冥界魑魅魍魎!
猫谷あず季
第1章 八冥神
第1話 山奥の洋館、謎の美女
森だ。
私は思わず呟いた。これが本当の森だと。考えてみれば、森、というものの中に入り込んだのは、生まれて初めてのことかもしれない。
本当にこの方向で合っているのだろうか。こんな鬱蒼とした樹海の中に誰かの家があるとは、とても考えられなかった。
本当に、人が住んでるのかなあ? こんなところに。
ただ、私の今の境遇には、似合いすぎるくらいの雰囲気であることは確かだった。身内と呼べる人はみんな失い、職も失い、世間からも見放された今、私の居場所なんて樹海くらいなものだろう。
生きていられるだけ、ありがたいってもんだよね。
もっとも、自分の生への執着にはほとほと呆れる。こんなにどうしようもない状態になってもなお、死にたくない自分が自分で理解できない。
死んだ方がよっぽど楽なのに。
俯きながら歩いていると、やがて何とも言えない、今まで嗅いだことのない香りが鼻腔をくすぐった。
え?
ふと顔を上げると、そこには大きな洋館があった。
白い石を積み上げて作られた巨大な洋館。ものすごく古いようにも、真新しいようにも見える不思議な家だった。
家の前には、黒い柵が高く聳え立っていた。大きな門の前で、私は立ち止まる。
インターホンも何もない。
どうやって入ればいいの?
困り果てていると、ぎい、と鈍い音を立てて門が勝手に開いたので私は後ろに飛び退いてしまった。
勝手に開いた。勝手に開いた!
見られてるの?
これって、入ってもいいのだろうか? 門が開いたということは、歓迎されていると解釈してよろしいのだろうか?
まあそもそも、私がここで住み込みの家政婦として働かせてもらうというのは決定したことなのだし、時間も間違えていない。入らない方が問題だろう。というか、急がないと遅刻になる。
苦心の末にみつけた再就職先なのだから、それは避けたい。
私は恐る恐る足を進めた。庭には黒っぽい植物が生い茂っている。棘のたくさんついた物騒な植物だ。
なんだか怖いなあ。
足が勝手に震える。
建物の黒い扉に近づくと、扉までもが勝手に開いた。私は泣きたくなってきた。なんなんだろうここは。
まさか幽霊屋敷?
「お入りなさい」
見渡しても周りに人などいないのに、すぐそばで囁くような女性の声が聞こえる。心臓が早鐘を打つ。ああ。
帰りたい。
帰るところなどないというのに。
私は進むことを拒絶する足を無理やり突き出して、建物の中に入っていった。かちり、と音を立てて明かりが灯る。白と黒しか使われていない、シンプルな色調のモダンな玄関だった。かなり新しい建物のように見える。やはり人はいない。
そしてまた、姿の見えない女性は私に耳打ちをした。
「右にある黒いドアを開けて、入ってきて」
限界だ、涙が滲んだ。進んだ世の中ではあるけれど、イヤホンもしていないのに誰もいない耳元で声を出す技術など訊いたことがない。
やっぱり幽霊かなあ。
それでも言われた通り、その不気味な黒い扉を私は開いた。この声の言うことを聞くか、居場所のない「元いた場所」の戻って惨めに飢えていくか、どちらかしか選べないのだから。
その部屋は思っていたより狭いところだった。
壁はお約束のように真っ白で、黒い椅子が二つと、テーブルが一つ。ただそれだけの部屋だった。女性が二人いた。一人は椅子に座っていて、一人は立っていた。
私は座っている女性に目を奪われた。
見たことがないくらい美しい。
とても現実を生きる人には見えなかった。絵画の中から出てきたような、完璧な美しさを持った女性だった。白い肌はほんのりと光を放っているようで、墨で描いたような艶やかで滑らかな髪は見ているだけでそのしっとりとした手触りを想像することができた。そしてグレーに近い黒の目は、濁りがなく真っ直ぐに私を見据えている。
「あなたが、
その人は言った。声まで妖艶だった。間違いなく、何かに選ばれた人だ。特別な人。普通ではない人。私とは全く違う人。
私が答えられずにいると、彼女の
「彼女で間違いありません」
すると、座っていた妖艶な女性はおもむろに立ち上がった。私に近づいてくる。細身で、身長もそれほど高くないのに、妙な威圧感があった。
「待っていたわ。よく来てくれたわね」
そして、優しく微笑みを浮かべたかと思えば、彼女は細く白い手を、私の首筋に伸ばした。彼女の指の冷たさが、私の肌に静かに伝わる。
次の瞬間、彼女の手に力が込められ、私の喉は握りつぶされた。
え?
首を、締められている?
新しい空気が体に流れてこなくなった。脳が、体のあちこちが、膨張して痙攣を起こすのを感じる。
全身全霊で、苦しみを拒んでいるのを感じる。
「心配しなくていい。一瞬で終わる苦しみだわ。すぐにあちらに行けるから、そんなに怖がらないで」
嫌だ。
死にたくない。やめて。
死にたくない。
死んでしまったほうが楽だって、何度も考えた。それなのに、これまでずっと、死を選ぶことができなかった。
どうしてだろう。
両親が、幼い頃に事故で亡くなった。その後引き取ってくれた祖母も、私が高校生の頃に亡くなった。たった十七歳で天涯孤独になった。どうにかみつけた就職先で、一生懸命働いてきたのに、全く関わりのない事件に巻き込まれて何故かその全責任を負わされ、懲戒免職された。何もかもを失った。ひどい二十年間だった。
それでも死にたいと思えなかった。それどころか、どんな瑣末なものに縋ってでもどこまでも生き残りたいという、恐ろしいほどの生への執着心が芽生えた。
どうしてだろう。
そんな感情が、一体自分の中のどこから湧いてくるのか、不思議でたまらなかった。もう何も、私には残されていないのに、なんのためにそんなに生き残りたいのだろう。これまでこれほど強い感情を抱いたことなど一度もないのに、どうして今こんな激情が体を駆け巡っているのだろう。
なすすべなく死んでいく自分が、どうしてこんなに恨めしいのだろう。
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