会ったどちらの女の声とも違う。全く別の女だ。私は恐る恐る体を捻って声のする方を見上げた。

 そこにいたのは、中年の女だった。丸くて艶々した顔の、若いとも年老いているとも言い難いなんとも言えない年の女。

「大丈夫? 水、飲む?」

 私はその問いかけには答えなかった。そんなことより、ここはどこなのだ? 私は死んだのだろうか? 意識があるということは、助かったのだろうか?

「あの」

「いろいろ説明してあげたいけど、あまり時間がないのよ。予定よりちょっと遅い登場だったから。立てる?」

 私の困惑を察し先回りして遮ると、彼女はすぐさま私を抱き起こした。状況把握はお預けのようだ。そこは小さな部屋だった。洋室のようだ。部屋の中には家具も何もない。ただ、黒いワンピースが一着、私のそばに横たえられていた。

「うん。今から急いで、それに着替えて欲しいの。私外に出てるから」

 そう言うと、女は本当に部屋から出て行ってしまった。

 私は訳もわからず、そのワンピースを手に取った。かなり上等な生地に見える。

 とりあえず言われた通り着替えるしかなさそうだ。この訳のわからない場所で、彼女は今のところ私にとって唯一の救いの手だった。信用していいのかどうかは疑わしいけれど、縋るしかない。この状況では。

 私は急いで着ていたリクルートスーツを脱ぎ捨て、黒いワンピースを着た。なぜかスーツよりもずっと正装、と言う感じだ。背筋が伸びる。

 部屋を出ると、女は私の手首を掴み、

「行きましょう」

 と足早に廊下を歩き出した。

 そして私たちは、建物から出た。しかし、建物の外はなんだか妙な雰囲気だった。

 屋外に出たはずなのに、まだ建物の中にいるような心地がするのだ。何故だろう、と思って、私は周りを見渡す。そこは住宅街のようだった。黒い瓦屋根に白い土壁の家、全く同じ外見の家が、幾つもいくつも際限なく並んでいる。

 どの家も同じような見た目なのが少し奇妙ではあるが、大きな違和感の正体はその街並みではなかった。

 空だった。

 というか、これを空、と呼んでいいのだろうか? 頭上にあったのは、ただただ白い、背景のような何かだった。曇っている、と言うわけではない。靄がかかっているわけでもない。ただ、なんの翳りもなく、どこまでも続く綺麗な純白なのだ。

 何、これ。

「鏡子さん。早く」

 知らない人が、当然のように自分の名前を呼ぶのが不思議だった。そういえば、私はこの人の名前も知らない。

「あ、あの、そちら様の、お名前は……」

「名前? 珠に南、って書いて珠南じゅなだけど、火乃井ひのいさんのお宅では私のこと、母さんて呼んでもらわないと困るからね」

「え、母さん、ですか? な、なぜ?」

 私が狼狽すると、珠南さんはもっと困惑の色濃い表情を浮かべた。

「ええ、なんっにも聞いてないの? どこまで聞いてて、どこから聞いてないのっ?」

 訳もわからず何も言えずにいると、珠南さんは深いため息をつき、諦めるように前を向いて再び足早に歩き始めた。

「まあもう、時間がないから、しゃあないわ。とにかく、私のことは母さんて呼んで。あとは……、できるだけ口を開かないで、おとなしくしててくれればいい。私がなんとかするわ。うん、それっきゃない」

 ほとんど独り言のようにそう言って、珠南さんは小走りでどんどん進んでいく。私はというと、なんだか息苦しくてゆっくり一歩一歩進むことすら困難なほどだった。しかし、この訳のわからない場所で、彼女だけが唯一の命綱である私は、どんなに苦しくても彼女を必死で追いかける他に術がない。

 やがて、どこからともなく自動車が現れた。やや時代遅れのようにも見えるが、特に奇妙な点は見当たらない、普通の自動車だった。

「ごめんなさいね、遅くなって。急いでちょうだい」

 珠南さんは私の手を引いて車に乗り込むと、運転手にそう告げた。運転手はこちらに顔を向けることなく静かに頷くと、すぐに車を発進させた。

 車は白い空の下を、滑るように進んでいった。かなりのスピードで走っているのか、窓の外を眺めていても景色がよく見えない。途中、繁華街のようにも見える場所を通ったりもしたが、看板のようなものがほとんどなくて人は多くてもなんだか寂しい雰囲気がしたことだけが印象に残った。

 十分もしないうちに、車は停まった。

 車を降りると、そこは大きな屋敷の玄関前だった。先ほどの住宅街の家々に比べるとかなり大きいが、違いは大きさくらいのものだった。黒い瓦に白い土壁。同じ外観がただ巨大化しただけだ。

 庭も殺風景だった。私が住み込みで働くはずだった、あの気味の悪い森の中の豪邸が思い出された。

「何してるの、早く」

 声のする方に顔を向けると、珠南さんは勝手に玄関ドアを開け、中に入ろうとしていた。

 ここも、彼女の家なのだろうか。それとも、先ほどの家は彼女の家ではないのだろうか。

 何が何だかさっぱりわからない。考えたところで仕方がないので、私は呼ばれるままに彼女の後ろに続いて、その大きな家の中に入っていった。

「遅くなりました、珠南でございます」

 珠南さんが大きな声で呼びかけると、奥の方から和装の高齢女性が出てきた。顔だけ見るとかなり高齢のようだが、背筋がピンと伸びていて、背が高く、髪も黒々としているから全体的な雰囲気が妙に若々しい。

 その高齢女性は、珠南さんと私それぞれに軽蔑するような冷たい眼差しを向けたあと、

「お待ちしておりました。お上がりください」

 とちっとも歓迎していない声で言った。

 私たちは用意されていた赤いスリッパを履くと、高齢女性の後を追って奥の部屋へ進んでいった。

 その部屋に入ると、朱色を薄めたような色の壁にまず目がチカチカした。部屋はだだっ広く、でもそんな空間の中に焦茶の円卓と五つの椅子しかない。そしてその椅子のうち三つは既に埋まっていた。中年の男性一人と、青年二人が腰掛けて、私たちの方を見ている。

 多分親子なのだろうと、一目でわかる三人だった。父親と思しき男性も息子と思しき二人の青年も、みんな白い肌で、細長い体型をしている。三人ともよく似ていた。揃って美形だ。ただ、二人の息子を子細に見てみると、一人が金に近い茶の髪に茶色の瞳、一人は紫がかった銀の軽くウェーブした長髪に濃い紫の瞳をした、一風変わった外見だった。

「よくいらした。まあ、座ってください」

 黒い短髪に黒い瞳、ごく普通の和風な顔立ちをした父らしき男性が、柔らかい声で私たちに言った。珠南さんが言われた通りすぐに座ったので、私もその隣に座った。

 私たちが着席するタイミングに合わせて、先ほどの高齢女性と全く同じ着物を着た若い女性が、私たちにお茶を持ってきてくれた。

 家の大きさといい、お手伝いさんが何人かいるところといい、このお家、相当お金持ちなのでは?

 と思ったちょうどその時、父らしき男性が朗らかにこう言った。

「さあ、これで、火乃井の新しい五人家族が勢揃いした訳だね」

 ……え?

 思わず珠南さんの方を見ると、彼女はにっこりと笑って私を見つめていた。余計なことを口走ってくれるなよ、とでも言いたげに。

燃自ねんじ様、焚楽たきら様、初めまして。お二人のお父様と結婚することになった、珠南と申します。こちらは娘の鏡子」

 ええええ?

 この五人で家族になるってこと?

 つまりこれ、初顔合わせ?

 えええどういう展開?

 しかも相手の息子さんたち、すごい不服そうな顔をしているような気がするんだけど。

「よろしくどうぞ……」

 銀髪の方の青年があさっての方向を向きながら掠れた声で言った。

「よろしくお願い申し上げます」

 金髪の方の青年は笑顔こそ見せないものの、深々と頭を下げて礼儀正しく挨拶した。

「こちらこそよろしくお願いいたします」

 珠南さんは恐縮したように、金髪の青年以上に深く頭を下げた。そして私の背中を押して、私にも頭を下げさせた。

 この話の流れなら、この青年たちは珠南さんの息子になるはずなのに、どうしてこんなにへりくだるんだろう、と、私は不思議に思った。

 父、私にとっても父に当たるらしい、その男性は言った。

「鏡子さんとは僕も初めてお目にかかりますね。どうぞよろしく。いや、まさかこんなにお美しい娘さんだとは。びっくりしましたよ」

「いえ……そんな」

 綺麗だ、と褒められることは、これまでにも何回かあった。それで得したことは、そんなにないけれど。

「それに、優秀なんだよね。下級陣試かきゅうじんしに受かったそうじゃないか。その若さで大したものだ」

 かきゅうじん……何、それ?

 助けを求めるように珠南さんに目を向けたが、珠南さんはにっこりと強い視線を投げかけてくるだけだった。決して粗相はするなよ、という目だ。

「……はい。ありがとうございます」

 とりあえずなんのことだかさっぱりわからないが褒めてくれているようなので、私は感謝の意を口にした。

「そんな、初級の試験を突破しただけで燃自様や焚楽様の前で褒めていただくなど恐れ多いですわ。まだまだ初めの一歩を踏み出したばかりですので」

 多分私の話を終わらせてしまおうと思ったのだろう、珠南さんは遠慮深くそう言った。しかし父なる人はさらに私に問いを重ねてきた。

「当面は会議の書記をするそうだけど、最終的にはどんな部門で働きたいのかね。彼らに話しておくといい。力になってくれるはずだから」

 父は二人の青年の顔を楽しそうに見比べながら言った。

 部門って……。なんですか。何部門と何部門があるんですか。

 そろそろ限界だった。

 珠南さんが助け舟を出そうと再び口を開いたが、そこから声が出てくるよりも先に銀髪の青年が心底不快げに発言した。

「我々にこの方への力添えを要求されても、それは無理な話ですよ。不正と見做されることではないですか。父上、あまり勝手なことを言わないでもらいたい。……挨拶は済みましたから、私は失礼いたします」

 そして、紫色に輝く長い銀髪をなびかせ、本当に退散してしまった。金髪の青年が立ち上がりながら、弁明のように言った。

「御無礼を。兄は誰にでもああなのです。お気になさるな。では、私もこれにてっ」

 溌剌とそう言うと、彼も部屋から出て行ってしまった。

「……いや、申し訳ない。なに、まだ初日だからね。これから少しずつ、溝を埋めていけばいいことさ。そうだ、お二人のお部屋に、早速案内させましょう。引越しなどでお疲れだろうから、ゆっくり休むといい」

 父となった人はのんびりとそう言った。そして、いつの間にか部屋のドアを開けて待機していた先ほどの高齢女性が

「どうぞこちらへ」

 と相変わらずの素っ気ない表情で私たちを誘った。

 部屋を出ようと振り返った時、ドアのそばに二枚の大きな日本画がかけられていることに気がついた。

 一枚は、戦う戦士たちの上を金色に輝きながら舞う鳥の絵、そしてもう一枚は、男に剣で体を貫かれながら黒い波の上に体を反らせる、大きな銀の魚の絵だった。

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