19

 夫は夜中まで帰らない。姉が言った言葉の中で、確かに本当だったのは、それだけだった。

 真夜中、畳の上に膝を抱えていた俺は、スマホを鳴らした姉からの電話を、飛びつくみたいにして取った。

 「姉ちゃん?」

 姉が帰宅してから、何時間経ったか数えるのもやめていた。不安も消えて、あるのは虚無感だけだった。なにもなくなった胸の中で、姉からの電話はまだ嬉しいのが不思議なくらいだった。でも、確かに嬉しかったのだ。姉からの着信は。まだ、姉には俺と連絡を取る意思があると。

 『……祐樹くん?』

 しかし、電話の向こうから流れてきたのは、姉の声ではなかった。もっとずっと低く、疲れきった男の声。姉の、夫。

 やっぱり姉は、現実に引き戻されたのか。

 俺はそう思い、一思いに電話を切ろうとした。それを引き留めたのは、姉の夫の、どんよりと淀んだ低い声だった。

 『待って。切らないでください。』

 責められるのだろう、と思った。姉を連れ出そうとしたことを。姉を思いきれないことを。姉をまだ愛そうとしたことを。

 それでも電話を切らなかったのは、姉の夫の声に、俺を非難するような色がないことに、一拍遅れて気が付いたからだ。

 このひとは、ただただ疲れている。ずっと身体の奥の方、決定的な場所が、完全に疲れきってしまっている。

 俺にも、その種の疲労には覚えがあった。昔、姉を抱いた後、身体の奥、決定的な、手の施しようがない所が疲れきって、どうしようもなかった。俺はそんなとき、いつもこうして、この畳の上に膝を抱えて、飽かず時を過ごした。

 「……なんですか。」

 白々しいだろうか。姉を、この人の妻を連れて逃げようとした男の、こんな台詞は。それでも、それ以上の言葉は思いつけなくて。

 また、少し、無言の間が開いた。電話の向こうで、姉の夫が長い息をついた。ため息、と呼ぶのさえおこがましいくらい、長くて重い、呼気だった。そして、ぽつん、と、そのひとは言った。

 『妻は、死にました。』

 妻、という単語と、姉の姿を結びつけるのに数秒の時間がかかった。そして俺は、ようやく動揺した。

 「え?」

 妻が、死んだ? つまり、姉が? 俺の姉が、死んだというのか?

 現実に引き戻された、と思っていた姉の白いワンピースを着た後姿が、急に真っ暗闇の中に消えていく。ぐるぐると渦を巻く暗闇の中に飲み込まれ、まっさかさまに落ちていく。

 

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