18

 しばらく、どちらもなにも言わなかった。場を沈黙が支配した。真夏の日差しはまだまだ真昼の様相で、黄ばんだ畳を照らし出していた。

 俺は、肩先に置かれた姉の指先を見ていた。マニキュアをしなくなったんだな、と、今更思った。夜の仕事をしていた頃、姉の爪はいつも色とりどりに彩られていた。それが今は、色を失って、こんなに爪が乾いている。

 「祐樹、一緒に遠くに、行きましょうか。」

 ぽつん、と、姉が囁いた。やはり、これまでのどんな姉の声でもない、色のない声をしていた。

 一緒に、遠くに。その響きは、甘美だった。俺はずっと、それを望んでいたのではないかと思えるほど。姉と二人で、誰も知らない土地に行く。傍目からどう見えるかなんて関係ない。姉弟でも、母子でも、娼婦と情夫でも、構わない。ただ二人で暮らす。今なら俺だって、あの頃ほど姉に負担はかけないはずだ。子どもの頃とは反対に、俺が姉を養うことだってできるかもしれない。

 泣きたくなった。ただこれだけのことをできずに、こんなに長い間離れて暮らしていたのかと思うと、二人で暮らした先に、セックスがあるのかないのかさえ、どうでもいいと思えた。離れて暮らすことが不自然だった。だって、俺たちはこの世に二人きりなのだ。セックスなんて、大した問題じゃない。

 「行こう、姉ちゃん。」

 俺は、肩に乗った姉の手を掴んだ。もう離さないと、くっきり思った。

 姉が、頷いた。ゆっくりと、なにかを振り払うみたいに。

 「荷物をまとめて来るわ。」

 姉が言うから、俺は首を横に振って姉を引き留めた。

 「旦那さんが家にいるんだろ?」

 姉は少し笑ってそれを否定した。

 「仕事よ。」

 「……でも、もしかしたら戻ってくるかもしれないし。」

 少しでも、姉を失う可能性のある行動は避けたかった。夫が戻ってこないとしても、ごく普通の生活を送っていたあのマンションに帰れば、正気に戻った姉は、弟と駆け落ちするだなんて話を、ただの笑い話に変えてしまうかもしれない。日常生活というのもは、多分それくらいの威力を持っている。

 「大丈夫。夜中まで戻らないから。」

 姉は、俺を安心させるみたいに微笑んだ。

 「すぐ戻るわ。身の回りの物を少し、持ってくるだけ。」

 「じゃあ、俺も行く。」

 「祐樹も荷物をまとめておきなさい。」

 「……でも、」

 「大丈夫。」

 すぐ戻るから、と繰り返した姉は、ハンドバッグを持って立ち上がると、あっさりサンダルを履き、じゃあ、後でね、と手を振って、そのままアパートを出ていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る