ずっと二人で。

増田朋美

ずっと二人で。

その日も、暑い日で、どこかの県では、40度まで行ったのではないかと思われる暑さだった。仕方ないといえば仕方ないのだが、それはできればなかったことになってほしいと思われる事態が起きてしまうことがある。なんでそうなってしまうのだろうというか、こんなことあってほしくないというか、でも、どうしても受け入れなければならないということ。それは例えばこんなふうに、、、。

富士山エコトピア行と書いてあったそのバスは、富士かぐやの湯という銭湯の前にある、バス停の前で止まった。一人の若い女性が、そのバスを降りた。普段そのバス停で降ろされるということはめったにないと運転手は変な顔をしていた。そのバス停の周りは森ばかりで、こんなところに、人が住んでいる気配はあるのかなと思われるのであるが、いきなり開かれた土地があって、そこに日本旅館のような建物が立っていた。こんなところに泊まる観光客がいるのかなと思われるが、若い女性は、その建物の正門から、中にはいっていった。一応、その建物の引き戸には、木の看板で「せいてつじょ」とひらがなで書いてあるのであるが、別に鉄を作るような雰囲気はまったくない。その代わり、いくつか居室のような部屋があり、エアコンの室外機の音が、うるさいくらい鳴っていた。製鉄所の玄関にはインターフォンが設置されていない。それは挨拶をするためという理由があるのであるが、最近は、挨拶を軽視する人が多い。

「こんにちは。」

女性は、インターフォンの無い玄関の扉をガラッと開けた。それと同時にはあいはいとでかい声がして、車椅子の車輪を動かす音がした。応答したのは杉ちゃんだった。

「よう、お前さんは、上原鈴代さんだね。あ、今は、違うのか。えーと、今の名前は、、、。」

杉ちゃんは、思い出しながら言った。

「ええ、もう上原鈴代ではございません。小澤鈴代です。」

と女性は、本人の名を名乗った。

「そうか。小澤鈴代さんね。もう姓が変わって何年になるんだ。もうかなり経ってるよな。僕は、勘定できないよ。」

杉ちゃんはにこやかに言った。

「ええ、もう2年になります。杉ちゃん、二年前と何も変わってないのね。相変わらず、黒大島だっけ?の着物を着て、しっかり足袋も履いて、そのオンボロの車椅子に乗って。」

鈴代さんは硬かった表情がちょっと和らいだ。

「ああ、僕らは何も変わらないよ。まあ変わったといえば、食堂のおばちゃんだった恵子さんが結婚してここをやめて、御飯作るのは、僕がやるって言うくらいかな。」

杉ちゃんは相変わらずにこやかである。

「そうなんですか。恵子さんも結婚したんだ。でも、杉ちゃんのカレーは美味しいし、そういうことならしっかりできるんじゃないですか。他の皆さんは、元気ですか?」

鈴代さんはそう聞いた。

「ああ、もう、製鉄所を卒業して、今は新しい連中ばっかだよ。今の利用者は、幸いなところ、みんな安定していて、暑い暑いと言っていながら、元気に通信制高校に通ってるよ。今、夏休みの宿題が多くて、みんなで手伝って宿題やってるよ。ほら、高校の夏休みの宿題って多いだろ。まあ、そんな感じかな。それより、こんなところで話していてもしょうがない。お茶をいれるから、中へ入れ。」

杉ちゃんに言われて、鈴代さんは、お邪魔しますと言って、製鉄所の中に入った。とりあえず、いつも来客があれば必ず通される、応接室に、杉ちゃんと鈴代さんは入らせて貰った。

「ようこそいらっしゃいました。上原鈴代さん。ああ、今は小澤鈴代さんでしたね。確か結婚したことで、ここを出ていったのかな。それでは、小澤さんというより、小澤先生と言わなければならないですかね。小澤豊さん。今は立派な作家になっているのですものね。」

ジョチさんは、そう言って、彼女を出迎えた。

「理事長さんも変わってないんですね。夏は着物の方が良いなんて、すごいこと言ってましたけど、今でも着物を着てらっしゃるんですか。私から見たら、すごく暑そうに見えるんだけどなあ。本当に、それで暑くないんですか?」

鈴代さんがそう言うと、

「ええ、絽の生地は、しっかり暑さをしのげる工夫がしてあります。暑さはあまり気になりません。」

ジョチさんは涼しい顔で答えるのであった。

「そうなんですねえ。着物って、意外に涼しいものなのかなあ。なんかそうじゃなさそうに見えますけどね。」

「ええ。着てみればわかることです。百聞は一見にしかず。それより、あなたは、今日は相談があると言って、ここに来たようですけど、相談ってなんですか?」

ジョチさんは、彼女を応接室の椅子に座らせた。杉ちゃんがその間に、冷たいお茶でもどうぞと言って、車椅子のトレーから、彼女に冷たいお茶の入ったグラスを渡した。

「それで、ご主人、小澤豊さんは元気なの?今でも、書き物して暮らしているのかな。なんか、書かずにはいられないって言ってたから、天才の血が騒ぐとか言って、僕らもからかってたよなあ。」

「そうですね。そういう時代もありました。あたしたちが知り合ったのもここでしたから、それは、ありがたいことです。だけど、こんな事になってしまって。」

鈴代さんは、申し訳無さそうに、頭を下げた。

「はあ、それでなにかあったのか?」

杉ちゃんに言われて、鈴代さんは、申し訳無さそうなかおをした。

「支えてること、話しちまえよ。お前さんはいつまでも自分の中で話をためておくことはできないやつだよ。それは、僕らはちゃんと知っている。だから、楽になるように話しちまえ。」

杉ちゃんに言われて、鈴代さんは、そうですねと話した。

「別にお前さんに限ったことじゃない。人間であれば、誰でもそうなるさ。だからこそ、カウンセルとか、そういうものがあるんだろ。人はみんな悩みがあるから、そういう商売が、流行ってるんだよな。まあ、減らないのもそのためさ。」

杉ちゃんが鈴代さんの肩を叩く。

「そう、でしょうか。」

鈴代さんは言った。

「そうだよ。だって何か悩んだりするときは、誰かに相談するのは当たり前じゃないか。三人よれば文殊の知恵っていう言葉もあるでしょう。だったら、そのとおりにするんだよ。古くからあることわざってのは、そのためにあるもんさ。だから、いつの時代の人間でも、そのとおりにするもんだ。」

杉ちゃんに言われて、鈴代さんはわっと泣き出した。

「やっぱり、ここの人たちは、周りの人達とは違いますね。本当に、みんなすごい人達。あたしも、いろんな人に話をしようとしたけれど、みんなそれぞれの事情があって、私の話なんて、聞いてくれないわ。」

「まあねえ。そういう奴らは、そういうやつだって無視すればいいの。縁がなかったと思えばそれで良いんだよ。本当に聞いてくれる人に、話をすれば良いんだ。」

と、杉ちゃんが言った。すると、鈴代さんは、

「そんなこと、誰が決めるんですか!聞いてくれるかなと思った人を、虱潰しにあたってみたけど、そんな人ひとりもいませんでしたわ!あたしの家族も、友達も、みんな用事があって、私が相談したいと思ったときには、あとにしてくれあとにしてくれって言って、誰も聞いてくれないんですよ!」

と泣きじゃくった。

「まあなくもんじゃない。そういうことなら、聞いてくれる人を探すんだ。今は、ホームページを開いているカウンセルの事務所なんて、星の数ほどあるじゃないか!」

杉ちゃんがいうと、

「杉ちゃん。きっとなにか、理由があったんですよ。まず初めに、彼女が誰にも聞いてもらえなくて辛かったことを、聞くことから始めましょう。」

ジョチさんが優しく言った。

「ごめんなさい。ここを終の棲家にするなってさんざん言われてきたのに。又戻ってくるような話になってしまって。本当はこれっていけないことですよね。製鉄所のルールを破っていることですよね。でも私、どうしても誰かに話したくて、水穂さんだったら、何を言ってくれるかなって、それでここに来たんです。」

「申し訳ないですが、水穂さんは寝ています。しばらく動かしては行けないと言われたばかりですので、お話はできません。」

ジョチさんはそこは淡々と言った。

「そうですか。じゃああたしがここにいたときよりも。」

「まあねえ。暑さが年々厳しくなってきますからね。お辛いんだと思いますよ。本人に回復する力があるかどうかですよね。それは、僕らにはどうしてもわかりません。きっと他の誰かにもわからないと思いますよ。まあ、医療関係者だったらある程度予測できるかもしれないけど、でも、それだって人間のすることですから、宛になるかどうかわかりません。事実としては、水穂さんは二年前より弱ってしまったということですかねえ。」

「そうなんですか、、、。あたしが、一番頼ろうとしている人は、そうなってしまったんですか。なんか嫌ですよね、世の中って。そういう、いてほしい人がどんどん消えていって、一緒にいたくない、嫌な人ばかり残っていくんです。それが、だんだん多くなっていくんですね。」

鈴代さんは、ジョチさんの話に申し訳無さそうに言った。

「まあ人生なんてそんなものですよ。それに、なんで水穂さんに話を聞いてもらおう思われたのでしょうか?だってあなたには、小澤豊さんという、とても優しい人がいてくれると思いますが?」

ジョチさんが不思議そうに言うと、

「ええ。そうなってくれれば、そうなるはずだったんです。だけど。」

又鈴代さんは泣き始めた。

「はあ。何だ、裏で暴力でも振るうようになったとか?」

「それとも、あなたのことを監禁するとか、そういうようなことをするようになったということですか?」

杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせたが、

「違います!そういうことじゃないんです。そんなことができるような人じゃないって、あたしはちゃんとわかってます。暴力とか、そんなものとは全然縁のない人だってことはあたしはよく知っています!」

と、鈴代さんは更に泣いた。

「それなら一体どういうことですかねえ。もしかして、、、?」

とジョチさんは言ったのであるが、

「もうさあ、止まってないで、支えてること、話しちまえ!ほら早く!」

杉ちゃんがヤクザの親分みたいな言い方で、そういったため、鈴代さんも覚悟を決めてくれたのだろう。一つうなづいて、こう話し始めた。

「豊が、作家として、一生懸命やってくれたのは、結婚して一年半くらいの間だけで、その後すぐに、くも膜下出血でおかしくなってしまって、もうただの人になってしまったんです。だからあたしが、これから豊も私も支えていかなくちゃいけなくなって、だからどうしたらいいかわからなくなってしまったんですよ!」

「そうなんですね。」

ジョチさんは、彼女に静かに言った。

「そうなんですねしか、言いようが無いです。それだけ、つらい思いをしてきたでしょうから。それで、今困っていることはなんですか?金銭的なことですか?それとも、介護者を雇いたいとか、そういうことですか?前者であれば、銀行などに相談すれば良いと思いますし、後者であれば、市役所の障がい福祉課などに相談してみてはいかがでしょう。」

「やっぱり、理事長さんもそう言われるんですね。」

鈴代さんは、そうジョチさんに言った。

「そういうふうに答えを出してくれる人は、いるんですけれど、あたしは、あたしが望んでいることはそういうことじゃないんです。動かなくちゃならないのは自分でもわかるんですけど、その前にこの気持ちをどうしたらいいのかについては、誰も教えてくれないんですね。この気持ちを、消し去ってしまわなければ、次の段階なんて全然進めないって、偉い人たちは言うんですけど、私はどうしてもそれができない。だからだめな人間なんじゃないかって気持ちがして、それでここに来たんですよ。」

「うーんそうですか。でも僕らが出す答えも、結局そういう事になってしまうんですよね。それは、誰でもそうなると思います。まず初めに、あなたが何に対して、大変なのか、をはっきりさせましょう。漠然と不安になっているだけでは何も解決への道はありませんから。」

ジョチさんは、そう役人らしくそういった。

「じゃあまずですね。鈴代さんが、何に対して不安なのか、を、聞いてみたいので、なにか、豊さんがくも膜下出血で倒れたあとおきた具体的な出来事を一つ話してくれませんか?」

「そうですね。豊が、もうなんにもかけない人になってしまって、これからただの人として生きていけるかが、ほんとうに不安なんです。」

鈴代さんはそれしか言えないようであった。

「じゃあ、こちらから聞きましょうか。金銭的なことはどうしているのですか?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、少なくとも、あたしも精神疾患で障害年金とか受けてるからそれでなんとかなるかなと言う感じです。あと、どうしても困ったら、生活保護を申請してもいいって、役場の方には。」

と、鈴代さんは答えた。

「ああそうか。それなら銀行に相談することは無いわけか。それで、介護する人手不足で困ってる?それとも、誰かに来てもらうこともできないわけでは無いと思うけど?」

杉ちゃんがいうと、

「ええ。とりあえず、言葉とか、声とかには問題ありません。そこは出血していなかったようです。だけど、足が不自由になってしまって、歩くのにちょっと不自由なんです。手は、何も無いんですけどね。でも、これから私はどうしたらいいのか本当に不安で。誰かにいてほしいというか、そんな気持ちなんです。」

と、鈴代さんは答えるのであった。

「なるほどねえ。まあ、とにかくだな。当たって砕けろというか、やってみなくちゃわからないということだと思うからさ。そういうときには、なるようになるさっていう気持ちで、風に任せておけばいいくらいの気持ちでいたらどうかな。ちょっとくらい大きなことがあったら、その都度何ができるか考えればいいくらいの気持ちでいたほうが、良いと思うよ。てか、それしか答えは無いよなあ。そうだろう。ジョチさん。」

杉ちゃんが笑顔でそう言うと、ジョチさんも杉ちゃんに同調してそうですねといった。

「まあ、焦ってなにかしようとか、そういうことはしなくても良いと思います。杉ちゃんの言う通り、風に任せて。」

「だけど、あたしには、ずっと主人の世話をする人生になってしまうのでしょうか。あたしは、それも辛くて。まだ私自身やるべきことがあったんじゃないかって、そう言ってくれる人もいたから。それもあるなって思って。」

鈴代さんはそう杉ちゃんに言った。

「いや、それは考えないほうが良いと思う。結婚したんだから、ある程度自分の人生は、捨てたようなところもある。そこはごっちゃにしてしまわないようにね。ずっとふたりでってことは、そういうことでもあるんだぜ。」

杉ちゃんが年を押すように鈴代さんに言うと、

「やっぱりそうですよね。ごめんなさい。余計なこと言って。」

鈴代さんはそういうのであるが、なんだかつらそうだった。しばらく鈴代さんは、なにか考え込んでいる様子であったが、

「あの、本当に水穂さんと話をさせていただくわけにはいきませんか?」

と小さな声でいった。

「甘えているのはわかるんです。だけど、どうしても、気持ちが前へ進もうと言う気になれないんです。確かに、早く決着をつけろとか、堂々巡りはやめろとか言われるんですけど、だけど、どうしてもそれができないであたしは更にだめだと言う気持ちになってしまうから。このままではあたしも、だめになります。そうならないためにも、水穂さんに一度あわせてください。」

「いや、無理だねえ。あいつは動けない。」

杉ちゃんはそういったのであるが、ジョチさんは、考えを改めてくれたようで、

「ちょっとこちらにいらしてください。」

と、小澤鈴代さんを立ち上がらせた。そして、こっちですと言って、製鉄所の長い廊下を歩かせて、一番奥にある、四畳半に連れて行った。

「水穂さんすみません。眠りたいのはわかっているのですが、彼女がどうしても水穂さんの顔を見たいというものですから連れてきてしまいました。ちょっと顔だけ出してやってくれませんかね。」

ジョチさんはそういいながらふすまを開けた。水穂さんは、布団に起きようとしたが、力がなくて、体を起こすこともなかなかできなかった。なんとか咳き込みながら、布団の上に座ってくれたのであるが、それで精一杯という感じだった。もう本当にちからがなくて、げっそりと痩せていた。たった一言だけ、

「ごめんなさい。」

というのがせいぜいと言ったところであった。でも、それだけやつれていても、どこかの外国の映画俳優さんにありそうな美しい顔であることは少しも変わらないところが不思議に思うくらい、きれいな人であった。

「謝るのはこっちですよ。座っているのも辛いのに、起きてくださって申し訳ありません。あたし、水穂さんだけは、あたしの気持ちを受け取ってくれるかなと思って期待してここに来たけれど、大間違いだったんですね。」

と、小澤鈴代さんはわっと泣き出した。それを止める人もいなかった。こういうときは、泣けるだけ泣いてしまったほうが返っていいということをジョチさんも知っていた。水穂さんが、泣いている小澤鈴代さんを無視しないでじっと見ている、いや、それしかできなくなっているというのが、悲しいものであった。しばらく、鈴代さんが泣いている声が製鉄所に響いていたが、次第にそれも静かになった。

「ごめんなさい。」

鈴代さんは小さな声で言った。

「こういうときは、なるようにしかならないのですよね。あたしも、ジタバタするのはやめて、何があっても、受け止められるような生活に切り替えたいと思います。本当にごめんなさい。」

「無理しなくて良いのです。何かあったら、専門家に聞くとか、ご自分だけで対処なさらないように。」

ジョチさんは静かに言った。

「はい。決していたしません。」

鈴代さんは、なにか決断したように言ったが、いつの間にかやってきた杉ちゃんが、

「そうやってさ、何でもしないって決断しちまうと、できなくなったときに又自分を責めちまうよ。それより、今は風に任せて於けば良いってことを考えよ。」

と、鈴代さんの肩を叩いた。水穂さんが、もうつかれた顔をしていたが、それでも鈴代さんを見てくれていたのが、なんだかいじらしかった。

ずっと二人ということは、そういうことでもある。

こういうときこそ、このずっと二人でと言う言葉の意味が試されるのかもしれない。




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ずっと二人で。 増田朋美 @masubuchi4996

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